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ドルフィン・コンプレックス

大西洋を臨む小さな街・メーリン。 海の要塞を意味するその名の印象とは正反対に、穏やかな人々が暮らしている。温暖な気候と美しい街並み。のどかな潮風が吹き抜けるビーチには、野生のイルカがやって来る。 輝く海とメーリンの街を一望できる場所に建つのは、エイドリアン《大西洋》研究所。小さな建物ながら、海に面した立地と、数年前までは水族館だったという設備を活かし、ここでしかできない特別な研究が行われている。 施設内の水槽に不純物を濾過した海水を直接引き入れ、常に新鮮な水質を保っているお陰で、サンプルとして採集した環境をそのまま表現する事により、限りなく自然に近い生態を見られるのだ。 現在も、さながら観光客の居ない水族館のようなその内部では、多くの海洋生物が飼育されていた。プラナリアなどの原生生物は研究室の棚に並べられた小さな水槽で、イルカなどの大きな哺乳類は屋外に造られた大水槽で。そして色とりどりの海水魚をはじめ、デビルフィッシュなどの軟体動物、果ては海藻に至るまで。落ち着いた青と白を基調とした内装に彩られた空間には、関係者以外の立ち入りを拒んでしまうのが勿体ないほど、美しい世界が広がっていた。 ライナーは、北東の大陸にある港町・ウォーレンからはるばるやって来た海洋生物学者だ。海洋生物学の修士プログラムを終え、ウォーレンにある研究機関の職員となったばかりだった。 彼がイルカの楽園とも呼ばれる小島を訪れた主な目的は、その素晴らしい環境の視察と情報交換である。 ウォーレンの研究機関とエイドリアン《大西洋》研究所は姉妹関係にあり、これまでにも多くの新米学者が受け入れられていた。 およそ3ヶ月の間、彼はメーリンにあるアパートメントで暮らしながら、エイドリアン《大西洋》研究所での活動に取り組む契約となっている。 施設の案内を受けていたライナーは、建物の中央ホールに位置するイルカの大水槽の前で、一人ぽつねんと佇む少年に心を奪われる。 少年の名はメリル。ここエイドリアン《大西洋》研究所の所長の一人息子で、メーリンの街から見える眩しい海にちなんで名付けられたという。まさしくそれらが人の形になって現れたような、まばゆく輝く金髪と、同じ色の長い睫毛に縁取られた、透き通った青色の瞳、太陽の光を受けて瞬く砂浜のようにきめ細やかで白い肌を持つ美しい少年だった。 しかしそんなメリルは、少しばかりの問題を抱えていた。誰にも心を開かず、友達も作らず、同年代のティーンエイジャーが外で活発に遊ぶ中、朝から晩まで研究施設の中を徘徊するだけの生活が、もう何年も続いているという。もちろんハイスクールにも通っておらず、家庭教師をつけてもうわの空で、実の父親であるコナー所長も手を焼いているらしい。 短い間ではあるが気にかけてやってくれ、という所長の言葉を受け、くだんの大水槽の前でメリルに声をかけるライナー。 はじめは人見知りしていたメリルだったが、ライナーがウォーレンの研究機関からやって来た新米学者で、これまでと同様、数ヶ月でここから居なくなる相手だと知ると、彼を試すように、ある秘密を打ち明ける。誰も信じはしないと半ば諦めた様子で。 何とメリルは、イルカと心を通わせる事ができると言うのだ。 所詮は子供の妄想、と内心鼻で笑うライナーだったが、態度には出さず、メリルの話を信じ込んだふりをしてやり、その日はその場を後にした。 翌日、朝会に向かう途中に大水槽の前を通り掛かったライナーは、アクリルガラスの向こう側でイルカと戯れるメリルの姿を目にする。またしても所長の言い付けをやぶったらしい。 