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第56話 201号室の事情

 会議が終わった後、保輔が直桜に声を掛けてきた。 「俺、しばらく陽人さんのマンションで一緒に暮らすのやて。いつ解放されるか知れんから、瀬田さんとこで借りた部屋は、とりあえず戻すわ。他の人とか入る予定あるかもわからんし」  保輔の言い方はどこか他人事で、何となく嫌そうな雰囲気が伝わってくる。  何より顔が辛そうだ。 「他の人が入る予定はないから、201号室は保輔の部屋のままでいいよ。気が向いたら戻ってきたら?」 「俺の気はもう向いとる。戻りたい。けど、戻らしてもらえへん」  涙を抑えるような仕草で保輔が手で顔を覆った。 「直霊術の訓練のための住み込みだろ? もう根を上げんのか?」  遠くで聞いていた清人が口を挟んだ。 「そうなのやけどな。訓練なら毎日でも通う。何なら近くのアパートに部屋借りてもええのや」  保輔の口振りに、清人が不思議そうに振り返った。  清人の視線を受けて、保輔がもごもごと話し始めた。 「だから、その。陽人さんて、婚約者がおるやろ。怪異対策室の室長の」  清人と直桜は顔を合わせた。 「律姉さんのこと?」  保輔が何度も頷いた。 「住まわせてもらっている以上、俺も色々と家事はすんねや。けど、あん人、俺以上に俺の分まで色々やってくれるんよ。それは流石に申し訳ないやろ? 仕事においては俺にとって上長なワケやしな」  保輔が早口で捲し立てる。どことなく必死な顔は珍しいなと思った。  清人がくるっと巻いた紙で保輔の頭を、ぽかっと叩いた。 「本当に言いてぇことは、何だぁ? お前にしちゃ珍しく不器用な遠回しだぞ」  清人の呆れた声と顔に、保輔が口を噤む。  気まずそうに顔を逸らした。 「……夜、とかな。俺が部屋から出なければええんやろけど、そうもいかん時もあるやろ。偶然の事故は怖いし、気まずいねん」  遠くで聞いていた紗月が最初に得心がいった顔をした。  その顔を見て清人がやや気まずい顔をした。  護を振り返ったら、顔を逸らしていた。 「律姉さんて、そんなに頻回に陽人の部屋に行ってたんだね。早く結婚すればいいのに」 「俺もそう思うわ。いっそ結婚してまえばええのやわ。そしたら出ていきやすい」  清人が気の毒そうに保輔の肩を叩いた。 「なんか、悪かったな。お前も苦労してんだ。なんつーか、お前ってそういうの気にしねぇタイプかと思ってた」 「そういうの?」  直桜の疑問に被せるように保輔が清人に食って掛かった。 「気にするわ! 見も知らん無関係な赤の他人やったら、どうでもええねや。けど、世話んなってる人の、そういう事情にまで無神経なわけやない」  保輔の言葉の意味が直桜にはいまいち理解できずに、黙ってしまった。  清人に顔を向けたらそっと逸らされた。その後ろにいた紗月も同じ仕草で顔を逸らしている。  護を振り返ったら、静かに肩を叩かれた。 「直霊術の訓練は日常の中でもしとる。寝起きとか、昼の何気ない瞬間とか、風呂とか。だから、一緒に住むのが訓練の一環なんもわかる」 「え? 保輔、陽人と一緒にお風呂入ってるの?」 「……時々や。仕方ないやろ、風呂でやる、言われたら入るしかないやん」  保輔の顔が照れている。  何となく、最近の保輔が可愛い反応をするようになったのは陽人のせいじゃないかと思った。 「でもさ、陽人は保輔を養子にしても良いって思うくらいには気に入ってると思うんだよね。いっそ、律姉さんはお母さんでいいんじゃないの?」  保輔が大変な衝撃を受けた顔をしている。  清人や紗月や護まで、ちょっとびっくりした顔をしている。  保輔が小さく息を吐いた。 「家にいる時は律さんて呼ぶのを陽人さんに強要されとるから、そういう気配は感じんでもない。けど俺は、家族になる気はないねん」 「どうして?」  保輔が、ちらりと直桜に視線を向けた。 「陽人さんと律さんの間に子供が出来たら、俺が邪魔になる。血の繋がらん鬼が桜谷家宗主の子になるんは不和の元や。直霊術を桜谷家の外に出したくないんなら、何か別の形で囲ってくれたらええ」  保輔の指摘はあまりにも説得力があって、悲しくなった。  きっと保輔も陽人を悪く思っていない。