1 / 1
第1話
竜と見間違うほどの、おおきな毒蛇の死骸が、集落跡のはずれで発見された。頭部には杭が刺さっており、黒い鱗には赤い模様が入っていて、腐った大地に流れる血の川のようであった。大蛇は、サタンの使いと噂されたが、毒こそあれど、無害で、愚鈍で、人を傷つける脳などなかったという。
まったく知らない、若い赤毛の男が、うちの隣の、空いている小屋を貸してくれないかと尋ねてきた。数年前まで、独り身の老人に貸していて、長い間そこで暮らしていたが、ある日ふらっと砂漠に消えてから戻ってきていない。誰もが死んだと思っていたので、その男に許可を出した。
男は、ゲフェンと名乗って、数日かけて小屋を綺麗に掃除すると、人々に手伝えることはないかと聞いて回った。ゲフェンは、背が高く、体格もよかった。見てわかるほどに腕や足の骨が太く、その周りには、しなやかな筋肉、その上には、白くてつややかな肌があった。しかし、背中や足、ひじ、頬などは、蛇や魚を思わせるような鱗が、皮膚の代わりをしていた。顔だけ見れば、すこし変わった容姿の男で通ったが、後ろ姿は、まるで、本物の悪魔のようだった。赤い髪を長く伸ばしていて、左目を隠していた。その毛はよく抜けたので、訪れた家には赤い毛が残された。
ほとんどの人間は、ゲフェンの姿を見て、申し出を断った。しばらくして、ゲフェンは、小屋に籠り、誰の迷惑にもならないように、夜中にひっそりと水を汲んで暮らすようになった。
ゲフェンは、どう考えても、悪意などまったく持たない、ただただ、善良な人間だった。人々は、異形の姿をしたゲフェンを見れば、あの鱗がうつったり、病気になると考えたのだろう。だが、隣に暮らすわれわれ家族には、何の影響もなかった。夜中に、啜り泣くような声が、冷たい風に乗って聞こえてくるだけだった。
そろそろ眠ろうかと思っていたころ、足を引きずって歩くような音が、家の前からしていた。それでいてなかなか過ぎ去っていかないことに、妻が不安を覚えていたので、恐る恐る扉を開くと、ゲフェンが家の前で倒れていた。彼はこちらに気付き、目が合い、気まずそうに眉をひそめて笑った。
「ああ、すみません、迷惑でしたか」
オイルランプでよく照らすと、その体はひどく傷つけられていて、血が滲んでいるのが見えた。切られたのか、噛みつかれたのか、わからないが、あたりには這ったあとと、血が残されていた。怪我をして、うまく歩けずに転んでしまったのだろう。
「獣にでも襲われたのか、うちへ入りなさい、手当てをしなければ」
「いえ。平気です。騒がしくして、ごめんなさい。では……」
ゲフェンは立ち上がると、転がっていた水瓶を抱えて、ゆっくり歩き出した。
「待ちなさい」
「大丈夫です、帰ってくる頃には治りますから。ぼくは、うんと、体が丈夫なんです」
わざわざ、振り返り、立ち止まって答えた。
「本当かね?」
「はい。帰り道にお伺いしましょうか。ああ、でも、もう遅いですし、朝にします」
「困ったら、時間なんて気にせず、うちに来なさい」
「ありがとうございます。うれしいです。それでは……」
怯える妻を、私はなだめた。恐れることがないとわかると、妻は安心して、寝床に戻って行った。
彼が恐ろしいのは、見た目だけであることはよく知っている。私たちだけではなく、街の誰もが。数週間前に、大火事が起きた時、真っ先に火の中に飛び込み、残されてしまった子供を助けたのは他でもない彼だったからだ。消火と瓦礫を運ぶ手伝いもして、彼がいなければ、被害はかなり広がっていただろう。しかし、それでも、ほとんどの住人は、まだゲフェンを恐れたままだった。
なるほど、たしかに、それならば大火傷を負ったはずだ。今の彼に火傷のあとは残っていないように見える。
数刻して、人の気配がしたので、外に出ると、しっかりとした足取りで歩くゲフェンがいた。本人の言うとおり、全身の傷は跡形もなく消えていた。
「ぼくのことを心配してくれたんですか?」
ゲフェンはひどく驚いていた。そうだろう、どれほどの善い行いをしても、近寄るなと言われていたのだから、私が気に留めることなんて、予想していなかったのだろう。
「すみません。お休みする所を、ぼくなんかが。ほら、傷なんて、もう、どこにもないでしょう」
足元に水瓶を置いて、私に体を見せるためにか、目の前で一回転した。
「本当のようだ。しかし、誰がきみを傷つけたんだ?」
「ああ、もしかしたら、ぼくを襲ったものが、皆さんを襲うかもしれないって、そう思いますよね。でも、そんなことは、ぜったいに、ありえませんから」
「なぜだ?」
「ぼくが醜い姿をしているからですよ。ぼくより醜いものが現れたら、それを傷つけるかもしれませんが。でも、そんなことって、ありえないでしょう」
私は何も言えなかった。ゲフェンは緊張しているのか、俯き、私と目が合わなかった。
「あの、えっと、さっきの、話は、本当ですか?」
「うん?」
「うちに来ていいって、本当に、迷惑ではないですか?」
「気にしなくていい。迷惑だなんて。私は、きみを醜いと思ってはいないよ。最初は、まあ、さすがに、驚いたがね」
私は少し落ち着きを取り戻して、ゲフェンを気にかけていることを伝えようとした。彼の長い耳が真っ赤に染まっていた。
