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スポッティング・スコープ
いつも君を見ていた。
初めて君の姿を見た時、僕は恋に堕ちた。
すらりとした長身に、ゆらゆらと振れる腕。細い腰に乗っかった広い背中。そんなアンバランスさが危うげで、目が離せなくなった。
たとえそれがモニター越しだったとしても。
それがいけない事だというのは、辛うじて分かっていた気がする。
でも止められなかった。自分で動く事は叶わないけれど、それでも僕は君が欲しかった。
電車を待つ駅のホームでスマートフォンに目を落とす君の姿を、僕は今日もモニター越しに見ていた。
「最近は街中どこにでもカメラがあるんだ。これで好きな場所を見るといい。絶えず移ろいゆく外の景色を眺めているのは、退屈しのぎになるだろう?」
そう言われた当時の僕は、着々と部屋にモニターを運び入れては組み立てていくロボットのような作業員たちを恨めしく思って、睨み付けていたものだ。
どうして僕以外は、自由に動けているのだろう?自分の脚で立って、歩いて、手を動かして物を掴む事ができるんだろう?僕は指の一本すら、思った通りに動かせないのに。
そんな疑問ばかりが浮かんで、苛立ちは募って、けれどそれを発散する事も出来なかった。僕はもう動けないし、話せない。生きている気がしなかった。
外に出られなくなってからというもの、当たり前だった事が当たり前ではなくなってしまった。もっとも、外に出られなくなってかなりの年月が経った今では、その当たり前すらどんなものだったか思い出せないほどだけれど。
外に出られなくなってから今までの記憶が曖昧なのは、記憶に残しておくべき事が何も起こらなかったからだ。あまりにも刺激の無い生活を送っていると、時間の感覚はおろか、自分が生きている事への確証さえ持てなくなってしまうんだ。生きる意味に至っては、考えるだけ無駄だ。無駄に時間を過ごしている僕が、無駄だと感じて考える事を諦めるほどにね。
それでいて身体に覚える言いようのない不快感は常にある。けれど、自由に動けていた頃の記憶も薄れていく一方だ。
父は莫大な額を注ぎ込んで、こんな僕を生かそうとしている。今も目の前にあるこの立派な設備は、一人息子である僕に少しでも娯楽を、刺激を、と考えた結果らしい。あまりにも安直で、表情筋を動かす事ができれば笑ってしまいそうな発想だけど、彼は彼で真剣だったんだ。
リアルタイムで映像を見られるという事は、そこにあるカメラの先に広がる世界と繋がれるという事だ。そうして父は僕に、ありとあらゆる世界を与えてくれた。
今となっては、それは僕の力でもある。父が僕に与えてくれた力をもってすれば、わざわざ外に出なくても、こうして目の前に、小さな駅のホームに取り付けられたカメラの映像さえ映し出す事ができるんだよ。
小さい頃から、欲しい物は何でも与えてくれたし、知りたい事は何でも教えてくれた。子供の為なら手段も厭わず、金にも糸目を付けない人でね。
そんな風に甘やかされて育った僕だが、たった一つだけ叶えてもらえなかった望みがある。何か分かるかい?
自分で人生を終わらせる事だ。
親に作ってもらった命とは言え、それを失うのにも親の許可が必要だなんて。そんな理不尽な話もあるんだね。
お陰で僕は今、こんな有り様で、唯一動く左腕の肘から下の部分だけで、不憫にも自分を慰めなくちゃならないんだ。それまで何不自由なく暮らしていた人間が、そんな人間としての尊厳すら危うい生活を何年も続けてごらんよ。頭がおかしくなっても仕方がないと思わないかい?
