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その後
笹倉は書斎のデスクで、明日の接見の資料を読んでいた。
畳の部屋に絨毯を敷き、参考資料が積まれたデスクと関係書物などが並んだ本棚が壁にぎっしりと並んでいる部屋だ。
前の家も同じようだったが、先の震災時に書斎にいたら助からなかったかもしれないほどである。
玄関で声がして、桂香が返事をしながら応対に出て行ったのを漠然と聞きながら資料を読んでいたら、後ろから肩を叩かれた。
「ん?どうした?誰だったんだい?」
桂香かと思い不意に振り向いて、笹倉は目が落ちるんじゃないかと思うほど目を見開き、その場に立っている人物を見上げていた。
「どんな顔だよ。お前勝手に引っ越すから探すのすごく苦労したぞ」
笹倉が座る椅子の脇で、頼政はデスクに片手をつく。その後ろにトキが笑って立っており、廊下では馨と雪が笑っていた。
「お…おまえ…」
笹倉は声もなく口をパクパクさせて、その直後立ち上がって頼政に抱きつく。
「俺が引っ越したって事より、お前はどこにいたんだって〜〜!探しようがなくて俺らはもうさああ〜〜〜」
涙でぐずぐずになった顔を気にもせずに、頼政の肩で泣き喚く。
「いい歳した男 が泣くんじゃない。俺たちもう50近い…」
自分で言って暗くなる頼政だ。
笹倉はようやく頼政から離れ、桂香が持ってきた手拭いでやっと顔を拭う。
「玄関先で浮羽さん…あ、桂香さんになったんだったな、桂香さんに黙ってもらって忍び込んだ」
笑って、笹倉の涙で濡れた自分の肩も拭う。
「何やってたんだよ」
頼政の肩を軽くこづいて、全部話せと向かい合った。
「雪の白皮症のことで、ドイツへな…行っていた」
笹倉の家で、結局お酒を酌み交わすことになり居間に移動してテーブルを囲んでいた。
「ドイツ?何でまた急にそんな事に」
笹倉家の居間は炬燵だった。
練炭を七輪で熾 して掘り炬燵の下の窪みへと入れ込む。火故にかなり暖かい。
「震災の日に雪が目を怪我してな、すぐに眼科医をやっている前橋の叔父の家に行ったんだ」
「前橋?そこもよく行けたな」
お猪口を途中で止めて笹倉は驚いた。
「あの時によくまあ」
「運は良かったと思うよ。雪の目が心配な一心でもあったしな。で、その時親父にも会って、親父から白皮症の症例を集めている機関があると聞かされそれがドイツだったんだ。迷う暇はなかった。お前とは連絡つかないし」
苦笑しながら杯を口にする。
「無事に見えたんだが結局自宅が傾いていてな、引っ越しせざるを得なかったよ。電話番号も変わっちまったから連絡は難しかったな。それでドイツではどうだったんだ?」
「まあ結果は、治る治らないで言えば今はまだ…という感じか。しかし雪と同じような子が何人かいて、雪はその子たちと身振り手振りで仲良くなって、随分自身のことを理解したようだ。その子たちは何も気にせずに明るく生活していて雪もそれに感化されてきたよ。今では俺よりドイツ語は上手い」
隣の雪をみて、ーだよなーと同意を求めるが
「いえいえ、まだまだです。旦那様がドイツ語まで話せるのは知りませんでしたが、助けてもらうことのほうが多かったですよ」
そう言う雪の横顔を、頼政とは逆の隣から眺めて馨は微笑んでいる。
トキも桂香に手伝うと申し出たのだがゆっくりなさってくださいと言われ、居心地悪くも馨の隣に座らせてもらってお茶などを頂いていた。
「トキさんも頑張ったんだな」
笹倉にそう言われ、お茶を一口飲み下すと
「グーテンナハト」
ニコニコしてトキがそういって、笹倉を笑わせた。
「トキさんもドイツ語覚えてきたかー」
笹倉は嬉しそうに杯を空けて、
「今晩は飲み明かそうぞ!」
そう叫んで、頼政に杯を無理やり持たせーかんぱーい!ーと声を上げた。
それは大層嬉しそうな声であった。
時間も10時を過ぎて、都内のホテルに部屋をとっていた3人はここに世話になるわけにも…と一旦辞することを伝えた。
しかしもう酔っている笹倉が頼政の腰にしがみついて離れない。
「困ったやつだな」
その笹倉を目にして、馨は色々思い起こしながら
「笹倉さん嬉しいんですよ…。俺たちはほんの半年くらい前までみなさんの話ができませんでした。まさか…などと思っていたわけではないですが、会えるなんて夢にも…俺も笹倉さんも桂香さんも思っていなかったから…嬉しいんだと思います。俺も嬉しいですし」
そう言いながら頼政にしがみついている笹倉を引き剥がして炬燵に座らせ、盃にお酒を満たしてやる。
「笹倉の扱いまで覚えてしまったな」
おとなしくなった笹倉を見て苦笑した頼政は、元いた所に腰を下ろす。
「わかった。俺は笹倉の家 で飲み明かす。馨と雪だけホテルへ戻りなさい。積もる話もあるだろう」
口の端が上がって少し笑っているように見える口で、頼政も杯を傾けた。
2人は顔を見合わせて一瞬のうちに照れてしまった。
