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第12話 夕陽の中で二人は
※ハル視点です
あの頃のあの熱量と焦燥感はなんだったんだろうかと思う。二か月くらい前までは夕とやりたくやりたくて仕方なかったのに、俺を悩ませてた衝動のようなものがすっかり鳴りを潜めている。もちろん今だってそういう気持ちがなくなったわけじゃない。性欲自体は全然ある。でもいざ夕を前にするとスイッチがオフになったようにスンとしてしまう。
まだ昼だから光ってはないけれど駅前の木々は電飾だらけだ。クリスマスはもう目前だ。一年前はクリスマスだなんだのでいちいち心をときめかせていたが、今はなんとも思わない。そのせいなのか、なんとなく現実感がない。イルミネーションは点灯していないのに景色がぼやけて見える。
「ただいまー」
「おかえり」
俺がアルバイトから帰ると夕が出迎えてくれた。いつものように俺が手洗いうがいをしている間、バイト帰りに寄ったスーパーの食料品やら生活用品やらを片付けてくれる。
「洗濯とか掃除は一通りやってあるから」
「あ、サンキュ。じゃあ昼飯さっさと作るかー。まだだよね?ラーメンでいい?」
俺はさっき買ってきた袋麺をがさごそ探す。いつも通りの日曜日。何もない日曜日。何の変哲もない時間が経過していく日。俺たちは本当に今何もないのだ。
夕と顔を合わせたくなかった時期は比較的一緒にいられる日曜日さえもシフトで埋めていたが、もう元に戻した。とはいえ、別に何をするわけでもなかった。最近、夕は自室にこもって課題とか就活の準備ばっかりやっていたし、俺も俺で年の瀬だからなんとなく家の掃除をよくしていた。避けているわけではなかったのだが、昔ほどベタベタもしなくなっていた。お互いの時間を同じ家で過ごしてご飯のたびに顔を合わせる。そんな日がずっと続いていた。
凪いでいる海にぷかぷか浮いているような穏やかさと、どこまで漂流するのか分からないような漠然とした不安感がずっとある。マンネリ化とも言い難い。このままでいいような、このままじゃダメなようなよく分からない感覚。
でも俺は夕との関係を壊したくなくて、このままじゃダメな方の選択をしなかった。どうしても夕と離れる選択ができなかった。
「……あのさ。帰ってきたところ悪いんだけどちょっと出かけない?」
突然、夕が思いがけない提案をしてきた。
「え、どこに」
俺は袋麺を破りかけてた手を止めた。
「どこでもいいけど。行こうよ。気晴らしに。昔その辺の公園とか行って楽しかったじゃん」
「あー…まあそうだけど。なんで突然?」
夕は少し考えるように間を空けてから、
「俺、来月からインターン行くから土日もいなくなるし」
と言った。
「え、あ、そうなの?もう行くんだっけ」
俺は内心焦った。夕が就活の準備的なことをしていたのは知っていたが、そんな具体的に進めていたなんて知らなかった。
「うん。むしろ遅いくらいだけど。まあハルを見てるから別に焦ってないけど」
と生意気そうにふふっと笑う。そういう仕草はやっぱり可愛いなあと思う。
「俺を参考にしちゃダメでしょ。えっと、じゃあどこ行く?」
「俺の実家の方に行かない?」
今度は間髪入れずに夕は答えた。
「実家!?いや、流石にそれは心の準備が」
「いや、実家じゃなくて実家の周辺…なんて興味ないよね…」
段々と自信をなくしたように夕の声音はデクレシェンドになる。
「え、ある。あるあるある。超行きたい。夕の通ってた小学校とか見たい!」
これは本当だった。よく考えたら夕の育った場所は割と近くにあるのに見たことがなかった。なんとなく夕の知り合いとかに俺を見られるの嫌かなと思って無意識に避けていたのもある。それが向こうから誘ってくるとは。
「そう?よかった」
と夕は抑揚のないトーンで言ったけど、そのはにかんだ表情から喜んでいるのがわかった。夕は嬉しい時わざと抑える癖がある。本当にテンションが下がっている時と見分けるのが難しいけれど、今はもう分かる。
(夕、嬉しそう…)