しかし光の揺れる水面を背に、生まれたままの姿で泳ぐその様子は神々しいほどに美しく、またこの上ないほど幸せそうな表情を浮かべている無邪気な少年を、研修の立場である新米学者は咎める事ができなかった。 そんなメリルが特に打ち解けているらしいのは、ディランと名付けられたオスのタイセイヨウマダライルカだった。 元々はビーチに出入りしていた野生のイルカだったが、ある時怪我をして砂浜に打ち上げられたところをメリルが発見し、研究所に運び込まれ、一命を取り留めたのだった。以来ディランは、この研究所で飼育されている。 実はメリルがディランと心を通わせるようになったのはまだミドルスクールに居た頃。当時の彼は活発で、海遊びが好きな少年だったと言う。 しかし思春期を迎えた頃から、どういう訳か他人との関わりを避けがちになり、次第に現在のように学校にも通わず、日がな一日イルカの大水槽の前に佇んでいたり、水槽に入ってイルカたちと遊んだりするようになってしまった。 イルカという生き物は、エコーロケーションと呼ばれる能力を持っている。反響定位とも呼ばれ、自らの発した音の反響によって周囲の状況を把握するというものだ。イルカのそれは動物の中で最も優れているとされ、心身に傷を負った人間をも察知する。またそうした人間に寄り添い、セラピーの効果をもたらす事もあるという研究結果が幾つも報告されていた。 メリルは何らかの事情で心に傷を負い、それを癒してくれるイルカに出会ったのだろうとコナー所長や研究所の職員たちは推測していた。人間のセラピストの元へ通わせる事も検討したが、メリルは行きたがらなかった。 ある朝、ライナーがいつも通りに研究所へ行くと、所内はただならぬ気配に包まれていた。 飼育中のイルカのディランが、水槽から消えてしまったのだ。海水の汲み取り口から外海へ出て行ってしまったらしい。 濾過装置を飛び越えたのではないかという憶測も上がったが、調べてみると汲み取り口の柵が壊されており、鉄柵には通り抜ける時に付着したと見られる血痕があった。 血の臭いを嗅ぎつけたフカが水槽に入ってくる事を懸念し、すぐさまイルカたちを予備のプールに誘導しようと試みる職員たち。海水を流し込み、緊急用の担架を渡して一本道状のスロープを繋ぐが、人間のパニックが伝染したのか、イルカたちは暴れながら、大きな縦筒型の水槽をぐるぐると泳ぎ回るだけで、なかなか言うことに従わない。 と、右往左往する人だかりの陰で小さな水しぶきが上がった。 職員たちの視線が集中する。すぐに水面から顔を出したのは、メリルだった。どこからともなく現れた少年はイルカたちの危機を察知したのだろう。一度頭を振って水気を払い、大きく息を吸い込む。 「やめなさい!メリル!」 所長の制止も聞かず、衣服を身に纏ったまま、重そうな様子で水槽の中央へと泳ぎ出してしまう。いつものように裸になる暇さえ惜しかったようだ。 再び水に潜ったメリルは、水中で何やら体を揺らすように動かしたり、声を響かせたりしている。イルカたちとコンタクトを取っているのだと、ライナーにはすぐに分かった。イルカと心を通わせる事が出来るのだと、本人が言っていたのだから。 するとどうだろう。それまで縦横無尽に暴れ回っていたイルカたちが、まるで聞き分けの良い子供のようにメリルの周りに集まってきたのだ。 そうしてメリルは、みるみる内にイルカたちを落ち着かせると、軽やかな動きで避難用のプールへと誘導してみせた。 鮮やかとさえ言えるその一部始終を見守る事しかできずにいたが、しばらく呆気に取られた後、拍手喝采する職員たち。 「よくやったぞ!すごいじゃないか、メリル!」 「信じられないわ!どうやったの?」 笑顔と称賛の言葉がシャワーのように降り注ぐ。しかし自身の行ないが認められ、珍しく褒められた事に、メリルは却って戸惑っている様子だ。 当然と言えば当然かも知れない。