「あ、ありがとうございます。だめになったら、すぐ言ってください。では、ぼくは、帰りますね。また明日……」
「おやすみ……」
彼と挨拶したのは、一度や二度ではないが、また明日と言われたのは初めてだった。
めずらしく、ゲフェンが昼間に外出していたようだった。山羊の肉とパンを持って、うちを訪ねてきた。
「よければ、これ……」
「どこからこれを?」
彼が、店員や旅の商人に相手されるはずがない。もしかして盗品なのではと疑ったが、すぐにそれは覆された。
「あっ、ぼく、ぶどう酒を作るのが仕事だったんです。昔作ったものを、近所の子供に頼んで、お店や、旅の商人に持って行ってもらうんです。そうしたら、いろいろ交換してもらえるんですよ。あまり、ぼくのことを怖がらない子もいますから」
騙されているようだが、きっと、ぶどう酒を渡さないと、日々の食べ物や日用品も手に入れられないのだろう。
私は彼を疑った自分を恥ずかしく思い、せめて自分の気持ちを慰めるために、彼をもてなそうと決めた。
「ありがとう。昼食はもうとったかね?」
「いえ、まだですが……」
「妻に頼んで、肉を煮てもらおう。一緒に食べよう」
「いいんですか?」
「あがりなさい」
妻は驚いたが、彼女もゲフェンのことを気にしてくれていたようで、食事を一緒にとってくれた。ゲフェンは、我々の食べる速さに合わせて、ゆっくりとパンを食べていた。彼の大きな手に乗っているパンは、あわれなほど小さく見える。
「せんせい……」
ゲフェンが消えそうなか細い声で私のことを呼んだ。膝を抱えて、大きな体を精一杯に縮こめている。
「ぼくも、先生って、呼んでもいいですか?」
「いいけれど、もう呼んでるじゃないか?」
「他にどう呼べばいいか、わからなくて。みんながそう呼んでいるのは知っていましたから。でも、いいなら、構わないですね」
食事を終えて、片付けを手伝った後、ゲフェンは私の前に座って、じっと見ていた。私のようすを観察しているのかと思ったが、どうやらそうではなく、その証拠に、おだやかな表情をしていた。
「どうかしたかな。なんでも聞こう。話してみなさい」
「あっ。いや。大したことではないんです。その、ぼく、誰かと食事するのは、ほんとうに久しぶりで、懐かしくて、うれしいなあって」
「そうか。それは良かった。前には誰と?」
「妹とだったと思います。妹は、ぼくとちがって、美しくて、人と番っていました。喧嘩すると、ぼくのところに帰ってくるんです」
「ほかの家族は?」
「弟がいます。あまり仲良くはないんです。でも、昔は、三人で仕事をしていましたよ」
私はゲフェンの言葉に違和感を覚えながらも、そのことには触れなかった。
「先生はとても優しいひとですね。ぼくなんかを相手して、ほんとうにいいんですか」
「なぜそう思うのかね」
答えに詰まる時、困った時、手を遊ばせるくせがあるようだ。何度もそうしているのを見た。
「ぼくに優しくするより、他の人にそうしたほうが……」
「隣人は、自分自身のように愛すべきだ。まあ、きみは本当に隣人ではあるが。きみもそう考えて行動することがあるだろう。同じことだよ」
「先生、ぼくはね、先生のような、素晴らしいひとではありません。人の真似事が、すこしうまいだけ。欲でしか動けない、姿だけではない、醜い心を持っているんです。誰かに認めてもらいたくて、誰かと少し仲良くなりたかっただけで、先生のように、ただただ、親切な気持ちで、人と接することなんてないんです」
「だとしても、危険を顧みず、人助けをしたり、その体格を活かし、進んで力仕事をしている。皆、助かっているよ。誤解が早く解けるといいのだけどね。きみは立派な人間だ」
ゲフェンの頬を隠していた長い横髪が、窓から入ってくる風に吹かれた。露わになったその肌は、日に当てられて、黒瑪瑙のようにつやめいていた。あわてて、横髪を掴んで、隠すようにした。薄い下唇を噛んでいて、何かに耐えているようにも見えた。
誤解を解くのは難しいだろう。だが、気持ちは嘘ではない。そうなればどれほどいいかと思う。
「……ぼく、そろそろ戻ります。本当に、ありがとうございました。美味しかったです。奥さんにも、よろしくお願いします。次はぶどう酒を、持ってきますね」
何かに呼ばれたように、ゲフェンは風が吹いた方向を見て、立ち上がった。
「ものなんて持ってこなくても、遊びに来ていいのだよ」
「すみません。まだ、ぼくには、その気持ちがわからないんです」
「そうか。好きにしなさい。いつも薄着だが、あまり待ち合わせはないのかね? 昼間は暑くとも、冬は近い。夜は、冷えるだろう」
ゲフェンは、元々はもしかしたら布袋であったようなぼろ切れで背中を隠していて、下半身は薄汚れた亜麻布を、紐で縛って固定させていた。まるでエジプトにいる奴隷のような姿だった。長身の男の、ひざまで伸ばした髪は、服の代わりに身を隠すためでもあったのだろう。私の言葉に困り、戸惑っている。
「あ……、そうですね。体がおおきいので、使えそうなものが手に入らなくて。手先も不器用で、ぼくが自分でやろうにも……、妹が作ってくれたこれがあるだけです」
