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その後3
腕時計を見ると午前10時
頼政は、ホテルのロビーでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。
8時半にホテルへ着き、レストランでゆっくり目に朝食をとった後部屋へ行ってみたが、3回ノックをしても中からは返事がなかった。
まあ、仕方ないかと苦笑して再びロビーへと戻りラウンジでコーヒーを頼み今に至る。
一応ドアの下から、
ー仕事の書類を取りに来た。気付いたらロビーまで来られたしー
とのメモ用紙を入れ込んでおいたので、それを待ってはいるのだが考えてもみれば若い子の睡眠は果てしない。
このまま昼になってしまったらどうしようという一抹の不安はあったが、その思いも脇に立った2人の影で払拭された。
「どうもすみませんでした、気づかずに」
馨が90度のお辞儀をして頼政に頭を下げ、雪もその半分のお辞儀で罰が悪そうに頼政を上目遣いで見る。
「いや、気にするな。昼まではなんとか待とうとは思ったから」
頼政は笑いながら前のソファを促し、ボーイを呼んでパンケーキと紅茶を頼んだ。
「腹減っているだろう?」
2人の顔は見ずに、コーヒーカップを取り上げて一口。
「はい…実は…」
雪と馨は顔を見合わせて照れくさそうに笑う。
その光景を眩しそうに眺めて、頼政は新聞を置き
「今日は、昼に一度以前の大学へ顔を出してくる。なにやらまだ籍が残っているそうなんでな。馨は学校は?」
「今日は休みなんです。ご一緒できます、なんでも言いつけてください」
頼政たちが戻った以上、馨はこの旦那様の力にならなければとも思っている。
が…
「馨、お前はもう自分の道を切り開いて歩いている独立した男だろう。私の仕事をどうのではないよ」
「でも…」
「それに、笹倉もお前を頼りにしている。そっちの力になってやってくれ。まだまだひよっこだけどな」
頼りにされているとは思えないが、笹倉はほんとうに馨に目をかけてくれている。弁護士になっても笹倉から離れることはないと思っているので、頼政の言葉はありがたかった。
「しかしな」
コーヒーを飲み干して頼政はソファへ深く寄りかかる。
「住む家を探さなければならない。いつまでもホテルという訳にもいかないからな。その手伝いはしてくれないか」
パンケーキが2人の前に置かれ、雪は馨のパンケーキを切る作業を始めた。
「雪さん過保護だよ」
「いいの、やらせて」
2人のイチャイチャを見せられて頼政は咳払いをし、
「私の話は聞いてもらえてるかな?」
と呆れ顔で2人を見る。
「もちろん聞いています。家を探すんですよね。ご希望の場所を言ってくだされば、お仕事の話中にでも俺探しにいきますけれど」
「前に住んでいた辺りが望ましいんだが、そこそこの家は空いているかな」
「どのくらいの家をご希望なんですか?」
雪が切ってくれたパンケーキが前に置かれ、お礼を言って一口だけ口に入れる。
「私と雪とトキ…そして馨が住めるくらいの家だ。どのくらいがいいだろうか」
ニコッと笑い頼政の前で馨の動きが止まった。
ーえ…ー
「当たり前だろう。以前のように、また4人で暮らすのが当然だ」
雪も隣でにこにこと頷いている。
「旦那様…」
「その呼び方はもうやめよう。私のことは名前でいいよ。『お前』でもいいぞ」
ワハハと笑って、頼政は傍の帽子を取り上げる。
馨は本当に考えていなかった。また再びみんなで住めるなんてことは頭の片隅にもなく、考えてみれば不思議なのだが本当にそれは抜け落ちていた。
だからその言葉が本当に嬉しかった。
「と言うことで、君たちはそれを食べていなさい。私は部屋に書類を取りに行ってくる」
立ち上がった頼政は、雪から鍵を受け取り部屋へ向かうが、直後に雪が走り出してエレベーターの前で頼政の前に立つ
「あ…あの…寝室には…あの…」
その様子に雪の頬を撫でてーわかってるよーとだけ言って1人でエレベーターへ乗り込んで行った。
それから1週間後、頼政と馨は元に住んでいた神田和泉町界隈でそこそこの空き家を見つけた。
家を建てたはいいが、主人を欠いてしまい仕方なく売りに出された物件だ。
そこの主人は不正を働き職を失ったことから『験が悪い』ということで比較的安く買い取ることができ、4人はその2日後にそこへの引っ越し作業を行うことにする。
安くとはいうが、家を丸ごと買い込んだ頼政に馨もびっくりした。
頼政の説明によるとこうらしい。
ドイツは6年前に物価がひどく高騰し通過の価値がかなり落ちたらしい。
それは頼政たちがいた頃にまんまあてはまったのだが、それでもそれなりの機関にいたために食べることには事欠かずに暮らしてはいたらしい。
そしていただいた報酬もそれなりに貯めて帰国が出来たことで日本円に換算した時に莫大な金額になったということだった。
なにせ当時の1マルクが日本円での現在の通貨で4千円だったというから、少しは収まった感のある昭和初期当時でもかなりのものだろう。
それを聞かされた馨は2度目の驚きをさせられたが、まあそれほどでなければ家一軒はな…と妙な納得もさせられた。
その日は笹倉の家で、馨くんお別れ会などが催された。
歩いたって大したことない距離に行くんですから、と馨も恥ずかしそうにしていたが、笹倉にしてみれば
「俺はね、頼政にもしもの事があった場合馨くんを養子にすることだって考えていたんだよ。その子が…巣立ってしまうんだ…俺なりに寂しい気持ちも察してくれよ」
わざとらしく泣きの演技などをしてみるが、馨からは
「明日も職場で会えますよね」
とか、頼政からは
「仕事面ではまだまだ面倒見てもらわなきゃ困る」
とか言われ、ーはいはいーと すぐに立ち直り周りを失笑させた。
後日談
まだホテルに住んでいるときに、雪はチクチクと縫い物をしていた。と言うよりボタン付け。
それを横から眺めていた頼政が、
「なんでそんなに大量にボタンを飛ばしたんだ?」
例の、馨との夜に雪が着ていたボタンの多いドレスシャツ。5つほどボタンが取れていた。
頼政にしたら本当に素朴な疑問だったのだろうが、そう聞かれた瞬間に雪の顔が赤くなり、耳まで広がった。
頼政はその雪を見て、ーああ…馨か…ーと、先日この部屋に2人を泊まらせた時のことを考え、ボタン飛ばすほどか…と若さを羨んだ。
実際はもどかしくなった雪自身がやったこと。
まあ若いには変わりがない。
日本の外では少々きな臭い匂いがし始めた頃ではあったが、まだ平和な日々は続いていた。
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