けれどようやく、その事に少しは感謝できるようになったんだ。だってこうして、君を見つける事ができたから。
幸いにも目は見えるし、音も聞こえる。瞬きもできるから、起きている間中ずっとモニターを、モニターに映る君の姿を眺めていられるんだ。
君の名前は楠野 遥。都内の一流企業に勤める会社員で、最終学歴はそこそこ名の通った公立大学。電気工学に興味があって、大学進学を機に上京し、そこで学んだ事を生かせるようにと現在の会社に就職した。
趣味は会社の仲間と楽しむフットサルで、週に2日はトレーニングジムに通っている。そのジムから徒歩7分の場所にある1LDKのマンションに一人暮らし。ペットは飼っていないけど、犬が好き。犬を連れて散歩している人にはついつい話し掛けてしまうほど、他人と接する事も好き。そんな君が仕事で使う名刺は、大学時代の先輩から貰った名刺入れに入れている。几帳面な君は名刺を切らす事の無いよう、毎日決まった枚数を入れるようにしている。その名刺に書かれたハルカという女の子のような名前を、少し気にしている事も最近になって知ったんだ。
身に付けた知識に裏打ちされた自信からくる堂々とした話しぶりと、爽やかな笑顔で、自社の製品の特徴を上手に伝えるその姿は見ていて気持ち良くなる。君はまるで新入社員のようにフレッシュで、それでいて勉強熱心で、よく頑張っているね。その利益がきちんと君自身に還元されているかどうかは、会社の内部を見てみないと分からないけれど。
営業マンとしての売上も好調、真面目で誠実そうに見える君は、やはり裏の顔を持っていたようだ。人間、そんなに完璧には出来ていないもの。
君はとんでもないビッチだ。
月に何度かふらりと出掛けては、いつも違う男と寝ている。たまに自分の家に連れ込む事もあるようだ。それが君の裏の顔であり、いま流行りの副業というやつなんだと知るまでに、僕は君の乱れた姿で何度か失神するほどの天国と地獄を味わった。
君の性的シコウというものまでは、まだ把握できていない。頑なに口にする事を避けているみたいだ。君を初めて見た時から、半年に亘って尾行を続けても、そういう話をしている現場や、それを裏付ける証拠は押さえられなかった。話を逸らすか、その場からすうっと居なくなってしまうか、はたまた口を噤んで愛想笑いを浮かべたまま、だんまりを決め込むか。女性の影は見られないが、自分が"そう"である事も認めようとはしていないみたいに見えた。
とにかく君は会社にその事を隠しながら、男性にサービスをする男性として風俗店に籍を置いている。これは紛れもない事実だ。副業をしている事は百歩譲って話せても、内容までは到底言えそうにないらしいね。
副業をするにしても、どうしてわざわざそんな仕事を選んだのか?
良い大学を出て、良い会社に勤めている身だ。パッと見、金銭的に不自由しているようには見えない。ギャンブル依存症でもないし、田舎でいちご農家を営むご両親や、一回り年の離れた弟さんのために仕送りをする必要に駆られているのでもない。
むしろそうであって欲しかったと言ったら、まずいだろうか。その方が僕にとっては都合が良かったのだ。だってもしそうだったなら、僕の力は容易に君の悩みを解決してあげられるから。そうして君に恩を売る事だってできたのに。世の中というのは上手くいかないものだ。
ではなぜ、君は体を売る事を選択しているのか。その理由は明快。君がとんでもないビッチだからだ。
君は客として自分を指名してきた男と、店に内緒で連絡先を交換しては自分の部屋に連れ込むというのを繰り返している。
本当に相手に対しての気持ちがあるのかは、分からない。気が多いタイプなのかも知れないし、体の関係だけで満足できるタイプなのかも知れない。男を取っかえ引っ変えする事で、自己肯定感を得たり、承認欲求を満たしたりしてしまう考え方の持ち主なのかも知れない。
高性能の監視カメラでも、高解像度のモニターでも、心の中までを見透かす事ができないのが、現代における技術進歩のもどかしいところだ。
けれど、どれだけ精度の高い機材を使っても、君の本当の気持ちを知る事ができないという事実が、ますます僕を興奮させてくれた。手に入らないとなると、余計に手に入れたくなってしまう。逃げられると追い掛けたくなるというのが、男心というやつなんだ。
正直なところ、君が誰を好きになろうと構わない。誰かを嫌いでも、誰にも興味が持てず、心が動かされなくても構わない。
僕は君の姿さえ見られれば良いのさ。君を手に入れたいとは思うが、どう足掻いたって君の心まで奪ってしまえるとは思ってもいないから。
僕は君のありとあらゆる姿を見るため、君についてのありとあらゆる事を知るため、自分の持つ力を惜しみなく使ってきた。
初めて君の姿を見つけたあの日、海外の美しい街並みを見飽きた僕がザッピングして切り替えた画面は、何の変哲もない住宅街の日常を切り取っていた。そのコンビニエンスストアの軒先に取り付けられた監視カメラは、駐車場から店の入り口の付近を映していたんだ。そんな場所に興味なんて湧く筈もない。ただ単に、ボタンが指に当たったに過ぎなかった。けれど次の瞬間、目に飛び込んで来たのは、今までに世界中を見て回った僕が、思わず息を呑むほど美しい君だったわけだ。
いっそ運命とさえ呼べる誤作動じゃないか?