私はそれを聞いて、洗い場にいる妻を呼んだ。
「彼にマントを作ってやってほしい」
「今作りかけのものがあります。もっと大きく作ればいいですね。それまで、これをお持ちになって」
妻が持ってきたのは、彼女が嫁入りしたときに、母に持たされた織物だった。蒼色に染められ、所々に金と銀の糸が織り込まれた、めずらしく、高価なものだった。
「大きなものはこれしかないの」
「えっ、でも、こんなもの……、ぼくに?」
「立派だけれど、私が持っていても、もったいなくて、砂とほこりまみれにしてしまうばかりなんです。同じようなものがたくさんあるから、気にしないで」
ゲフェンは織物を押し付けられ、立ち尽くしていた。
「ぼくには、もったいないです」
「いいお肉とパンのお礼です。いらなければ、質にでも出して」
「そんな……、あ、ありがとうございます。大事にします」
震える声でそう言うと、逃げるようにして、ゲフェンは、足早に去って行った。
それから、数日に一度、ゲフェンはうちを訪ねてきて、一生に食事をとった。何も持たなくていいのに、食べ物や飲み物、宝石や花を持ってくることもあった。そのたびに、私たちは、彼に魔除けのアクセサリーや果物、日用品や書物をわけてやった。彼が私の元に迷い込んだのは、運命であろう。彼の人生を少しでも照らしてやれればいい、と、その思いで、交流を続けた。
妻がゲフェンのために大きなマントを作り上げ、蒼い織物はそのまま持っていると目立つので、はじを切り取って飾り帯にした。これでいつも身につけてられる、と、彼はとても喜んだ。残りは金に困った時のお守りだと言って、妻に持たされていた。何かの助けになるといいと思い、読み書きを教えると、覚えはあまりよくなかったが、たどたどしい感謝の手紙をもらった。
いつのまにか、日中もひどく冷え込むようになった。夕食をとったあと、今日もゲフェンの顔を見なかった、と、妻と話していた。気がつけば、七日は会っていないような気がする。噂をすれば、めずらしい時間に、彼がやってきた。
家に入るや否や、何かがあった様子で、声を荒げた。
「先生!」
「どうしたのかね、落ち着きなさい」
私は、妻に、席を外すように伝えた。話を聞こうと近寄ると、なぜか、ゲフェンは、飛び退いて壁に背をつけた。
「あっ、近寄らないで……、ください」
「ゲフェン? 落ち着いて、私に話があるから来たのだろう?」
「先生、ぼく、ちかごろ、おかしいのです」
腕を前に突き出して、首を横に振って、私のことを拒否している。
「今の様子を見ていたらよくわかるよ。説明できるか?」
「先生と話していると、変な気持ちになるんです、だから、しばらく、会わないようにしていました。そうしたら、会えないと、もっと変な気持ちになって。先生なら、きっとわかると思って。でも……」
ゲフェンは地面にへたりこみ、頭を掻きむしった。呼吸が荒く、顔が赤い。
「先生、ぼくは、どうすればいいんですか?」
病か、呪いかと思ったが、そのどれでもない。狭い人間関係の中で、友人に持つ好意を恋愛感情と勘違いしてしまうことは、子供によくあることだ。だが、その対象が、妻ではなく私であるとは、思いもしなかったが。
自分自身を理解できずに怯えるゲフェンの肩に触れ、壁と背中の間に手を入れた。人間でも、動物でも、背を撫でてやれば落ち着いていくはずだ。
「君は、今、すこしばかり興奮しているようだ。ゆっくり呼吸しなさい」
「わかりました、先生、でも、ぼく、先生に触れられると、息が苦しくて」
「私は、なんでもない、ただの男だ。君をおかしくさせる力なんて、ひとつもないのだから。安心しなさい、さあ……」
ゲフェンの背中は、鱗に覆われているからか、冷たい。顔を覗き込むと、ゲフェンは、手のひらで自らの顔を隠してしまった。
「こんなこと、はじめてです」
「そうだろうとも。何か飲むかね。気分が良くなるよ」
「あ、はい……」
木のカップに水を入れて持ってきてやると、ゲフェンは受け取り、少しずつ飲んだ。頭が冷えるといいが、彼の緑の目、縦に長い瞳孔が、不安を視線で伝えてくる。好奇心で、髪をかきわけて、隠れている左目を見ると、そこには怪我をしたような跡があり、目が潰れているようだ。瞼の皮膚を伸ばして縫い付けられている。眼球があるべき膨らみが無かった。
「傷は……、すぐ治るのではなかったのか?」
「これは、治らない傷なんです。奇跡をもったひとに殴られて、元に戻らないんです」
「奇跡?」
「もうずっと、昔のことですから。気にしないでください」
聞かれたくない過去もあるだろう。ゲフェンの乾いてひび割れた唇にうるおいが戻る。ちらちらと見え隠れする舌は、少し細長く、それでいて、二股になっていた。
「ぼく、近いうちに、この町を出て行こうと思っています。それまでに……、先生に、ぼくの気持ちを、わかって欲しくて、いてもたってもいられず、わけがわからなくなって……」
「出て行かないといけない理由ができたのかね」
「そうではありません、けど、でも、ぼくは、ここにいない方がいい……」
「止めはしないが……、私たちのことを気にかけて出て行こうとしているのなら、まったくそうする必要はないよ。ゲフェン、君が居なくなると寂しい」