これまで自分を問題児扱いして、腫れ物に触るように接してきた大人たちが一斉に手の平を返したのだから。 「さあ、メリル。早く上がりなさい。」 コナー所長が進み出て、身長の倍以上はある深い水槽の中で立ち泳ぎしているメリルに手を差し伸べる。 安堵に包まれたその時だった。メリルの背後へ、フカの背びれが迫っている事に職員たちが気付いたのは。 「メリル!所長!」 女性職員は悲鳴のような声で二人を呼ぶ事しかできなかった。 顔を上げたコナー所長の顔がさっと青ざめるのを見て、ようやく振り向いたメリルの右足に、ざらりとした感触が触れた。 瞬間、視界を横切る黒い弾道。 続いて、ぶわりと広がった赤黒い液体がメリルの細い体を取り囲む。水の中で形を結ばないそれに、着たままの衣類まで染められていくようだった。暴れるフカの体が白い水しぶきを立て、小さなメリルの陰すら見えなくなってしまう。 あまりに衝撃的な光景に、その場に居た全員が言葉を失った。 「…無事だったかい?メリル。」 沈黙を破ったのは、ライナーだった。その手にはボウガンのような器具が握られている。赤黒い血の中にぷかりと浮いてきたのは、太いモリを撃ち込まれたフカの死体だった。 フカの接近にいち早く気付いた新米研究者は、プールの傍にあった緊急用のモリを発射し、間一髪のところで少年を救ったのだ。 呆然としていたメリルだったが、幸いにも怪我はしていないようだ。コナー所長はプールサイドに膝を突き、水から上がってきた息子をかき抱くと、安堵の涙を流しながら感謝を述べた。天を仰ぎ、白衣を赤く染めて。 やむを得ない判断だったとは言え海洋生物に手を上げてしまった以上、自分は学者失格だと自責の念に駆られるライナー。 フカの死体処理や鉄柵の修理、環境の変わったイルカたちのケアに追われる職員らは新人の教育どころではなかったし、コナー所長も息子の命の恩人であるライナーに対して、その事を咎める素振りすら見せなかった。 研究という名のもと、他の生物の命を奪ってしまう事もある。実験という名のもと、本来ならば野生で生きていた筈の自由を奪ってしまう事もある。その現実は、駆け出しの海洋生物学者の心に重くのしかかり始めたようだった。 研究所の生活フロアにはシャワールームがある。 ライナーはそのドアの脇に設置されたシートに腰掛けて、自身の取った行動と向き合っていた。 「そんな事を気にしていたら、研究なんてできやしない!」 シャワーの音にかき消されないように少し大きめに張られた、メリルの声が響く。 近頃のメリルはライナーにかなり心を開いており、彼にだけは出会った当時よりもハキハキと話すようになっていた。 「ライナー。服を取って。」 もわりとした湿気が廊下まで立ち込め、窓を曇らせる。シャワールームから裸で顔を覗かせたメリルに、シートに置かれていたバッグを手渡すライナー。先ほど職員が持ってきた物で、中にはタオルと乾いた衣類が入っているらしい。 そうしながら、訊ねる。 「もし私が殺してしまったのがイルカでも、同じことが言えるかい?」 少年メリルはイルカを愛している。 「さあ、それはどうかな。」 閉じられた扉の向こうから、衣擦れの音と籠った声が答えてくる。 人間と打ち解けられなくなってしまった少年。その心にある慈愛の気持ちは必ずしも、イルカにのみ向けられるものではない筈だ。互いに地球上に生けとし生きる存在として、生まれ育ったこの街と海を愛するものとして、研究所内の全ての生き物たちに感謝と敬愛を込めて接しているようだった。 濡れた髪にタオルを被ったメリルがシャワールームから出てきた。立ち上がったライナーの顔を見上げる。 「でも、あの時ライナーがああしてなきゃ、今頃僕はここに居ないんだよ。」 そうして、メリルはライナーを元気付けようと、夜の海辺に誘い出す。 メーリンにあるアパートメント。