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12「ミルフィーユ」3
「チース」
レイさんがカウンターに身を乗り出して何かを言おうとしたタイミングで、バックヤードから誰かが入って来た。それに気がついたレイさんが、
「渚、ちょっと待っててね」
と言って奥へと姿を消した。時計を見てみると、ちょうど氷が届く時間のようだ。しばらく戻ってこないだろうと思い、俺はスマホを取り出して時間を潰す事にした。
ボディークリームの話が中途半端になったことで、少し気になった。そういえば、あれがどこのブランドなのかを知らないなと思った俺は、ブラウザを開き、検索ワードに『エピシエスク』と入力する。
「……あれ? 出てこないな。確かフランスのブランドじゃなかったっけ……」
そう思ってパッケージを思い出そうとするけれど、そういえば最近は自分では現物を見たことが無い事にも気がついた。もしかして似たような国内製品なのだろうか。詳しいことは、あとでまたレイさんに聞いてみる事にしようと思い、温くなりかけているビールに口をつけた。
「あ、渚。ごめんね、話の途中で。あのクリームね、今あんたが使ってるやつは、日本で作ってるものなのよ。それもね……」
「レイさん、お久しぶりー。今日のイベントってさあ……」
レイさんがその声に顔をあげた。そして、入ってきた人物が誰であるかを認識すると、みるみるうちに表情を曇らせていった。レイさんがそんな顔をするなんて、よほど嫌な客なのかと思って振り返ってみると、そこには一月前に結婚するからと言って俺を振った男が立っていた。
「えっ、ケイタ?」
ケイタはいつもより少しだけ畏まった服を着ていて、今日のイベントに事前登録した人が身につけるピンバッジをしていた。それはレイさんがデザインした非売品だ。これを身につけていると言うことは、今日の参加者であるということになる。
今日はフリーの人だけが参加できるイベントだ。既婚者であるはずのケイタがここにいるなんて、あってはならないことだ。腹の底から嫌悪感が湧き上がる。
「どういうこと? なんでケイタが参加してるの?」
俺の言葉に、レイさんが苦しそうな顔をするのが見えた。
「あれ、渚……? なんでお前がここにいるんだ? 今日はフリーの人だけのイベントだろ?」
俺が尋ねたかった内容を、なぜかケイタの方から捲し立てられ、思わず呆然としてしまった。それを聞きたいのは俺の方だし、あれ以来顔を合わせてもいないのに、俺がフリーじゃ無いことを当然知っているような言い方が気に入らない。
それに、レイさんの表情も気になる。俺は何か大事なことを隠されているのかもしれない、そう思わずにはいられなかった。
「合コンだからな。フリーじゃないとダメだろ。俺はただここで待ち合わせをさせてもらってるだけだよ。それより、お前はどうなんだよ、ケイタ。なんでここにいるんだよ。お前、結婚したんだろ? 絶対こんな場にいちゃダメじゃないか」
俺はケイタが好きだったんだ。セフレという立場だったけれど、いつも優しくて一緒にいる間だけは真摯なケイタが、本当に好きだった。
ケイタと会う土曜の夜は、いつもすごく幸せだった。だからこそ、暗い間は幸せなのに、明るくなるにつれて孤独感に苛まれた。その時間がすごく辛くて、何度も関係を解消しようとした。それでも、土曜を待ち侘びていた。どうしても、離れることが出来なかった。
そんな俺にさよならを言ったのはケイタの方だ。俺よりも相性がいい女性を見つけたから結婚するのだと言って、俺を最大に傷つけて去っていった。それなのに、フリーの人が来るイベントにいるなんて……。
「結婚するから、俺とはもう会わないんじゃ無かったのかよ。あれ、嘘だったのか?」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。あの日、立てなくなるくらいに落ち込んだのに、それが俺と別れたいがためについた嘘なのかもしれないと思うと、悲しくて情けなくて、辛くなった。
自分に問題があったのではなくて、同性だったからダメだっただけだという逃げ道を、今更奪われたく無かった。ここで新しい彼氏を探していたとしたら、俺は女性に負けたのではなくて、ただ単にケイタに必要とされなかっただけだという事になる。恋人が出来た今でも、それを本人から突きつけられるのは、耐えられそうに無かった。
「え? あー、あれ無くなったんだよ。直前で破談になっちゃってさ……。なんか、ね。俺がバイだって向こうの親にバレたみたいでさ。お断りされちゃったんだ」
「えっ、それ本当か? そっか、それは残念だったな……」
そう答えたものの、色々と納得はいかない。説明しているケイタの目は、異常なほどに泳いでいた。そんな状態の人の言う事なんて、信じられるわけがない。
ただ、この話が嘘だったとしても、ケイタは俺を選ばなかったという事実に変わりは無い。それはそれとして受け止めて、これ以上引き摺らないようにするしかない。答えはそれしかない。それだけは間違いなかった。
——大和さん、早く来て。
今日は大和さんと初デートの日だ。余計なことで心をぐちゃぐちゃにしたまま、貴重な時間を無駄にしたくは無かった。でも、そのためにはこの心の乱れを凪ぐ力が必要で、それを持っているのもまた大和さんだけだ。
今この場にいて欲しくないと思うのに、俺が今最も欲するのもまた、彼なのだ。俺の中では、大和さんの存在はそれほどに大きくなっていた。