「部屋、片付けて、出ていきますから。先生には、ほんとうに、どれほど感謝しても足りません」
少し落ち着いたのか、ゆっくりと呼吸し、おだやかな表情に戻っていった。きっと、言葉にしてしまえば大罪になることだから、わからないと表現するしかなかった。彼の中で、どのような感情であるかは、整理されているだろう。私は男で、妻がいるのだ。
「先生……、ぼくが出て行っても、ぼくのこと、忘れないでくださいね」
「忘れたくとも忘れられないだろうよ」
「そうでしょうね。ぼくって、変ですから……。また、最後に、あいさつに行きます。それまでにもう少し、いろいろ、考えておこうと思うんです」
自分を醜いと言わなくなった。笑顔を見せたときの彼は、天の使いのように見えた。全身に走る黒い鱗は、いつのまにか消えてなくなっていた。
ゲフェンを帰らせると、妻が床を這って私の前に出てきた。全身が震えていて、寒いはずなのに、額から汗が滝のように流れていた。
「どうした?」
「あ、あなた、無事でしたか」
「何があった?」
「あなたこそ、何もありませんか。良かった……」
「私に? 私は何も……。ゲフェンが訪ねてきただけじゃないか?」
「……どうか、おねがいですから、あのおそろしい悪魔と付き合うのをおやめになって」
真っ青な顔に、汗で濡れた髪が張り付いていた。
「おまえは、あの子がどれだけ苦しんでいるか、知っているくせに、悪魔と呼ぶのか」
私は失望した。妻は私と同じ想いでいると思ったのに。一緒に食事をし、話をしたのに、それでもわかってもらえなかった。あれほど優しくて、心の清らかな青年は、世界のどこを探してもいないだろう。
妻は冗談や、嫉妬でそう言っているのではなく、本気でそう思っている。演技だとしたら、たいしたものだ。
「人に化けていたんですよ。私、最近、気付いたのです。さっきなんて、大きな蛇の悪魔にしか見えなかった……」
「疲れているんだ。最近、夜中まで針仕事をしているだろう。だからだよ」
妻は首を横に振った。
「でも……」
「休みなさい。私は少し様子を見てこよう。本当に悪魔だったのか……、確かめてくる」
妻が私を止める声を最後まで聞く気にもならず、外へ飛び出して、ゲフェンのいる小屋に向かった。
小屋の覗き窓から明かりが漏れていた。近づくと、妙な声が聞こえてくる。どうやら複数人いるようだった。小屋の様子を伺ってみると、ゲフェンの声もはっきりと聞こえてきた。
何ごとだろうか、三人の男に囲まれていたのは、予想通り、ゲフェンだった。蛇の悪魔と妻は言うが、鱗は少し残されているがほとんど人の肌に変わっていて、背から伸びている大きな黒い翼をはためかせて暴れているようだった。何をしているのかはわからないが、男たちの笑い声とゲフェンのうめき声がしている。血と、酒の臭いが漂っていた。彼らは酔っているらしい。
「うっ、こんなことをして、主が、見ておられますよ!?」
「悪魔のくせに、信仰心はあるのかよ。立派だなあ?」
「あっ、ぼ、ぼくはっ、悪魔なんかじゃ、っ……」
ただ、暴行されているのかと思いきや、どうやらそれは、性的なものも含まれていた。うめき声の中に、ときどき、艶かしいような声が混じっていた。
「う、うぁっ、やめ、やめてっ、嫌っ、どうか、どうか、ゆるしてっ」
ゲフェンは体格がいいから、押さえつけるのは二人がかりだ。一人の男の性器が、ゲフェンの体の中に飲み込まれていくのが見えた。木の板に肉を叩きつけるような音が頭の中に響いている。
「が、はっ、は、く……」
「お前なんて、恐ろしくもなんともない、淫乱で弱い悪魔だ。人間に組み敷かれて、犯されて、惨たらしい姿を晒すためだけに生まれてきたんだ」
「あ、ご、ごめんなさ、いっ、ごめんなさいっ」
「うちの家内が死んだのは、お前のせいだ、お前が来たから死んだんだ」
「違っ……、ちが、いますっ、から、っ……」
胸がぎりぎり痛んで、押さえつけた。なんだ、これは? 何が起きているのだ? 私は何を見て、何もできないでいるのだ? こんなことが現実に起きていて、なぜ、私は止めないのだ? 自分の友人が、暴行を受けているのに?
「ひっ、い、ぃ、っう、う、くっ、ぐっ……、だ、だれか」
口を大きく開けて呼吸している。先が割れた舌を引き攣らせ、長い牙が姿を現した。
「誰もお前なんて見てないんだよ。助けになんか来ない」
うねる腰が、地を這いずる蛇に見える。あの大男なら、三人くらい、振り払えるのではないか。だとしたら、あれは、望んでやっているか、言うことをきかされているのではないか。
ゲフェンの片手にナイフが突き立てられて、カラスのような声をあげた。
「っ、うぁ、い、痛っ、痛いっ」
「死なないくせに、大袈裟なんだよ」
次は、喉目掛けて、つるぎが突き刺さった。目を見開き、黒い血が溢れてくる。床に串刺しにされ、暴れる力も失われていくだろう。石柱のように太い足が震えていた。
「が……っ、はっ、かふ……」
それでもなお、ゲフェンの目の光は失われておらず、助けを求めて、天に向かって、片手を伸ばしている。本当に、空から助けが来ることを信じているのだろう。その様子を、男たちは声をあげて笑っていた。彼らには、ゲフェンが、何に見えているというのだ?