消灯時間を過ぎたエントランスに、メリルの姿があった。 階段を降りてきたライナーを見ると、メリルは意気揚々と高台へ向かって駆け出してしまう。声を掛ける隙もなく、ライナーは慌てて後を追った。 夜の岬は少し不気味なほど暗く、すぐそばに建つ灯台の光は遠くへ向けられており、足元は見えない。 しかしメリルはライナーの手を引き、慣れた調子で岩場を下りていく。 辿り着いた先は、昼間に野生のイルカがよく出入りする入り江だった。海食崖の内側が何百年という時を掛けて器用にくり抜かれたそこでは、穏やかな波音が静かに反響し、どこからともなく射し込む月明かりが、夜の闇を溶かしたような水面に揺らめきながら落ちていた。 と、水際に立ち止まったメリルが、キューキューと甲高い声を発した。イルカの鳴き声によく似た音で、歌うように。何かを呼んでいるようだ。 しばらくそうしていると、メリルの足元の水面がなめらかに隆起する。顔を出したのは、エイドリアン《大西洋》研究所の大水槽から逃げ出した、あのタイセイヨウマダライルカのディランだった。 驚くライナーに、こうして自分の秘密を明かせる相手は一人だけだと告白を始めるメリル。 実はディランを逃がすため、柵を壊したのはメリルだったのだ。 保護された時の怪我は治っているにも関わらず、いつまでも水槽に居る事を窮屈に感じていたディランが外界に出たいと頼んできたのだという。 野生動物は飼育された環境下にいる個体と比べて短命な傾向にあるが、それでも構わないとディランは答えたそうだ。 そう打ち明け、やっと肩の荷が下りたメリルは満足気に笑った。まるで教会の懺悔室から出てきたような、晴れやかな表情だった。そしてまたいつものようにディランと戯れようと衣服を脱ぎ始める。 水槽を抜け出す際にまたしても傷を負ってしまった筈のディランを施設に戻すよう、説得を試みるライナーだったが、メリルの脇腹に血の滲んだ包帯が巻かれている事に気付く。 そこでようやく、汲み取り口の柵に付着していた血痕はディランではなく、メリルのものだったと判明する。イルカの誘導をするために水槽に飛び込んだ際、衣服を脱がなかったのは、包帯を隠すためだったらしい。 今にも海に飛び込まんとしているその身体を思わず抱き留めて制し、経緯を訊ねるライナー。メリルは仕方なくその腕に収まり、夜中の内に柵を壊し、先に外海へ出てディランを導こうとしたところ、体が柵に引っ掛かってしまったのだと正直に白状した。 夜中にひっそりと遂行していた作戦だったため今朝のように避難用のプールを準備する事はできず、自分の所為で水槽のイルカたちがフカに襲われないよう一晩中見張りを続けており、その際に持っていたモリが、結果的にメリル自身の命を救う形になったのだった。 ライナーはメリルに、傷が治るまで海水に入らない事を約束させる。 渋々言うことを聞き入れたが、まだ不満そうなメリル。聞くと、自分ばかりライナーに心を開いているようで、不公平だと言うのだ。 「ライナーの秘密を教えて。」 真っ直ぐに見つめられ、ライナーは思わず、エイドリアン《大西洋》研究所に来てからずっとメリルに惹かれていた事を告白する。 イルカと戯れる姿に見蕩れた日々や、人間相手には見せない表情を浮かべていた様子、そして上長であるコナー所長の言い付けを破ったその息子を咎められなかった自分自身の弱さまで。すべて打ち明けた。 意外な告白に驚いていたメリルだったが、自身が人間相手には容易に心を開けない旨を改めて述べた上で、同じ気持ちにはなれないが、ライナーには感謝していると伝える。 家庭教師はおろか実の父親ですら手の付けられない問題児だったメリルが、ライナーの言うことならすんなりと聞き入れるなど、大きな信頼を寄せているのは事実だった。