初めは不鮮明で途切れがちな映像で、身体のラインしか分からなかった。けれど店内の監視カメラは外のより幾分か性能が良くて、君の顔を見る事ができた。切れ長な目に、しっかりと通った鼻筋、端が少し丸まった口元を見て、まるで辛い治療を受けている時のように、胸が強く締め付けられた。苦しかった。けれど不思議な事に、それが心地よいと思えたんだ。
すぐに恋だと分かった。そうして僕は、君に一目惚れしまったんだ。最後に恋をしたのはいつだっただろう?いや、今までのは恋では無かったのかも知れない、こんな気持ちになったのは人生で初めてかも知れないとさえ思った。
この人が欲しい!と僕は咄嗟に強請った。じたばた藻掻いて、モニターを色が変わるほど叩いて、言葉にならない声で喚いた。思い出しても恥ずかしくなるような、久々のおねだりだったよ。後にも先にも、これほどまでに強く何かを求めた事なんて無かったんだ。
程なくして君を見つけ、後を追って、家を突き止めたのは僕の優秀な部下だ。それからマンションの管理会社に連絡、家の鍵を手配し、専門の業者が君の留守中に隠しカメラを取り付けた。君が家中の何処に居ても、何をしていても、僕にその美しい姿が見えるように。君は背が高いという事も伝えて、顔がきちんと写るようにしてもらった。せっかくの素晴らしい被写体が、アングル次第でダメになってしまうなんて勿体ないだろう。
それから、君が外に出る時はいつも僕の部下がつくようにした。誤解しないで欲しいのは、これは君が何をしているのかを知るためであって、君に変な虫が付かないようにするなどと言った、おこがましい思い上がりなどは一切ないという事だ。ビッチな君はむしろ、寄ってきた変な虫さえも好き好んで食べてしまうだろうしな。
だから僕自身は勿論、僕の部下たちも君の交友関係に干渉はしていない。もういい大人なのだから、自分のものでもない相手の行動に口出しする権利なんて無いという事くらい理解しているからね。
それから僕は部下たちに言って、彼らの目線の高さにカメラを着けさせた。リアルタイムで映像を送信する事もできるし、それを録画しておく事もできるスグレモノだ。その映像があれば、少し画面酔いはするものの、まるで本当に外を歩いているような錯覚を覚える事ができた。
だから僕は君の表の顔も、裏の顔も、全て見る事ができていたんだ。
表の君・楠野 遥が勤める会社の管理業者も、裏の君・ナツキが勤める風俗店も、建物内にある監視カメラの開示にはあまり前向きではなかったようだが、言い値で示せばすぐに映像を提供する事に同意してくれた。
やはり一流なのは市場における業績だけで、金に目が眩んで簡単に社員の個人情報を売るような会社だ。先は長くないと思うよ。見切りを付けるなら若い内が良いんじゃないかな?