だからこそ出た言葉でもあるだろう。自分の立場を理解している保輔だからこその考えだとも思う。  本当は甘えたい相手に手放しに甘えられない環境は、13課に来ても変わらないのかもしれないと考えたら、心苦しかった。 「だからお前は、これ以上、深入りしたくないわけね。夜のことも含めて」 「せや。夜の方は単純に気まずい」  清人が保輔の頭をポンポンと叩きながら撫でてやっている。  保輔がまた顔を手で覆ってやるせない声を出していた。 「このマンションの部屋は残しておきますから、時々帰ってきたらどうでしょう。水瀬さんがお泊りする日だけ、こっちに帰ってくるとか」  護の提案に保輔が顔を上げた。 「帰ってきてええの? あん部屋、使ってええの?」 「構いませんよ。保輔君は大変かもしれませんが、戻れる場所があれば、安心できるでしょう」  保輔が護に抱き付いた。 「俺、化野さんの子供にだったらなりたいわ。瀬田さんをお母さんて呼んだらええ?」 「どっちもお父さんだよ。いいから離れろ」  保輔の体を守るから剥がそうとするも、ぴったりくっついて離れない。 「直桜に手を出したら、私が切り刻みますけどね」  護の言葉に顔を上げた保輔が、引き剥がすまでもなく自分から離れた。 「相変わらず、瀬田さんが関わると容赦ないねんな。手は出さんから心配ないよ。俺、女が好きや」  護が良い笑顔で保輔を眺めている。それが余計に怖かった。 「律が泊まりの日は保輔が智颯君たちの部屋に泊まったらいいんじゃないの? その方が近いし楽でしょ」  紗月の提案に保輔が顔を引き攣らせた。 「それも考えたけどな。俺の発情と被ったらヤバいねん。発情すると自分のフェロモンにやられて見境なくなるから、瑞悠を襲ってまう」  逼迫した表情に、直桜は以前の蜜白を思い出した。  フェロモンが暴走すると自分のフェロモンに飲まれると武流が話していた。更に、フェロモンが暴走しだすと寿命が近いとも言っていた。 「それって、フェロモンが暴走してるの?」  恐る恐る聞いてみる。  保輔が首を振った。 「いや、俺のは、好いた相手を自覚すると出んねん。不定期やから、いつなるかもわからん。俺の精子の受精率、猫並やねん。瑞悠を傷付けたないから、同じフロアに泊まるんは無しやなって」  猫並、つまりは九割以上受精するということだろうか。保輔も少子化対策の被験体だということをすっかり忘れていた。一先ず、寿命でないなら、良かったと思う。  保輔の瑞悠への想いも本物なんだと、改めて感じた。 「全く、苦労人だねぇ、保輔は。大変ならもっと色々相談しなよ」  今度は紗月が保輔を撫でてあげていた。 「どうしてもヤりたい時は、清人が穴、貸してくれるって」  紗月が親指でびしっと清人を指さす。 「はぁ⁉ 何で俺なんだよ」 「この中でフリーセックス派、清人だけじゃん。それとも、私が男に変わって相手してやろうか?」 「ダメだ、俺が相手する。俺、リバだから好きな方でいいぞ」  清人が割と本気の顔で保輔に向き直った。 「いや、せやから俺、女が好きやって言うとるやん。男は多分、智颯君以外、勃たれへんから、無理や」  清人が本気でショックを受けた顔をしている。 「智颯なら勃つんだね……」  感心というか呆れというか何とも言えない心境になって、思わず零れてしまった。 「顔が瑞悠に似てるからかなぁ。ある意味、瑞悠より可愛いし。けど、智颯君もあかん。円に殺されるさけ」  保輔が怯えた顔で左頬を押さえた。  そういえば、心なしか左頬が腫れている気がする。 「まぁ、あれだ。発情については陽人さんにも相談してみろ。強化術で何とかなるかもしれねぇし、それ以外の解消方法も多分、提示してくれる」  清人が気を取り直して表情を改めた。 「そうなん? それ以外って、何?」 「詳しくは陽人さんに聞け。俺も説明できるほどは知らねぇよ」  そう話した清人は何となく知っているような顔に見えた。 「そっか、なら話してみるわ。なんや、相談したら気ぃ楽になった。時々にはこっちのマンションにも泊まりに来るさけ、よろしゅう」  顔を上げた保輔は、すっきりした顔をしていた。

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