ああ、好きだな。って思った。俺は夕のこういうところが大好きだった。恥ずかしそうに宝物を見せてくれるようなところ。俺になら、って曝け出してくれるところ。そこがたまらなくいじらしい。その気持ちが俺は抱きたい、に直結してしまうのだけれど。
「夕、すき」
俺はたまらなくなって夕に抱きついた。こんな気持ち久方ぶりだった。俺にもまだこういうキュンとする気持ちが残っていたのかと少しホッとする。
「俺も好きだよ」
と言って夕も抱き返してくれた。なんだか久しぶりに夕に触れた気がする。好きとかそういう言葉を交わしたのもいつが最後だったのか思い出せなくて少しだけゾッとした。
夕の町に着いた。今住んでいるところからはそんなに遠くない。電車を2本乗り継いで30分くらい揺られると夕の育った町に着く。特に有名ではないローカルな駅だ。
駅ビルもなく他の路線の乗り入れもない。急行も止まらない。そんなに大きくない駅だが、ベッドタウンで人の往来は多く、生活感のある町だ。都内ではあるが長閑だ。
駅前で夕とよくあるハンバーガーショップで遅めの昼飯を食べた。日曜の昼下がりということで家族連れで賑わっていた。男二人でいるのは俺たちだけだった。でも夕は何も気にしていなさそうだった。かえってこっちがソワソワしてしまう。
夕と外で食事をしたのは久々だった。それどころか夕と外に出たのも久しぶりな気がする。思えば、一緒に暮らしてからは全然遊びに連れて行ってあげていない。
夕はめちゃくちゃインドアなので放っておくと永遠に家にいるから、一緒に暮らす前は色々連れ出していた。といっても映画館とか娯楽施設や観光スポットにはあんまり行かなかった。夕は人が多い場所が嫌いだったので郊外の広い公園に行って放課後の小学生みたいにはしゃいだり、シーズンオフの海に行って凍えたりした。夕は何をしてもどこに行ってもこんな事初めてしたと言って感動してくれていた。(子供の頃からインドアだったらしい)それが可愛くて色んなところに連れて行った。
いつからそういうのしなくなっちゃったんだっけ?夕はもしかしたらずっとこういう事したかったのかもしれないなあ…。
夕は喧噪の中ぼーっと窓の外を見ながらポテトを頬張っていた。俺の視線に気づいて居心地悪そうにする。
「何?」
「いやなんか、外にいる夕を見たの久しぶりだなって…」
「そうだね。あんまり一緒に外、出なくなっちゃったもんね」
「ごめん。グランピング行きたいねとか行って結局行ってないしね」
「なんでハルが謝るの?むしろそういうの全部ハルに任せてたから。俺の方がごめんだよ。俺、家にいるの好きだから、自分からあんまり調べたりしないし」
「うん、知ってるー」
と言うと夕はちょっと拗ねたような顔をしたので笑ってしまった。
そのあと夕が通っていた中学校と小学校と幼稚園を見て回り、小さい頃の夕に思いを馳せたのちに実家の前まで連れていかれた。
「ここが夕の家か…」
「うん。小学校の時にこの家に引っ越した。近所のマンションから」
都内の住宅街によくあるこじんまりとした三階建ての戸建てだった。2階のベランダで洗濯物が揺れている。
俺は家から誰か(というかお母様)が出てこないかヒヤヒヤした。
「家、誰かいるの?顔見せなくていいの?」
「あ、上がってく?」
と夕が普通に言うもんだから俺は心臓がぼんっと出そうになった。
「いいいいいいい!!!!まだ無理!」
「あ、いや、今、みんなどっか行ってて誰もいないと思うけど…車ないし」
「え、いや、そんな逆に誰もいない隙に入るとかちょっと……手土産もないし、いや夕の部屋は見てみたいけど」
俺があたふたと丁重にお断りをしていると夕がぷっと吹いた。
「今度親がいる時にちゃんと連れてくね」
「えぇッッッ」
何言ってんだ!?どう紹介するつもり!?
「夕ってさ、俺のこと親御さんに全部言ってるの?」
本来なら同棲する前に確認しておくべき事だったのだが、あの時は舞い上がっていてそんな事失念していたし、そもそも大事な息子さんをお預かり(?)するのだから関係性ばらさずとも挨拶するべきだったよな!?と今更自分の至らなさを自覚して軽くパニックを起こした。
「いや..言ってないけど。言ってないけど母親とかは分かってんじゃないかな..」
!?