夢にまで見てはいたが、いざ急に現れるとどうしたらいいか…と実は馨は思っていた。雪もまさか急には…と思っていたから、戸惑いを隠せない。
「トキは俺の世話をしてくれよ、なんせ酔ってるからなぁ」
益々口の端を上げて、もう実際笑っている頼政は、ー早く行きなさいーと告げて、笹倉の杯に酒を注いだ。
「じゃ…じゃあ…お言葉に甘えて…」
馨は雪の手首をそっと掴んで、部屋の中に一礼すると廊下に出る。
その時に、もう泥酔一歩手前の笹倉が
「思いの丈をぶちまけてこい!3回くらいじゃ足らんだろう」
などと下品なことを叫んでゲラゲラ笑う。
「綺麗に送り出したのにしょうがないやつだな笹倉よ…」
頼政も呆れてーさっさと行っちゃいなさいーと笑って、2人を送り出してくれた。
外に出ると雪は本格的で、道路にもだいぶ積もっていた。
「あ〜これじゃあ車は走れないね」
そう呟く馨の言葉通り、道路は歩道と車道の区別がわからないほど雪が積もり、車も時々時速100メートルくらいの速度通るくらいで、ほぼ無人の街になっていた。
雪あかりが明るい中で街灯がぼんやりと灯っている。
雪の降る音さえしそうな静寂の中、2人は歩いた。
笹倉の住まいは上野にあり、ホテルは銀座だと言うから
「さっき会った所に逆戻りする感じだね」
と雪が笑い、馨が
「ホテルはどこ?歩けるところ?」
聞けば、場所は銀座とは言え随分こっちよりだし、今いる所も上野の銀座よりだ。そう遠くなさそうなので、雪も2人でゆっくり歩けると嬉しそうだ。
雪の道を2人で手を繋いで歩いている。
一応傘もさしてはいるが、すぐに重くなるほどの降りに少々辟易した。
「馨くんは、弁護士さんになれそうなんだね、すごいね」
少々背の高い馨が、傘の雪を落として再び頭上に掲げる。
「すごいっていうか、本当に笹倉さんのお陰でね。仕事の手伝いとかさせて貰ってたから、用語とか用法が頭に入ってて勉強がしやすかったんだ」
「でもすごいよ」
うん、と頷いて雪はしばらく黙った。
「雪さんは?ドイツでどうだった?」
「ん〜外国の人は、男の人も女の人もみんな大きくてびっくりした」
「女の人も?」
「うん。女の人が私くらいあるの、身長が。だもの男性の大きさ想像つくでしょう」
それは大きいね。
肩を並べて歩いているが、180cmになった馨よりは小さいが雪とて170センチは超えていそうだ。外国の人でかいんだな〜と漠然としか想像できないが、なんだか楽しかった。
本当に人も歩いていないそんな道を、雪をキュッキュ言わせながら2人は歩いた。手首を握っていた手は今は手のひらで握り合い、お互い転ばないようにとも見えるが手の力は結構強い。
もう意識してしまった。
ホテルに行ったら何をするか…もうそれは2人の心で決まっている。
馨は肩に雪の存在を意識しながら、気持ちを呼び起こした
ずっと抱きしめたかった。
白い体に唇を当て、いつも顔色を際立たせるために薄く紅を塗っている唇を半開きにしたかった。
ピンク色の胸の飾りに触れた時の声が聞きたかった。
今ここでこんな具体的なことを思い出している自分を恥じる気持ちもあったが、この現状はたどり着いた先で起こることが一つなのを物語っているので仕方がない。
雪は、もっとドキドキしている。
前橋で少し精神状態が昔に戻った時は、馨の事を思い出すことがなかった。
離れてまだ間がないこともあったが、どこかで大丈夫だと言う安心感もあったのだと今なら思う。
しかしドイツへと渡り、自分が卑屈でいなくてもいい。堂々としていても誰も変な目で見たり、意地悪な事を言ってこない環境の中で徐々に自分を取り戻した時に、猛烈に馨が恋しくなった。
もう形もないあの屋敷で過ごした日々や、鼻が付くほどの位置で見た馨の自分とは違う黒い瞳、重ねた肌。
そう思うにつけ、連絡も取れなかった馨の安否が当時今更ながらに胸に重くのしかかってきて胸が痛かった。
屋敷ももう無いのに、馨までいなかったらどうしよう…そんな気持ちが病を乗り越えた雪に新たにのしかかっていた。
その胸の痛みに耐えきれず、頼政にも相談をした。
「連絡もつかずに今に至っているが、絶対に馨は無事だからいつかきっと会える。それまでその気持ちを大事にしなさい」
と言われ、今に至った。
雪もずっと抱きしめて欲しいと思っていた。
再開した時に、思っていたよりもずっとずっと逞しくなった馨にドキドキしたのも本当だ。頼政に揶揄われて怒ったのは事実だったから。
2人の足取りは段々早くなる。
上野の端と銀座の手前。歩いて30分も経った頃には、雪がーあのホテルだよーと指差して教えてくれた。
もう傘なんか刺していなくて、2人は黙々と歩きエントランスへと辿り着く。
ホテルへ入る前に衣類の雪を叩いて落とし、雪はフロントへ頼政の事情と代わりの宿泊客を告げて鍵を受け取ってきてくれた。
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