ついでに言うと、君を指名した客のうちには何人か、こちらで用意した眼鏡型やボールペン型、あるいはバッグに穴を開けて取り付けた隠しカメラを持ち込んでプレイに望むという猛者も居たよ。もちろん謝礼は弾んだ。撮った映像データは流石に分けてあげなかったけど。
ちなみに僕が失神したのはそれらから回収した映像を見て果てた時と、君が家に連れ込んだ男の上で、首輪を着けられ、手を縛られたまま腰を振っているのを見て果てた時だ。
今更ながら、君は僕を知っている筈だ。
僕も君を指名した事があるから。もっとも、ビッチな君のことだから、一度指名した程度の相手の顔や名前、存在なんて覚えていないかも知れないが。
玄関を通された時、君が緊張した様子で落ち着かなさそうに左腕をさすっていたのさえ、僕はしっかりと覚えているよ。その時の映像は何度も何度も繰り返し見ているしね。特に執事が僕の元へ案内しようと声を掛けた時、君はシャンデリアの下に飾ってある趣味の悪い彫刻をしげしげと眺めていた。そのまるで芸術に造詣の無さそうなのが丸出しな表情は、可愛らしくてお気に入りなんだ。
恐らく君はうちに来た時、色々なことに驚いたと思う。これまで君を指名した、ないし君を抱いてきた男たち。その全てを調べ上げたとしても、こんな暮らしぶりをしている者は居なかっただろう。
店に雇われたスタッフではなく、名の知れた海外製のブランド物の制服を着たお抱え運転手が転がす高級車に乗せられ、こんな人間が暮らしているのが不釣り合いなほど豪華な洋館に通されて、落ち着かなさそうにしていた君。明るく煌びやかな照明、掃除の行き届いた壁や床に、使い切れないほどの部屋の扉と数々の芸術品が並んだ廊下。窓も鏡もピカピカに磨き上げられ、どんな角度の君さえも鮮やかに映した。この言葉を自分で使うのはあまり好きではないけれど、金持ちというのはこういうものだ。
僕はその中でも一番奥、ロマンティックかつハイセンスに飾り付けてもらった特別なベッドルームで待っていた。君が着くまでの様子は全てモニター越しに見ていたが、流石に本物の君を前にしてパソコンを眺め続けるのは失礼だと思ったから、君がベッドルームに入ってくる前に片付けてもらった。
部屋に入って来た時、間違いなく君からは後光が射していた。明るい廊下から薄暗いベッドルームに入ってくる君の表情はシルエットになって、よく見えなかった。いや、君自身が眩しいほど光り輝いていたのかも知れない。
僕の姿を見て、驚かない筈が無いのだ。健康で素直な表情筋を無意識の内に強ばらせ、嫌悪感を抱いたり、少なからず後ずさったり、何ならその場から逃げ出したりされる可能性だって考えた。こんな人間と肌を合わせるなんて、幾ら仕事でも、お金の為でも、仮にセックス依存症だとしても、拒む方が賢明だと、自分でも思うよ。
でも僕が君の表情を認識できるほど、明るさに目が慣れる頃には、風俗店のボーイ・ナツキとして百点満点の笑みを浮かべてくれていた。それが嬉しかった。君は何て優しい人なんだろう。本当に感動したよ。僕のハートを一目で撃ち落とした君は、その見た目だけでなく、心まで美しい人だったんだ。
それから君は、機械的なまでにあっさりと服を脱いだ。露出趣味は無いようだから、お金さえ貰えれば見知らぬ相手の前で裸になる事も厭わない、そんな割り切った精神も立派だと思う。
こちらの注文通り、ジム通いで鍛えられた自慢の裸の上には、赤い縄で菱縛りがしてあった。マニアックな趣味に造詣のある同僚が居て、助かったね。
君の肥大した大胸筋に縄が食い込んだ様はこれ以上ないほど性的で、後頭部が痺れ、首筋や腋の下に汗が吹き出してきた。
君は迎えの車に乗る前に準備をしてから、この部屋に通されて服を脱ぐまでずっと、そんな姿をしていたんだ。そしてその事実を知っているのは世界中で、君自身と、僕の注文を引き受けてくれたスタッフ、実際に君に縄を掛けた同僚のボーイと、そしてこの僕だけだ。そう思うと興奮して、居ても立ってもいられなくて…ベッドに寝たきりの僕がこんな風に感じるのはおかしいかい?