「そうなの!?」
「バイト先の友達とルームシェアするって言ってたけど、俺が友達と住むとか変じゃん…今まで友達付き合いとかほとんどなかったのに…。ほんとは彼女と住むんじゃないの?って聞かれたからこの人とだよってハルの写真見せたことあるし」
「はぁー!?!?待って聞いてないんですけど」
「言ってないもん。ハル気にしそうだから」
「え、それでお母様はなんか言ってた?」
「かっこいい子だねって言ってたよ」
イタズラっぽく夕は笑う。完全に俺の反応を見て楽しんでいる。
「マジでー!?もーしぬわー。えー夕の親って偏見ない人なの?」
「あー、どうなんだろ。分かんないけどあんま気にしなさそう。特に母親は言ってもフーンて感じだと思う。まあ、変に連絡してこないから心配とかはしてないんじゃない?」
なんとなく夕の親像が見えてきた気がする。夕の他人と壁を作りがちなくせにあまり捻くれていないのはそういうあっけらかんとした親がいたからなのかもしれない。
「あー、そっかーそういうタイプねー。うーんそっかー」
あまり子供のセクシャリティを(表面上は)気にしない親は最近多い。俺より年上の世代だとセクシャリティのせいで親と不仲というのはよく聞くが。
「ねぇ、歩くの疲れた?」
「ううん。大丈夫。楽しい!」
「一駅分歩いて帰らない?ちょっと遠回りなんだけど、川歩こうよ」
「え、めっちゃいい!行こ行こ!」
「こっち」
と言って夕はおもむろに俺の手を掴んだ。
(エエエエエエエエ)
今まで外ではお互いあまりベタベタしてなかったので外で手を繋いだのは初めてだった。
「夕、いいの?ここ夕の知ってる人とか結構いるんじゃないの?」
「嫌?」
「嫌じゃない、全く!!」
「俺さ、多分ハルが思ってるよりハルが好きだしハルのこと信頼してる。俺、誰に何を言われてもいいし、どう思われてもいいよ。なんか嫌なことがあったり嫌な思いしても、最終的にハルがいるなら本当色々どうでもいい」
「そういう事、ちゃんと伝わってないんじゃないかなって思って。今言った」
「夕……」
「ハルは多分そういう気持ちを伝える手段がやる事なんだろうと思うけど。でも、ハルの気持ちも伝わってるよってことも伝えたかった。ちゃんとできないから、言葉でだけど」
「……」
「ごめん、俺が言いたい事伝わんなかった?」
「ううん、充分すぎる」
夕はこんなことをはっきりと言う奴だっただろうか。なんだか俺が知らない間に夕が違う人間になっているような気がした。悪い意味じゃない。今の夕はかっこよかった。すごくかっこよかった。俺は正直、夕にドキドキしすぎて上手く言葉を返せなかった。
しばらく歩くとそこまでは大きくはない、けれど青春するには不足のない河川敷に出た。12月の河原は茶色い。葉が落ちた木々や枯れたススキが一面に生えている。まだ16時になっていなかったけど陽は傾きかけていた。
川の水面も冬の西陽が溶け込んで、セピアの写真を見ているような風景だった。寂しいけどそれが落ち着く。そんな感じ。
「俺、なんか気分落ちると音楽聴きながらずっと川歩いてたんだよね」
夕がぽつりと話し出した。
「暗いけど」
と自嘲気味に笑う。
「ううん、分かる。俺も落ちた時は逆に一人でいるもん。なんか変にテンション上げようとしたり、誰かといるとかえって疲れたりするし」
「だよね。ハルと俺ってなんか変なとこで似てるよね」
と夕はちょっと嬉しそうにする。そんな夕に俺は心臓がぎゅっとなる。可愛いというか可哀想というか。夕が俺の事を好きなのが痛いくらいに分かる。これなのだ。俺が夕から離れられない理由。夕を1人にしたくないのだ。
「わかる。俺もずっとそう思ってた」
俺は夕の手を強く握った。2人で手を繋いでてくてく歩く。ジョギングをする人、犬の散歩をする人、自転車で家路につく家族。色々な人が俺たちの横を通った。それでも俺たちは手を離さなかった。たまに振り返ってまで俺たちを二度見してくる人もいたけど、どうでも良かった。
俺たちはその間色々話した。半年間以上一緒に暮らして、同じ時間を共有していたつもりだったのに、いつの間にか共有していた事が少なくなっていた事に気づく。
俺はセックスする事ばかりに気を取られて、そういうコミュニケーションを本当にすっかり忘れてしまっていた。
俺は関係って変わっていくものだと思っていた。なんとなく人間というものは言葉では分かり合えないと思っていて、理解し合えないと思っていて、気持ちだって伝えきれないものと思い込んでいた。
だからこそ体を重ねて足りない部分を補って100%に近づけていくものだと思っていたし、今までずっとそうしていた。