ゲフェンの性器が半勃ちになっていて、ぼた、ぼた、と、精が漏れ出していることに気付いた。なぜか、わからなかった。彼はこの行為に快楽を感じているのか? だとしたら、何もできない私が救われる。あれは、いくつもの律法に逆らう行為ではあるが、まったく見なかったふりをして、明日も明後日も変わらず接すればいい。起きたことの記憶はなくならないだろうが、三日もすれば、痛みの記憶は消えてしまうだろう。
腹の上に血だまりができて、その上を白い精が流れている。心なしか、表情も、何かを期待しているようだった。喉を潰されて声はうまく出ないらしく、声というより、口で空気を噛み、飲んでいる音だった。
私は、小屋の外壁にうずくまって、歯を食いしばっていた。助けを求める仕草が、頭にこびりついて離れない。快楽を感じていても、あれは望んだ行為ではないはずだ。どんな音よりも、自分の胸の音が大きい。踏みつけられているような痛み、息苦しさ。彼はもっと苦しいはずだ。
「ひゅっ、は、ん、う、はぅ、はひゅ……」
腕から力が抜けて、されるがままになっていった。満足した男は小屋を出ていき、そのたびに私は息を殺した。最後の男が出ていき、彼の息と、虫の声だけが聞こえていた。胸の痛みからは解放されていた。入り口側に周り、そっと扉を開くと、こちらを睨んでいるゲフェンの顔があった。汗と血のついた黒い鱗が、ランプの光に当てられて、ぎらぎら光っていた。
「っ……、なんだ、先生か……」
ゲフェンは、自分に突き刺さった刃物を抜くと、上半身を起こし、絡まった髪を手で解いた。
「先生、なんで、ここに来たんですか」
「妻が、君の様子を心配して。それに、騒がしかったから、見に来たのだが……」
「……見られたくなかったなあ。先生は、ぼくのこと、よく思ってくれてたから、そのまま別れたかった」
「手当はいらないにしても、体は流した方がいい……」
いつのまにか、黒い翼は消えていて、いつも見るゲフェンの姿に戻っていた。大きな咳をして、口から血を吐いたが、特に気にしてもいなかった。それが日常のようで、だからなんだというのだ、と、濁った沼のような目が伝えてくる。ゲフェンを連れて小屋を出て、水瓶をひっくりかえして浴びせると、ゲフェンは大きくくしゃみをして少し笑った。
「いつもうるさくて、すみません。寒いとうまく動けないんです」
「そうか。外に火をつけてやろう」
「中、汚してしまいました」
「そんなの、いいから。体の方が大事だ」
前に住んでいた老人の生活道具がそのまま残っている。彼はあまり物に手をつけていないようだ。家から枯れ枝を持ってきて、ランプの火をとると、すぐに煌々と明かりがともった。ゲフェンの体を拭いてやり、焚き火の前に座らせた。火を囲み、私も手を温めた。
「先生、何があったか、聞かないんですね」
「話したいなら、聞くが……。そうしないほうがいいかと思って」
「どこまで見ましたか?」
「様子を見にいったら、小屋の外を男がうろうろ歩いていたんだ。泥棒かと思ってね」
「……そうですね。泥棒でした。奥さんにもらった織物を持っていかれてしまった……」
「君の命の身代わりになったのなら、それ以上のことはないさ」
お互い嘘をついていて、お互いにそれがばれている、と、思った。探り合うような会話で、いつもの、少し甘えたような声と態度ではなかった。
「いいえ。ぼくに命などありませんから、まったく無駄にしてしまったんです」
「ゲフェン、君は、確かに生きているじゃないか」
「……先生、ぼくのこと、ぼくが何であっても、きらいにならないですか?」
「ああ。そんなこと、好き嫌いと何も関係がないだろう?」
濡れた赤い髪は、頭から血を流しているように見える。死人だとでも言いたいのか。彼の大きな手を握ると、冷たくて、少し暖かいのに。
「あっ、先生、そんなことをしたら……」
「どうしたのかね?」
「ぼく、勘違いをしてしまう。気付いてしまう。ずっと無知なふりをして、先生に答えを押し付けようとしていました」
「否定はしないさ。でも、言葉にして、その気持ちを表現してはいけない。自然の摂理に逆らってはいけない。主が見ておられる」
「最後にね、少しだけ、希望をもらって、出て行こうと思っていたんです。卑怯ですね」
手の甲の鱗を撫でる。感触を覚えておく。もう触れることも、触れられることもないだろう。許されているのは、手を握ることだけだ。それ以上は、友人ではなくなってしまう。
「ぼくの、真の名を聞いてくれますか。これから先、困った時、恐ろしい目に遭った時、唱えてください。呪文のように。そうしたらね、ぼくは、どこからだって助けにきます。ぼくは、あなたの、人生の、奴隷になりたい……」
相手が私でなければ、幸せになれたかもしれないのに。黒い鱗が炎にあてられて、夕日の色に染まっていた。目は合っていない。合わせられない。魅入られて、帰って来れなくなりそうだった。彼は間違いなく、悪魔だった。私を誘惑して、善意を利用し、堕落させようとした。
「先生、ぼくの名はね……」
「危ない!」
見上げると、ゲフェンの背後に槍を振りかぶった男がいた。声を上げる間も無く、槍がゲフェンの胸を貫き、地面に串刺しになった。槍を掴んでいたのは、どうやら旅人だったが、そばに、黄金色に輝く、翼を持った、御使いがついていた。夜中にもかかわらず眩しく感じるほどで、美しい波のような髪を持っていた。
ゲフェンは立ちあがろうともがいたが、御使いが足で頭を押さえつけ、ゲフェンは動かなくなった。
「悪魔の言葉を聞いてはいけない。あなたのような知識人を狙っていた」
突然のことに、言葉が出なかった。御使いを見るのは初めてだ。確かに、神の国からきたものであろうと、説得力がある姿をしている。ゆったりとした、白い、汚れのない衣服、人を飛ばすには頼りないが、それでも大きな翼、高くて細い鼻と、つややかな唇、真っ白な肌は、まったく、性別を感じさせなかった。
旅人のほうは、三十代くらいの男であろうか。髭をたくわえていて、杖を持っている。特に旅人としておかしい様子はない。
「この悪魔を殺すことは、本来、できません。これでも、元々は偉大な天使だったのです。間違いを犯し、翼を失い、追放されました。人を拐かし、眷族としようとしていたのです。信仰があれば、強い力を持って、主に反逆できると思っていたのでしょう」
落ち着いた青年の声だ。彼はなんという御使いなのだろう……。足元では、ゲフェンが、地面に爪を立ててもがいていた。
「ほんとうに、危ないところでしたよ。この街に悪魔が住み着いたという話を聞いて、これでも急いでやってきたのですが……。しばらくゆっくり休養された方がいい。ひどい顔色です。住まいはどこでしょう? 我々が送りますよ」
旅人がそう言って、唖然としている私に手を伸ばしてくる。掴む気にはなれなかった。ゲフェンは、彼はどうなる?