それは初めて言葉を交わした時、イルカと心を通わせる事ができると聞いたライナーが、所詮は子供の妄想だと頭ごなしに否定したり、鼻で笑ったりしなかった事に起因していると言う。 これまで関わってきた職員や新米学者たちは皆一様に、そうしてメリルを嘲けり笑って来たのかも知れない。メリルがライナーに秘密を打ち明けたのも、どうせ同じように扱われるのだろうと半ば諦めの様子だったのが思い出される。 当初こそライナーは信じ込んだふりをしていたに過ぎなかったが、今となってはメリルの言葉を信用せざるを得なかった。 ディランの要望を聞き入れた事、パニック状態のイルカたちをあっという間に落ち着かせ、見事に避難用のプールへと誘導してみせた事、そして先ほどのように入り江にディランを呼び寄せた事など、信憑性は充分だった。何より水槽の中よりも圧倒的に嬉しそうに泳ぐディランがメリルに感謝している事は、動物と心を通わせる能力を持たないライナーの目にも明らかだった。 メリルはライナーに対して、人間の中では最も心を開いていると言い、一つになるなら相手は絶対にライナーであるとまで伝える。 それからライナーの手を取り、爪先立ちになると、唇を合わせてきた。ますます驚いて目を見張るライナー。 「一応、ファーストキスだったんだけど…」 照れ臭そうに笑ったメリルは、神妙な面持ちになり、もう一つの秘密を明かす。それは、本人にとっても受け入れ難い事実でもあると同時に、メリルが他人との関わりを避ける紛れもない理由だった。 メリルが抱えているのは:動物性愛(:ズー・セクシャリティ)と呼ばれる異常性癖のひとつで、異性愛や同性愛と同じように、イルカに対して性愛を抱いてしまうというものだった。 加えて、異性愛者が相手が異性ならば誰でもいいというのではないのと同様、イルカならどのイルカでも構わないという訳ではなく、殊更にオスのディランに対して特別な想いを寄せているのだと言う。 思春期に差し掛かった頃、自身が周囲とは違った存在だと自覚したメリルは次第に他人と距離を置くようになり、やがて通学自体もできなくなってしまった。 また時を同じくして、父が所長を勤めるエイドリアン《大西洋》研究所で保護されていたディランから、優しく穏やかな気持ちを感じさせてもらうなど交流を深める内、好意を抱くようになり、それはやがて性愛に変わったという。 第二次性徴期の終わりがけに居るメリルに想いを寄せるライナーも、一歩間違えれば:少年愛(ルビ(エフェボフィリア))という性的志向に分類される可能性もある。 いずれの場合も、心を奪われた相手が偶然、世間ではおよそ正常とされる範囲の存在ではなかったに過ぎない。だからこそライナーにはメリルを責めたり、拒んだり、否定したり、蔑んだりというつもりは毛頭無かった。 そんなライナーにすっかり気を許したメリルは、過去に興味本位から始まったメスのイルカとの性交体験も打ち明け、ついにはディランとの関係における欲求不満や願望まで口にした。 精通を迎えたばかりだったメリルの初体験を奪ったのはケニーと名付けた美しい野生のイルカで、ディランと同じく黒っぽい体に斑点のあるマダライルカだった。 ライナーは話を聞いているうち、その倒錯した愛情に若干の恐怖に似た感覚さえ覚えたが、やはりメリルを拒む事はしなかった。そればかりか、未だかつてないほど生き生きと自身についてのパーソナリティーを赤裸々に口走る少年に、思春期を抜け出したばかりのティーン特有の危うさを持った性衝動と、それに伴って、放っておけなくさせる魅力を感じていた。 それからライナーは、南アフリカ領の島で観測された、ペンギンをレイプするオットセイの話をしてみせた。 逃げ惑うペンギンを押さえ込み、5分にも及んだその様子は、自然界で起きた謎そのものだ。しかも、満足したオットセイはレイプしたペンギンを食糧として捕食してしまったという報告もあるが、解放する例がほとんどとされている。