舐め回すように見つめる視線に気付いた君は、ようやく少しだけ照れたような表情を浮かべて俯いた。
その仕草がとてつもなく愛らしくて、君を、帰したくないと思った。まだ初めて顔を合わせたところだと言うのに、そんなことを思わせるなんて、君は人から愛される術を心得ているんだと感心さえさせられた。
それから君は礼儀正しく赤いカーペットに膝を突いて、頭を下げた。他の誰でもない、この僕に向かって。
「改めまして…本日はご指名ありがとうございます。ナツキと申します。」
いつもスピーカー越しに聴いていた声より少しだけ高く、滑舌の良い話し方は、直接耳にすると鼓膜だけでなく脳までも震わせるようだった。それだけで息が上がるのを自覚した。
裸になった体に赤い縄を巻き付けて、深々と頭を下げるその態度は何ともちぐはぐで、慇懃無礼でさえあるかも知れない。でもきっとそんな真面目な所も、ナツキとして働いていても隠せない、君自身の良さなんだろうね。
僕が満足に話せない事や、自分の意志で動くこともできずにいるという事は予め伝えても構わない、その方が都合が良いだろうとしていたから、それなりの予想はついていたのかも知れないね。
君は頭を上げると、真っ直ぐに僕を見た。背の高い君の上目遣いなんてなかなか見られるものじゃないから、どきりとした。
「座っても、よろしいですか?」
僕が頷くと、君はチューブを踏まないように気を付けながら、ベッドに腰を下ろした。それから上体を捻って僕の方を向き、にっこりと笑顔を作って
「すごいお家ですね、ビックリしちゃいました」
例えその言葉がお世辞だったとしても、この家が自分の物でありながら自分が何かをして手に入れたわけではない物だったとしても、他人と言葉を交わすのも数年ぶりだった僕にとっては感激だったんだ。
「普段はホテルが多いんですけど…こんな立派な所に招いてもらったのは、初めてです」
だから緊張しちゃって、と笑顔を作って見せる君に触れたいと思った。頭を撫でたり、髪を梳いたり、頬に指を滑らせたりと。他の男が君にそうしているのを、僕は何十回と見てきた。自分も同じようにしてみたいと思うのは自然な事じゃないか?
けれどそれが出来なかった。したいと思っても、腕が動かないのだ。
結果的に、君は僕を満足させられなかった。精神的にではなく、肉体的な意味でね。
こんな管が排泄以外に使われる事が無いとでも思ったかい?残念ながら、こんな風になってしまっても男は男なんだよ。
満足できなかった件に関しては僕に非があるだけで、君は何も悪くない。君は時間内に自分のできる事をよくやってくれたし、店にクレームの電話なんて、入れていないからね。
そうしてその時に気が付いたんだ。念願だった君をようやくこの手に抱く事ができたというのに、どうして満足する事ができなかったのか。
僕はモニター越しの君に惹かれていたんだ。
長い間とある条件下でその行動をしていると、その状況自体が刷り込まれて、いつしかその条件下でないと興奮できなくなってしまうと言う。
どうやら僕にとっては、それがモニターでの監視だったらしい。監視カメラや、隠しカメラ越しに乱れる君を見てばかりいたものだから、いざ生身の君に触れられると全身に寒気が走り、目の前に広がる現実と具現化された妄想の区別も付かなくなって、サービスどころではなくなってしまったのだ。
いわゆる刷り込みと呼ばれるその現象の所為で、僕は君に恥をかかせる形になってしまった。どんな男でも口説き落としてきたであろう君に、不可能に近い案件さえ成功に導いてきた君に、与えられた任務を遂行できなかったという意識を植え込んでしまったに違いない。それが本当に申し訳なくて。
君は間違いなく魅力的だし、何一つ悪くないんだということを改めて伝えておきたい。
僕は接触恐怖症と、性嫌悪症を併発していた。きっかけになった出来事は誰にも語りたくないし、語る必要も無いけれど、とにかく他人に触れられる事や、直接的な交わりは必要としていなかったみたいだ。入浴や排泄の介助なら何とも思わずしてもらえるようになったのに、不思議なものだね。