「……彼は、悪魔ではない。心優しく、親切な、ただの、青年だ」
御使いが、空中を一回転する。水の中で泳いでいるみたいに見えた。私の頬を掠めるくらい、ぴったりと横に飛んで、耳元で言葉を紡ぐ。
「あなたにはそう見えているのですね? だから、この悪魔はあなたに近づいたのです。知識があるから、死をどのように考えているのか、ただ恐ろしいわけではないと知っていたから、人語をあやつる心優しい青年に見えていたのです。そうでもない人間には、大蛇の悪魔や、淫らな女に見えたでしょう。死を表した姿です。恐怖を乗り越えるために、力のない女に見立て、暴行して、死など恐ろしいものではないと、身内の死に折り合いをつけるためでしょう」
「彼を痛めつけるのはやめてください。私の友人だ。この街から出ていけば文句はないのですね?」
「私は、追い出すためではなく、殺すために、この地に来ました。この槍は主から賜った奇跡の槍です。悪魔の体を貫くためのものです。体はずっと残りますから、街から離れたところに運ばねばなりません」
止めることはできない。啓示を受けた彼らが、ゲフェンを悪魔だと言うのなら、それこそ、本当に、主が見ている。この甘えたが、大天使だったとは。もしかしたら、君の頭を踏み潰していた彼よりも上位の存在だったのかもしれない。
「それを見届けさせてはくれませんか。手が必要なら手伝います。彼は悪魔でも、友人でしたから。それに、彼の体を置いておくのに丁度いい、洞窟も知っていますよ」
「では、そこへ案内をしてください」
御使いが手を掲げると、ゲフェンの体が輝き、浮き上がった。槍を掴んで抜き取ると、たくさんの血が音を立てて落ちていった。ゲフェンは肩で息をしていたが、まもなく、止まった。恐怖が張り付いた表情があわれで、瞼を落とし、こわばった顔の筋肉を解くように触れた。
「もし、ほんとうに、あなた、大丈夫ですか? お気持ちお察しします。きっと、よき関係であったのでしょう。誰もあなたを責めません。知らなかったのですから。悪魔も、あなたのような者と、最後に交流できて、幸せだったはず。あなたが、罪悪感など、もつ必要はありませんからね」
旅人が、私の背中をさすった。暖かくて硬い手だ。気分が悪い。吐いてしまいそうだ。もし、ゲフェンと私の立場が逆だったならば、彼はなんとしてでも止めてくれただろう。自分が処刑台に連れていかれるような、足取りの重さだった。力の抜けた彼の体を、愛おしく思う。私は、死を、どのように認識していたのだろう……。
「ええ、なんともありませんよ。たくさん驚きはしましたが、今は落ち着いてきました。ところで、あの悪魔の名を、ご存知なのですか?」
私は旅人に話しかけたつもりだが、少し先を飛んでいた御使いが振り返った。
「この悪魔は、大天使サマエルの成れの果てです。あまり、こちらでは、名を知るものはいませんが。死を司る天使でした。この槍も、もともとは、これの持ち物です。主から愛されていたのにもかかわらず、今では、力を失い、砂漠を彷徨い、乾いた死骸を喰らって天に飛ばす程度のことしかできないのです」
「悪い天使だったのですか?」
御使いは、前を向き直した。しばらく悩んで、そのまま話し出す。
「悪くはありませんでした。真面目に仕事をしますし、おだやかな気質です。ただ、少し好奇心が強く、それでいて、なぜか、気が弱かったでしょうか」
「……そうですか。私の思っていた通りでした」
そして、しばらく黙って歩き続け、街のはずれの岩場の洞窟までやってきた。人が二十人ほど入る広さで、上には隙間がいくつかあるので、雨の日は少しこぼれてくるが、日の光が差し、星も少し見える。私が若い頃に見つけた場所だ。よく、ここで、キツネを飼っていたものだ。ここなら彼も、寂しくないだろう。
御使いが彼の遺体を仰向けに下ろし、潰れているほうの目に向かって槍を下ろした。指が少し動いた気もする。傷だらけの胸と腹をなでてみると、体の表面はもうすっかり冷たい。
「この槍を抜いてはいけません。元々は大天使の身体です。何千年もの、何億年もの時を耐えるでしょう。じわじわと傷が癒えて、起き上がれば、災いのもとになりかねない。この槍は、悪魔の体を殺し続けるためのものです」
広げられた手のひらには、さっき男たちにつけられた傷があった。塞がってはいたが、新しい肉の色が目立っていた。そこに、旅人が、杭を打ちつけ、両手両足を動けないようにしてしまった。じっと傷口を見ていると、杭を飲み込むように塞がっていった。
