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10「ミルフィーユ」
*
半開きの瞼の向こう側に、朝日の煌めきが見えている。それも、優しい色味の光。俺はそれを浴びながら、ふわふわの寝具に包まれていた。何度も誰かと抱き合って朝を迎えたことはある。でも、こんなに幸せな気分に満たされたことは、おそらく一度も無かった。
「ん……」
すうっと穏やかに目が覚めた。こんなに深く眠ったのは、いつぶりだろう。家から逃げて以来、悪夢を見ない日の方が少なくて、それから逃げられるようにと、いつも誰かと眠っていた。
ただし、それは穏やかに眠るというよりは、激しいセックスの果てに疲れ果てて倒れるといった方が正確で、そうなるためにも、俺は能動的なプレイを好んでいた。そうして辿り着いた結果が、ビッチと呼ばれる今の自分だった。
でも、本当は心から満たされるような気持ちになって眠りたかった。ずっとそう思ってはいたけれど、それを叶えるのは難しかった。ようやくその時を迎えたのだと思うと、目の前がさらにキラキラと輝くような気がしていた。
「渚くん、起きた?」
後ろの方で早木さんの声が聞こえた。少し離れて眠っていたようで、布が擦れる音と共にこちらへ近づいてくるのがわかる。
「んっ」
すぐそばまで来ると、首筋にゆっくりとキスをくれた。すごく丁寧で、そこから愛おしさが流し込まれて来るような、優しくて満たされる口付け。それだけで胸がぎゅっと甘く痛んでいく。
「おはよう」
「あ、んっ……」
ただの挨拶ですら、昨日の熱が残るこの体には、甘い刺激に感じられた。耳に流れてくる声は、優しく深く響いていく。その痺れに震えていると、後ろからあの温かい両手が伸びてきて、きゅっと優しく抱き竦められた。
大事なものを慈しむような優しい抱擁に、俺は朝からクラクラと目眩がするほどに満たされた。幸せに慣れていない体が戸惑って、狂おしいほどに鼓動を早めていく。
「……お、おはようございます」
それを隠す事ができないくらいに動揺していて、気恥ずかしい気持ちになった。セフレと夜を過ごした後とは違って、今はこの時間をゆっくりと堪能出来る。そのことに、俺は言いようのない幸せを感じていた。
——なんだ、これ……。
満たされた感覚に酔いしれていると、突然早木さんが所在なさげにし始めた。抱きしめる手に少しだけ力を込めると、背中に唇を当てたまま小さく呟いた。
「渚くん、聞いてもいいかな」
「……なんですか?」
触れている感覚にうっとりとしていた俺は、照れ隠しのために声のトーンを落とした。それが行きすぎてしまい、思いの外冷たくなりすぎてしまった。
でも、早木さん本人はそんなことを気にしている場合ではないらしく、とても深刻な顔をして何かを問いただそうとしている。その顔を見ると、俺も途端に心がざわついてしまった。
あんなに甘い夜を過ごした後に、これほど険しい顔をして、一体何を言われるのだろうか。
——もしかしたら、傷つけられるのかも知れない。
そう思うと構えてしまい、体に力が入った。
「あの……、確認したいのだけれど、俺は五年分の思いが実ったんだと思っていいのかな。そうだとは思うんだが、その、あまりに夢のようで……」
「え?」
その表情の険しさからは想像もつかないほどの平和な悩みに、俺は思わず間の抜けた声を出してしまった。酷いことを言われるのかも知れないと思って身構えていた全ての力が、急激にストンと抜けて行く。
「それに、ちゃんとした告白もせずにいきなり抱いたから……。その、それで良かったのかなと思うと、どうにも心配になって……」
抱きしめる手は俺を少しも離そうとはしないのに、その言葉と声は情けないほどに弱々しい。その乖離の酷さに、俺は思わず大きな声をあげて笑ってしまった。
「え、なに、なんでそんなに笑ってるの?」
「い、いや、だって……。俺、昨日確認したでしょう? こんなやり方でいいんですかって。それでも止まらなかったくせに、今更……あははっ」
そう、俺は昨日何度も確認した。五年も片思いをして、一緒にいる機会があっても話しかけられないほどに焦がれていたのに、こんな風に体から始まっていいのかと、何度も確認した。
俺だって怖かったのだ。その時にはもう、なぜだかわからないけれど、一秒ごとに好きになっていくような感覚さえあったのだ。その思いの変化のスピードに恐れをなしていたから、俺のためにも確認していた。それなのに、今更何を言うのだろう。
それでも、この機を逃したくないからと言って、体を手に入れようとしたのは紛れもなく早木さん自身だったはずだ。
「そう……だけど。でも、結局は体だって手に入れられたかどうかなんて、俺にはわからないわけだから……」
信じられなかった。昨日はすごく堂々としていて、欲しいものはなんでも手に入れるのだと啖呵を切って見せたくせに、その口でこんなに自信のない言葉を零すなんて、誰が信じられると言うのだろう。その変化に戸惑うばかりだ。
俺はあまり早木さんを知らない。ただ、世間の評判と、母のように慕うレイさんの心の開き方を見ていれば、悪い人ではないということはわかっている。
それに、触れ合うたびにその全てが俺の望む通りになっていって、夢見心地にさせてくれるという事実があった。
「あーあ、こんなに簡単に落とされちゃって。バカだなあ、俺は」
「え、じゃあ……」
早木さんの声に期待が込められる。俺を抱きしめる腕に両手を乗せ、その手をつーっと辿って降りていく。そして、彼の手に指先を絡めた。
「振られたばっかりなのに、もう好きになっちゃった。責任とって……」
そう言って、その手を下へと伸ばしていく。そのまま昨日の幸せを思い出して熱くなったところを握らせた。後ろで早木さんが息を呑む音が聞こえる。
「ね、名前読んであげるから、もう一回してよ」
彼は何も答えない。でも、鼓動の強さが代わりにそれを表していた。
「……ヤマトさん」
昨日教えてもらった名前を呼びながら、振り返った。目の前には、真っ赤になって俺を見つめているヤマトさんの顔があった。少しだけ伸びをして、その頬に擦り寄る。
「ちゃんと付き合って、俺のこと幸せにしてよ」
そして、目で誘う。もっと愛して欲しいと、必死に訴えかけた。見上げた目から、涙の筋がきらりと光った。それを見ていると、俺の心の奥が大きく揺れた。好きだとか嬉しいとかいう恋の感覚ではなくて、大きな感動のような揺らぎが起きていた。
この人は、これほどまでに俺のことが好きなのだ。その事に、純粋に感動してしまった。落ちてくる涙の粒が俺の頬に当たり、消えていく。まるで俺が泣いているかのように、涙の筋が描かれていった。
「もちろんだよ、……渚」
掠れた声で彼はそう答えると、僅かに声を詰まらせた。
俺は、その瞳の中に映る自分の姿を見て、長い間心の中にへばりついていた澱が、さあっと溶けてなくなっていくのを感じていた。
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