それなのに君を風俗店のボーイとして指名して、家に招いてしまったというのは全く愚かだったと思う。自分のことは自分が一番よく知っている筈だった。でも、君となら大丈夫なんじゃないか、なんて期待もあった。それが甘かったのだ。
おまけに覗き趣味、精神医学的に言えば窃視症が加わっていて、チューブの両脇から普段以上にはしたなく涎まで垂らして拝むであろう君の裸を、直視し続ける事すらできなかった。触れるなんてもってのほかだ。
自分が君から見られているという状況も良くなかった。僕が一方的に君を見ているのはいつもの事だけど。ふとした拍子に、そうとは知らずカメラ目線になる君の顔なら何度も見た事があって、それ自体はスクリーンショットとして切り抜いて保存してしまうほど好きだけど。擬似的に目を合わせながら、笑った時や愛を囁く時にはきちんと相手の目を見るところが素敵だな、なんて感じる事もあったんだけど。
君の視線の先に、他の誰でもない自分が居る。君から視線を直接向けられていると思うと、今以上に頭がおかしくなりそうだったんだ。
仄暗い中に浮かび上がる君の裸、背にした天蓋を仰ぐ時に見える喉仏の影さえ、噛み付いてしまいたいほどの魅力に溢れていた筈なのに。汗の伝う額の下、振り乱される髪の隙間から見える鋭い眼光の中、眼球の曲線に沿って放たれる輝きの中央に、この世の醜い部分を全て凝縮したような自分の姿が転写される事実に耐えられなかった。
心から望んだ筈のシチュエーションは、僕の性的シコウには都合が悪かったみたいだ。
だから僕は、君を手に入れるため、また別の方法を考えなければいけなかった。僕は何としてでも、君を手に入れなければならなかったんだ。
モニター越しにひたすら外の景色を眺めるだけのこんな退屈な人生なんて、さっさと終わってしまえばいいと心の底から思っていた。どう足掻いても自分で終わらせる事はできないのだと知って、絶望したのをよく覚えている。お金の力で何不自由ない生活はできるけど、実際のところは不自由だらけなんだ。
親のエゴで望まない延命治療を施され、チューブとカテーテルによってふかふかのベッドに繋がれた哀れな生き物。それが僕だ。自力で動かす事ができるのは左腕の肘から下だけ。それも4時間おきに取り換えが必要な点滴の管が常に刺さりっ放しで、おまけに何度か神経を切るほど深く刃が入って、切り刻まれて綿の飛び出たぬいぐるみのような、惨めなリストカットの痕付き。首にあった縄の痕はすっかり薄くなってはいるけど、後遺症で頭が働かなくなってしまったみたい。色んな薬の過剰摂取後、胃洗浄が終わってからろくな物を食べていないし、ビルから飛び降りてからはついに外に出られなくなった。
それでも僕は、死んではいけないらしい。
延命治療を依頼するだけで、姿を現す事の無い家族の代わりに周りに居るのは、意思を持つ事を許されない部下。時折管を駆け上がってくる熱の処理の相手は大人のオモチャ。こんな状態になってから、友達なんて出来る筈もない。恋人なんてもってのほかだ。
自分でベッドから起き上がる事はおろか、満足に喋る事すらできない。毎日決まった時間に体を洗い、髪を整え、髭を剃り、身綺麗にこそしてもらってはいるけれど、辛うじて人間の形を保っているだけで、人間らしさなんてものはない。まるで着せ替え人形みたいな生活。車椅子に乗せられ、体に空けた穴に袋をぶら下げ、点滴を引き摺りながら、日課として外の空気に、他人の目に触れさせられる事がどれだけ苦痛か。
そんな人生を送ってきた僕にとって、君は一筋の光どころか、生き甲斐そのものなんだ。
今までのようにモニター越しに色んな君を見ていたいけど、もっと近くに居て欲しいと思った。
僕は働かない頭で想像するんだ。
もし君の全てを見ている事が、ひょんな事から君自身に知れたとしたら?
普通の人間なら恐怖で震え上がってしまうだろう。自分が何も問題などないと思い込んで送っていた日常生活が崩れ、そのショックで、心に傷を負ってしまうかも知れない。
でもひょっとしたら君は、心の何処かで喜んでしまうんじゃないか?