「じゃあ今日はここで新しい出会いを探すのか?」
ケイタは少し言葉につまり、グッと何かを堪えるような素振りをした。込み上げるものがあるのか、小さく震えている。
「……うん、まあね。やっぱり、どうしても一人じゃ寂しくてさあ。……でもまあ、お前は楽しんで来いよ! 早木さんと付き合ってるんだろ?」
ケイタの目がだんだん赤く染まっていく。痛みを堪えるような顔をして、俺の肩をポンと叩いた。そんな風に軽く流そうとしているくせに、表情はあの日の俺のように傷ついている。
「なんでそのこと知ってんだよ」
すると、ケイタは突然プッと吹き出した。今し方泣きそうな顔をしたくせに、突然すごく楽しそうにくつくつと笑い始めた。そして、いつも俺が求めていた、あの嬉しい土曜の夜に見せてくれたような笑顔を見せてくれる。
「いやだってさ、お前めちゃくちゃ遊んでただろ? それがこんなにパッタリ途絶えたら、そりゃみんな気になるじゃん。レイさんも隠さずに教えてくれたから、知られていいんだと思ってた。……もしかして、知られたく無かった?」
その上、そっと優しく触れて、俺の意思を尊重しようとしてくれている。好きだったあのケイタのままだった。
——だからこそ、今はダメだ。
俺はもうビッチは卒業した。寂しさやライトな感情に流されたりしちゃいけない。俺がそうすることで傷つく人がいるんだからと、胸に手を当てて言い聞かせた。
たとえ目の前にいる好きだった男が、何か事情があって俺と別れていたのだとしても、それを明かさなかった以上は知る必要は無い。そう必死に言い聞かせた。
「いや、言ってもいいよ。俺も言うし。ただ、なんで知ってんのかなと思っただけだから。レイさんが話たんなら、それでいいよ」
俺の答えに安堵したのか、ケイタは一層明るい笑顔を向けた。
「だよな。良かった」
それで気が緩んだのか、俺の隣に座り、話し込もうとし始めた。いつも持っていたシガーケースからタバコを取り出し、火をつけて当然のように吸い始める。
自分から振った男を相手にしながら、隣にいることには少しも遠慮しない。そんな態度に俺は少しだけ気持ちが尖るのを感じていた。
——どういうつもりなんだ、ケイタ。
「なあ、渚。早木さんはさあ、どこまでお前に話したんだ? 俺もそれを知っておかないと、言っちゃいけないことまで言いそうだからさ。俺が……」
ケイタが吸ったタバコの煙が、俺の方へと流れてきた。このタバコは甘い香りが強くて、髪や服に匂いが残りやすい。ケイタに会った後、早く孤独から抜け出したいと思っていても、なかなか消えないそれのせいで、ずっと気持ちが引きずられていつも大変だった。
これからデートだというのに、違う男の吸うタバコの匂いを纏っていたら、きっと嫌な思いをさせるだろう。だからと言って急にこの場を離れることも出来ない俺は、狼狽えることしか出来なかった。
その時、俺の目の前に同じ香りを纏ったジャケットが現れた。煙が俺の服につく前に、俺を丸ごと包んみ込んで守ってくれた。
高い体温がそれを優しく膨らませていて、肌から立ち昇る香りと混ざり合っていく。それは何よりも俺を誘惑するものだ。すうっと吸い込んだ途端に、くらくらと眩暈がした。
「渚、お待たせ」
優しく響く低音に誘われ、俺は振り返った。柔らかく微笑む大和さんの姿は、いつも家で見る姿よりも少しだけノーブルな空気を纏っていた。
「大和さん。お疲れ様です、早かったですね」
「うん。渚が待ってるからと思って、近いのにタクシー乗っちゃった」
後ろから抱きしめるその腕が、優しくて安心感をもたらしてくれる。その上、いつもよりドレスアップしている姿に、思わず胸が高鳴った。俯いて照れていると、しっかり保湿されている手で顎を引かれ、そのまま唇を触れ合った。
「待っててくれてありがとう」
そう言って、夢を見ているようにうっとりとしたまま、にこりと微笑んだ。
「わあ。ちょっと、カッコ良すぎるんですが……直視出来ないよ」
「なんだよ、ソレ。ちゃんと見てよ。俺頑張ってるでしょ?」
あまりに美しくて、近くで見ると目が見えなくなりそうだと思うほどだった。いつもより丁寧にまとめられた長い髪、その束から少しだけ垂れる後毛がセクシーで、シックな色合いのスーツは彼の持つ浮世離れした魅力を最大限に引き出していた。
その上そんな美しい人が、自分の方を見て嬉しそうに微笑んでいる。一緒に暮らしていても、目が覚めるたびに目の前のその美しさに悲鳴を上げそうになるのだけれど、ドレスアップした彼の破壊力は相当なものだった。
それでもその視線はケイタに向けられていて、自分の恋人に近づきすぎた男を強く威嚇していた。店の照明に照らされているその姿は、余裕と力強さが同居していて、まるでどこかの王のようにも見える。
「ケイタさん、お久しぶりですね。お話中のところすみませんが、店の予約時間が迫っているので、渚を連れて行ってもいいですか?」
言葉は丁寧だけれど、その声音には強い非難の色が滲んでいた。ケイタもそれを感じたようで、焦って立ち上がるとジリジリと後退りした。
「あ、もちろんです。僕は向こうへ行きますから。念願のデートですもんね、邪魔しちゃ……」
そう言いながら立ち去ろうとしたケイタに向かって、大和さんはそのジャケットのラベルを握りしめて制すると、酷く冷えた声で言い放った。
「言葉数が多いと、失敗が増えますよ。少し気をつけたほうがいい」
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