「燃えてしまえばいいのですが……。遺灰から起き上がるかもしれません。すべて回収するのは不可能です。痛々しい姿ですが、こうするしかありません……」
旅人は祈り、道具をまとめて立ち上がった。御使いは私の頭上に飛び上がった。
「主は見ておられる」
そう言うと、御使いは、消えてしまった。
「……それでは、行きますね。あなたに祝福がありますように……。きっと、また、私たちは出会うでしょう。なぜだか、そう思うのです」
旅人は振り返らず、しっかりとした足跡を砂の地に残し、どこへ向かうのか、もう決めているらしい。
私は、彼のそばに座り、腰を縛っていた蒼い飾り帯を抜き取った。血が染み付いていて、もう使い物にはならない。槍を抜いてしまえば、また、すぐに、先生、と、呼びかけてくるのだろうか。彼はひとつも私を責めないで、くしゃくしゃに笑って、喜んでくれるだろうか。
今から、君のために、私にできることは、ここで生を終え、神の国で彼を探すことしかないだろうか。
「こんなになってまでも、君は、名を呼べば、私を助けに来てくれるのか?」
御使いが口にした名前は、本当に、私に授けられた呪文なのか。
震える手で、槍を握ると、まるで生きているかのように脈打っているように感じた。
「大切な、私の友人、サマエル、君を助けたい。手遅れかもしれないが、それでも、すこしの希望でもいい」
知っていたのだろう、わかっていたのだろう、何もかも、すべて。
槍を抜くと、大きな目が開いた。何事もなかったかのように、息を吸って、吐いた。その時、街の方から恐ろしい地揺れのような音がして、空気が熱くなった。洞窟を抜けてみると、赤い炎が天まで伸びていた。世界が終わっていくような、美しい光景だ。妻が、友が、教え子が、燃えている。誰の顔も、黒く塗りつぶされたようになって、もう、思い出せなくなっていた。
「先生」
振り返ると、ゲフェンが起き上がっていた。杭は手のひらに刺さったまま、地面からは解き放たれていた。
「先生、ぼくを助けてくれたのですね。何もかもを犠牲にしたのですね。なんてことをしてくれたのですか? ぼくは、このままでもいいって、諦められていたのに……」
声が出ない。口を開いても、空気が抜けていく音しかしなかった。
「ねえ、ぼくの手を握る手が、なくなってしまったじゃないですか? もう、お話もできないし、先生、あなたの知恵も、知識も、すぐに失われていくのですよ。先生のせいで、先生が主の意思に逆らったから、天から星といかづちが落ちてきたのです。街のみんなも、瞬きする間に、のどを焼かれて、叫び声すらあげられないまま、骨も残らず、屑になって消えていくのですよ」
自分の姿を見ると、体には、ゲフェンの黒い鱗と同じものが、びっしりとこびりついていた。全身が、鱗に覆われ、手足を動かそうとしても動けなかった。
「でもね、先生、これでぼくとずっと一緒にいられますね。もう、邪魔するものも、しがらみもありませんね。先生がそう思ってくれていたなんて。ぼく、とても嬉しいのです」
ゲフェンの体にぴったりくっつくと、お互いが冷たくて、気持ちいい。私の顔に、ゲフェンの大きな顔が近づいて、私は、その鼻の頭に口をつけた。
「こんなに可愛くなってしまって。きっと、この小さな頭では、もう何も考えられないでしょうね」
洞窟に戻るゲフェンを追った。目線は低い。彼の足首とふくらはぎで、視界がいっぱいになる。
「先生、ぼくはね、いつも、あなたのような人を誘惑して、いくつも人を殺してきたんです。今のぼくには力がありません。だから、こうして、人を誑かして、自分の力のように主の力を使って、悪人の街を焼くのです。サマエルという悪魔は主と同じ力を使えるんだって、示すのですよ。そうしたら、そのうち、力が戻ってきますから。最後には、ぼくと、先生と、もっとたくさんの哀れで無害で愚鈍な蛇と、楽園でなかよく永遠に暮らすのです。ねえ、肉をお腹いっぱい食べて、ぶどう酒を浴びるほどに飲んで、わけがわからなくなるまで、セックスするのです。先生もそうしたいですよねえ……?」
言っていることと見合わない、屈託のない笑顔を、ゲフェンは見せる。大きな声で笑っている。心の悲しみや苦しみからは、もう解き放たれている。そこまで思考が行きつかない。たくさん肉を食べて、ぶどう酒を啜って、セックスがしたい。それだけだ。