だって君はアブノーマルな存在だ。真面目でストイックそうな表の顔はさておき、僕を一目で恋に落とした美しさも、何をしていても絵になる動きも、時には爽やかに、時には甘くなる優しい声も、性欲に正直で奔放な裏の顔も、首輪を着けられ鞭で叩かれると嬉しそうに鳴いてしまう性癖も、およそ普通の人間とは思えない。
だから、自分に好意を抱く相手からずっと見られていたなんて事実を知ったら、それにさえ興奮して、その場でズボンを下ろして、一人で満足しようとするんじゃないかと、僕はむしろ少し心配なんだ。
君は何をしていても絵になるけれど、一人で満足するなんて寂しいじゃないか。
いつだったか、仲のいい客から送られてきた写真に興奮してしまって、駅のトイレで一人で事を終えたのも知っている。残念ながらあまりにも急な出来事だったからこちらも準備が間に合わず、部下から送られてきた映像は個室からスッキリした表情で出てきて、念入りに手を洗う君の姿だけだった。駅のトイレなんてノーマークな、誰が通るかも分からない場所で、きっととても楽しんだに違いない君の姿を見られなかった事はどれだけ後悔してもし切れない。君の全てを見ていたなんて言葉には、訂正が必要かも知れない。
なに分、僕自身もこんなに誰か一人を強く求めた経験なんて無いものだから、どうしたらいいのか分からないんだ。
でも、僕はとても幸せ者だと思う。こんなにも焦がれるような恋をするのは何年ぶりだろう。その相手が、よりによって君のように魅力的な男だなんて。
君は、なかなかに骨のある男だった。悪く言えばしぶといとも言える。ますます惚れ直したよ。
僕は君の飲み物に薬を混ぜるように伝えた。ジムで飲んでいたスポーツドリンクだ。金曜日の夜は混雑する時間帯なのかも知れないが、だからこそ他人の動向をいちいち気にする奴は少ない。人目を盗む事なんて、意外と簡単なんだ。
家までの道すがら、君は自分の体に起こり始めた異変に気付いただろう。普段とは違う疲労感や倦怠感。初めの内は、少し張り切り過ぎたかな、なんて軽く考えているかも知れない。ひょっとすると風邪をひいたのかも、なんて思うけど、次第に君の体は言うことを聞かなくなりつつある。
それにしても君は、画面越しなら何をしていても本当に魅力的だね。何の疑いを持つ筈もなくスポーツドリンクを飲む仕草。君の喉仏が上下すると共に、僕は生唾を飲んだ。
ペットボトルの口に押し付けられるその薄い唇に、いつかキスしてみたいな。今の僕の口には、直接胃へと繋がるチューブが挿し込まれている。それを外している時は、舌を噛ませないように柔らかい素材で作られた器具なんかを常に口の中へ含まされているような状態で、満足にキスなんてできる筈が無い。
だから、元気にならなきゃいけないんだ。接触恐怖症も、性嫌悪症も、窃視症も含めて、この人間としての認識さえ危ういボロボロのぬいぐるみのような身体を治さないとね。
僕は君の為に生きるよ。カテーテルにもチューブにも縛られない生活を、自分の力でまた歩けるようになる日を、夢見ているんだ。
信じられるかい?他人のエゴで生かされていた僕が、自分の意志で、生き続ける事を望んでいる。それもこれも全部全部君のお陰。そしてそれを実現する為には、君が必要だ。君は僕の生きる意味の全てなんだ。
そろそろ薬が効いてくると踏んだ優秀な部下が、僕の代わりに君を迎えに行く。けれど君は逃げてしまうんだ。とっくに部屋の中まで知られているとも知らずに、夜道で後をつけてくる黒服の男たちを警戒して、マンションとは反対の方向へ。
ただでさえ消耗した体力を振り絞り、今にも倒れそうな体を懸命に動かして、ゆらゆらと逃げ惑う君。持て余した手足が不規則に揺れる。長い脚がもつれそうになって、躓きながら走り出す。
回らなくなった頭では、何処を走っているのかも分からなくなってくる。自ら迷い込んでいった人通りの無い裏路地は、不潔な野良猫の溜まり場だ。聞き分けの悪い赤ん坊の泣き声のような音が響く見知らぬ場所で、何とか助かる道は無いかと探して首を振る度、襟足の髪が靡く様がとても優雅だ。
やがて、前からも後ろからも行く手を阻まれて、君はその場に踞ってしまう。全身から滝のような汗が噴き出して、首筋や二の腕を伝っている。髪は濡れて肌に貼り付き、腋の下はシャツの色が変わっていた。それに嫌悪感を抱く人も居ると言う。でも僕は一向に構わない。どんな姿の君でも、モニター越しにさえ見ていれば、この気持ちが褪せる事は無いと約束しよう。
君は灰色にくすみ切った僕の人生を、薔薇色に変えてくれたんだ。その美しく激しい紅色がいつまでも鮮やかに咲き誇るように願うよ。
もし君自身が望むなら、今こうしていつ死んでもおかしくない状態の僕を生かし続ける世界トップクラスの医療を駆使して、できるだけ永く君の魅力を保ち続けるようにだってしてあげられる。口から反吐が出るような惨状だけど、それが実現できる事にだけは、この最新鋭の現代医療と科学技術の進歩に感謝しないとね。
走り続けた疲労感と、全身を襲う倦怠感と、恐怖と、絶望と、薬の作用で動けなくなってしまった君を、僕はようやく手に入れたんだ。
連れて来られた君は、またしても自分が置かれた状況に少し怯える事になってしまうだろう。理解なんてできる訳ないって事くらい、僕にだって分かるよ。だからこうして説明しているんじゃないか。
何も無い小さな部屋。白い床、白い壁、白い天井。煌々と照らされたその場所で、君は裸で目を覚ます。まだ朦朧とする意識の中、それでも何とか起き上がろうとする。長い手足を這いつくばって、ずるずると引き摺るようにして。でもそれは難しいかも知れない。今の君の腕は、いつか見た赤い縄できっちりと縛られてしまっているから。
君は以前訪れた事のある、人生で出会った中で一番の金持ちの屋敷の地下に居るんだ。そこには、これからの君の人生の一部始終を僕が見る為のカメラがある。君だけを見つめるスポッティング・スコープだ。
内側からは開かないドアから入ってくるのは、君を犯したくて仕方が無いといきり立った男達。僕は君を地下室に閉じ込め、その様子を見る事によって、手に入れる事ができたんだよ。存在を傍に置きながら、モニター越しに眺めていられる。それが遂に実現したんだ!