強いオスがハーレムを作って生活をするオットセイの習性ゆえ、そのペンギンはあぶれたオスの捌け口にされたという説もあるが、本当の理由は研究者でも分かっていない。 メリルは真剣にその話に聞き入り、何かを考えるような素振りを見せていた。 「愛していたかも知れないのに…」 種族を超えた関係という点に自身らとの共通項を見出したのか、メリルが呟くように言った。当のディランは彼から呼び出されたものの、期待した愛情表現をされなかった事に機嫌を損ねたのか、いつの間にか海中へ帰ってしまい、そこには暗闇と月明かりがあるばかりだった。 絶えず聞こえる波の音は、ゆったりとした時を刻んでいた。 「その愛が大きすぎると、時には相手を苦しめてしまう事もある。とても悲しい事だと思わないか?」 ライナーは諭すような口調で言い、メリルに考えを改める事を促した。 メリルの想いそのものを否定するつもりは無かった。 しかし歳若い少年の抱く、危険とも取れる思想や暴力的なまでの強すぎる愛情、そして被虐とさえ言える妄想を具現化するとすれば、遠くない未来に彼自身を滅ぼすと判断したのだ。 「分からない、分からないよ…」 悲しそうに言い、膝に顔を埋めたまま、凭れ掛かるように身を寄せてくるメリル。 ライナーの考えが、彼に正確に伝わったのかは分からない。自分を否定される事はないと信頼しながらも、今の話を聞いて、それを自身に置き換えることが出来たのだろうか。 その華奢な肩を抱き、ライナーは優しく言葉を押し出した。 「君も学者になればいい。」 何とも突飛な計画だったが、ライナーにはこうするしかなかった。 メリルの口振りから、彼が考えている事は予想でき、やがて引き起こされるであろう行動と、それによって招かれる結果も想像が付いてしまったのだ。もしもそれを防ぐ事ができるのであれば、口から出任せでも、極端すぎるインスピレーションでも、何でも構わなかった。 メリルは膝を抱えたまま小さく笑いを漏らした。自虐的な嘲笑。それから流し見るようにライナーを睨む。 「何を研究しろっていうの?ズー・セクシャリティについて?僕のような変態を集めて、難しい論文を書けって言うのかい?」 「海洋生物のすべてだ。君をそこまで魅了する生き物達について、もっと深く知りたくはないか?」 ライナーは目を逸らさず、むしろメリルの顔を覗き込むようにして続けた。 「私は君よりもっと小さい頃に海洋生物に興味を持ったが、未だに惹き付けられて止まない。」 プリスクール時代から海に暮らす生き物に魅せられ、興味の赴くままに勉学に励み、気が付いたらここに居た。そう言ってしまっても過言ではない。 そうして、駆け出しの海洋学者となって初めて行き着いた先は、海を湛えたような青い瞳を持つ美しい存在。ライナーがメリルに惹かれるのは、この小さな少年の中に、自分を魅了し続けてきた広大な海の神秘を見たからなのかも知れない。 「面白いぞ?研究の道というのは。」 「だって頭が悪いもの。」 「勉強なら、私が教えてあげよう。」 家庭教師が匙を投げたという問題児でも、ライナーの言うことならばすんなりと聞き入れるのは既に実証済みだ。そして何よりメリルには、学者にとって最も必要な知識欲、すなわち旺盛な好奇心が備わっている。 「パパが何と言うかな…」 「喜ぶに決まっているさ!息子は父親の背を見て大きくなり、やがてはそれを越えるものだ。」 「ライナーは、ライナーのパパを越えたの?」 思わぬ切り返しに、少し言葉に詰まるライナー。海洋生物に魅せられた自分を、父はどのように思っていたのか。あまり詳しく話した記憶はない。 若い学者は一度咳払いをし、 「大きくなったら、コナー所長──君のお父さんに許しを貰うんだ。」 