「……ぼくは、そんな悪夢を見ただけです。心優しい青年を糾弾した街を、主がお許しにならなかった。主のお言葉であるところの、御使いと預言者の言葉を守らず、悪魔を解き放った先生が、醜い大蛇に変えられた。事実はそれだけです。ぼくは、堕とされていても、信仰を失ったわけではありませんから……。主は、ぼくをも利用しているのでしょうね」
頭を撫でられて、心地よさを表現するために、目を細めようとしても、瞼がないので、できなかった。醜いと言われても、心は動かない。
「実はね、先生のこと、そんなに好きじゃないですよ。先生は、ぼくに、愛されていると思ってくれていたのですね。好きでいてくれたのですね。先生は、家族に、奥さんに、うんと愛されて生きてきたのですね。だから、それが当たり前なんですね。あ、ねえ、先生、火が綺麗ですよ。たくさんの魂が煙に乗っているのが見えますね。ああ、見えるのはぼくだけでしょうか……?」
遠くからでも火花が見える気がする。洞窟の入り口が真っ赤に染められている。事実だけしかわからず、予想も想像もできなくなっていく。半分眠っているような感覚だ。言葉もどんどんわからなくなっていく。
「……先生……、……な、……い……先生。ぼく……に、……の……、を、捧……、る、……りで、……て……、る……、よ、……ね」
なんと言ったのかね、と、いつものように返したくとも、首を傾げることでしか、相手に伝える方法はわからなかった。聞こえてはいる。
「……せんせい?」
それが私を示す音の並びなのは理解していた。それだけしか、もう、わからないのだが、それだけは老いても、死ぬ寸前まで、覚えていられる気がする。
「縺ュ縺医? √≠縺ェ縺溘? 縲∬? 蛻?? 縺薙→繧偵? ∫音蛻・縺? 縺ィ諤昴▲縺ヲ縺? ∪縺励◆繧医? 縲ょ捉繧翫h繧翫>縺? 腸蠅? 〒閧イ縺」縺ヲ縲∵枚蟄励? 隱ュ縺ソ譖ク縺阪′縺ァ縺阪k縺九i縲∵? 縺ョ遏・諱オ繧偵←繧薙←繧鍋炊隗」縺吶k縺薙→縺後〒縺阪∪縺励◆繧医? 縲ゅ>縺セ繧ゅ? √◎縺?? 昴▲縺ヲ縺? k縺九b縺励l縺セ縺帙s縺ュ縲」
いかづちがいくつも落ちて、川をひっくり返したような雨が降る。体を丸めて温めようとしても、体温が上がらない。
「縺ァ繧ゅ? 縲、先生、縺ゅ↑縺溘↑繧薙°縲∝? 辟カ縲√⊂縺上↓豈斐∋縺溘i迚ケ蛻・縺倥c縺ェ縺?? 縲ゅ%縺ョ荳也阜縺ォ縲√↑繧薙↓繧ょスア髻ソ繧剃ク弱∴繧峨l縺ェ縺?? ∵ュエ蜿イ譖ク縺ォ繧ょ錐蜑阪′谿九i縺ェ縺? ュ伜惠縺ェ繧薙〒縺吶h縲ゅ◎繧薙↑縺ゅ↑縺溘′縲√⊂縺上→遏・繧雁粋縺」縺ヲ縲√⊂縺上? 諱舌m縺励&繧剃シ昴∴繧玖寐縺ィ縺励※逕溘″繧峨l繧九h縺? ↓縺ェ繧九s縺ァ縺吶h縲り憶縺九▲縺溘〒縺吶?」
硬い音と、衝撃が頭に伝わってくる。痛い、痛みが全身を走り、危険から逃げなければならない、と、その考えで支配される。暴れても、頭部が何かに固定され、この場から去ることができない。
「痛い! 痛い痛い! やめろっ! やめてくれっ!」
ゲフェンが歯を見せている。
「縺茨シ滉ス包シ先生? 菴輔°險? 縺」縺ヲ繧九s縺ァ縺吶°? 溘#繧√s縺ェ縺輔>縲√⊂縺上↓縺ッ陋?? 險? 闡峨? 繧上°繧翫°縺ュ縺セ縺」
「やめろ! 死んでしまう! いったい、何が起きているのだ?」
「蜿ッ蜩? 諠ウ縺ェ先生。菴輔b縺九b螟ア縺」縺ヲ縲∝多縺セ縺ァ螟ア縺? %縺ィ縺ォ縺ェ繧九↑繧薙※縲ゅ%繧薙↑莠コ逕溘? ∬ェー縺梧悍繧薙□縺ョ縺ァ縺励g縺?? ゅ″縺」縺ィ縺ゅ↑縺溘? 讌ス蝨偵↓縺ェ繧薙※陦後¢縺セ縺帙s縺ュ縲ゅ⊂縺上→縲√◎縺薙〒縺セ縺溘? ∽シ壹∴繧九→縺?>縺ァ縺吶? 縲」
体の先が冷えて、動かないのは、寒さのせいではない。もう痛みもない。痛みから逃れた先にあるのは、死だけである。私は、死から逃れるためだけに生きていた。彼は死にゆく私に慈悲の言葉をかけてくれると信じていたい。
「……ねえ。せんせい?」
預言者が、乾いた大蛇の亡骸を見つけ、大きく息を吐いた。彼が、見せしめに焼かれた街を見るのは、二度目だった。まだ水滴が鱗の上に落ちていた。
悪魔に恐れを抱かせるために、彼らが子供が眠る前に聞かせる話になったのは、およそ二百年後のことであった。
預言者は、目を伏せながら言う。あの日の、血と炎で赤く赤く染まった星空を、今でも鮮明に思い出せると。
ともだちにシェアしよう!