それが不正解だったとは今も思わない。だけど体を繋げるという選択肢を持っていなかった夕はずっと最初から、今の今まで変わらないまま言葉とか手を握るとかキスをするとか、そういうやり方で俺に気持ちを渡そうとしてきたのだろう。
俺はその夕のやり方を受け止めていただろうか。きっと受け止めきっていなかった。多分。ずっと。
体を繋ぎ合わせられない寂しさを俺は抱えていたけど、夕だってずっと体でしか繋がれない寂しさを抱えていたに違いない。
「ごめん」
俺はピタっと止まった。勢いで2歩ほど前に出てしまった夕が振り返る。繋いでいた手はほどけてしまった。
「何が?」
「夕に色々頑張らせてばかりで」
鼻がツンとする。ダメだこれまばたきしたら涙出るやつだ。
「俺ただやりたいっつって夕を困らせてばかりで情けねーー」
俺はその場に屈んだ。ついでに袖で涙を拭った。顔を見られたくなくて座ったまま腕で顔隠した。
「は?ハルは頑張ってたじゃん」
夕は戻ってきて俺の目の前に立つ。腕の隙間から夕のスニーカーが見えた。
「何が、どこが」
「俺がハルのこと好きになるように頑張ってたじゃん。俺と付き合うために頑張ってたでしょ」
夕の声が上から降ってくる。怒るでもなく諭すでもなく励ますでもなく。ただ淡々と事実を語るような声で。
「あれは、頑張ってたっていうのかなあ…」
約一年前のことを思い出す。俺は別に頑張ってなどいなかった。夕と付き合いたいな、やりたいなという邪念しかなかった。夕は割と最初から俺に懐いてくれてたし、別に努力らしい努力はしてなかったと思う。
「ハルが頑張ってくれなかったら、俺ハルと付き合ってないよ。それだけじゃないよ。一緒に暮らしてからもずっと…」
「そうかな…」
それは夕の買い被りだ。俺は全然頑張ってない。頑張ってない俺を奇跡的に夕が好きになってくれただけだ。
「そうだよ。俺、誰か好きになったことないもん。ハル。俺の方こそごめんね。俺ずっとハルの気持ち無視してた。その自覚ある。だから俺、もう少し頑張ることにした」
これ以上何を夕がすることあるのだろう。人を好きになったことがない夕が、そもそも人と関わるのが苦手な夕が俺を好きになってくれた。付き合ってくれた。俺はきっと夕の世界を目まぐるしく変えてしまったと思う。それでも夕は俺と一緒にいてくれた。俺は何も変わってないのに。夕の方がよっぽど頑張っていたと思う。
今も。必死で言葉を紡いでくれている。
「ハル」
「帰ろ」
「俺、ハルと同じ家に帰りたい。これからもずっと」
「ハルは帰ってくれる?俺と」
俺は顔をあげる。「うん」と言うつもりだった。でも俺は目の前の光景が綺麗すぎて言葉が詰まってしまった。
夕日を背にして夕が俺の方を向いて立っている。まるで後光がさしているようで、なんだか神聖な宗教画でも見ているような気持ちになった。それがすごく綺麗で、俺はいよいよわんわん泣きたくなった。
「ねえ、そのままそこ立ってて」
俺はかがんだままスマホのカメラを起動させた。光量を下げてカシャっと一枚撮る。
「ほら、逆光で夕のシルエット、綺麗に撮れた」
俺と夕は並んで肩をくっつけながらスマホを見た。近すぎておでこがくっつきそうになった。
「ほんとだ」
写真には綺麗な夕日とオレンジの雲がモネの絵みたいに映っていた。その中で佇む夕の細長いシルエット。絵画みたいに綺麗に撮れた。
「夕、背が高いからかっこいいね」
俺はスマホから目を離して夕をチラッと見た。夕は真剣に俺が撮った写真を見てくれている。
「ハルが写真撮るの上手いんじゃない?」
「ん?え、そうかも。いや夕だからかも?」
「そうかもね」
「はは、ウケる」
「……」
「……」
ふと夕が視線を上げたので目が合った。夕が俺を見つめている。こんな近くで夕を見たの久しぶりな気がする。綺麗な切れ長の目だ。ちょっと神経質そうで不安そうで、誰も寄せ付けなさそうな瞳をしている。でも今は俺を見ている。俺の事は受け入れてくれた。好きになってくれた。この目が今まで誰にも見つからないで良かった。
誰か見ていたかもしれないし、誰も見ていなかったかもしれない。冬の乾燥した空気の中で沈んでいく西陽は強すぎてもう周りが見えなかった。互いの存在しか分からなかった。
川が夕陽を反射してキラキラと輝いている。小さい町が黄金色に包まれている。まばゆい光に照らされて目も開けていられなくなる。どちらともなくそのまま唇を近づける。
光が溢れる夕陽の中で二人はキスをした。
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