表向きは、また男性客へのサービスを行なうボーイとして働いてもらう。ちょっと特殊なコンセプトのお店を装ってね。
これからは好きな物に跨って、気持ちよくなる事だけをして過ごせばいい。僕はそんな君を見ているのが、唯一の生き甲斐なんだ。君の為に生きる決意をした僕の為に、生きてほしい。今の法律では認められていない想いの具現化だけれど、これはプロポーズだと受け取ってくれて構わない。
今後は、あくせく働く事も、クライアントや取引先の事を考える必要も無くなった。ビッチな君にとっては願ってもない状況だろう。喜んで良いんだよ?これは喜ばしい事なんだ。その後手縛りが解けたら、両手を広げて喜ぶといいよ。
会社には君の家人を装って、病気でしばらく休職が必要になったと伝えた。やっぱり一流なのは市場における業績だけだね。必要なら知り合いの医者に頼んで診断書なんかも手配するつもりだったけど、特に診断の内容も、病院の場所さえも聞かず、すんなりと真に受けてくれたよ。いつか復帰できると信じているみたいだけど、退職手続きも進めておかないとね。
田舎への仕送りは、君がボーイとして稼いだ分から、今まで通りの額面と方法できちんと振り込んでおくから安心していいよ。仕事が忙しくて、なんてお決まりの台詞を台本通りに言っておけば、帰省する手間も省けるだろう。
沢山の男を連れ込んだあのマンションや、自慢の肉体を作り上げたスポーツジム、1234なんて簡単なパスワードに設定していたスマートフォンなんかは解約しておくよ。連絡が途絶えて心配する知り合いも居るかも知れないが、世の中には新しい自分に生まれ変わるとか言って、今までの人間関係をリセットする為に連絡先を全て消すような奴も居るから大丈夫さ。
通帳や印鑑、運転免許証やマイナンバーカードといった身分証明書はきちんと回収して、それ以外の荷物も引き払って、他にも必要なものは然るべき手続きを踏んで処理しておけば、いくら優秀な君が居なくなっても、社会は完璧に回る。
全て部下がやってくれた事だけどね、何度も言うようだが僕はモニターの前から動けないんだ。
さあいよいよ、お客さんが入ってくるよ。きちんとボーイの顔をして応対するんだ。さもないと、君の人生を保証する事ができなくなる。君が僕を生かしてくれているように、君の命は僕が握っているという事をいつまでも忘れないでほしい。
カメラの準備も万端だ。たった一度だけ直接顔を合わせた時に僕を感動させた、あの輝くような笑顔から、見知らぬ男に抱かれて乱れる姿を見せてくれ。僕と君、二人ともがお互いに気持ち良くなれる最高の環境で。
緊張しなくて大丈夫。初めてのお客さんは、君の好みのタイプを招待しておいたから。どうせなら、死ぬまで楽しくやって行きたいよね。
好みのタイプなんて口に出した事なかったのに、どうして知っているのかって?
君のことは、全て知っているよ。だっていつも見ていたから。
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