心を閉ざしてしまった一人息子のメリルが、自身と同じ進路を望めば、父親であり海洋生物研究の第一人者でもある所長はきっと喜ぶだろう。 「イルカと話せるのだから、ディランたちに教えてもらえばいい。君の存在は、我々にとって必要な、大きな力になる。」 他人と違う事が窮屈だと言うのならば、その力を活かせばいい。海の生き物の声を聞き、意思の疎通ができるなど、喉から手が出るほど欲しい人材だ。ここへやって来た最大の目的である研究の発展を望むのであれば、この天賦の才を手放す理由が無い。エイドリアン《大西洋》研究所では取り合う事すらされなかったとしても、世界に出れば、研究者の強力な味方となれる逸材である。 「一緒に海へ出て、海洋生物の研究をしよう。」 ライナーは力説したが、メリルは困ったように頬を掻き、返事を濁した。 「プロポーズ、みたいだね…」 翌日、ライナーはコナー所長に、メリルがそれなりの年齢になったあかつきには、ここエイドリアン《大西洋》海洋博物館で職員として雇う事を進言した。 知識が必要であれば付けさせればよい。子供は気の向く事ならば喜んでやるものだ。イルカの飼育担当としてなら、輝けるかも知れないと。 それが実現する頃には、ライナー自身もいっぱしの海洋学者になっているだろう。そうしたら、メリルを研究旅行の助手にさせてほしいとも告げた。 コナー所長はその突飛な計画に驚きこそしたものの、行き詰まりと思われた問題に新しい風を吹かせてくれる若き研究者として、誰にも心を開かなかった息子が唯一信頼している相手として、ライナーの提案を明るい未来の話として受け止めた。 それから数週間が過ぎた。 着の身着のままでビーチに駆けつけたライナーを待っていたのは、メリルの凄惨な遺体だった。 血だらけの下半身は見るに堪えない様相になっており、思わず目を背けたくなる。肛門は背中まで裂傷し、細い腹部は内側から張り裂け、海藻や泡などに紛れて白い粘液がこびり付いていた。おまけに鼻が曲がりそうなほどの悪臭を放っていた。 傷が癒え、再び海に入れるようになったメリルが何をしようとしたのか、ライナーには一目瞭然だった。 メリルはディランと結合したのだ。 やはり倒錯的な性愛を抱えた少年が一つになりたいと望んだのは、誰よりも心を開く事のできた人間ではなく、何よりも心を通わせ続けたイルカだった。 秘密を打ち明けられたあの夜、ライナーの抱いた想像が現実となってしまったのだった。 その証拠に、死体となったメリルの腕はちょうど成体のイルカに抱き付いていたような形で硬直しており、顔にはかつてないほどに満たされた表情を貼り付けている。恍惚と瞼を伏せ、口は小さく開いていた。膨れ上がった水死体ではなく、大量出血による事故死が裏付けられた。 事切れてからも、どれほどの時間、抱き合っていたのだろう。愛しいその胸びれに抱かれていたのだろう。 幾度となく目にしたメリルの裸。それは、グロテスクな形状に変わってしまった下半身とは正反対に、否、それさえも含めての美しさを、尚も持ち続けていた。孕む事の出来なかった愛の結晶の代わりに、愛そのものを受け入れた成れの果てなのだと、ライナーは思った。 まさしくこの街から見える眩しい海そのものが人の形になって現れたように、まばゆく輝く金髪と、同じ色の長い睫毛に縁取られた、透き通った青色の瞳、太陽の光を受けて瞬く砂浜のようにきめ細やかで白い肌は、ライナーが初めて彼を見た時から変わっていなかった。 メリルと同様、ディランも満足したのだろう。削れた肉襞を引き摺り出し、一帯を暗い紅色に染め上げるまで激しく愛し合った挙げ句、その細身の内側で破裂してしまうほど。数メートルにも及ぶというその勢いは、孤独だった少年のハートと共に薄い腹などいとも容易く撃ち抜いてしまうほど強烈で。一人と一体の繋がりの深さをひしひしと物語っていた。 おお神よ、なぜこんな事に、何と無情な、可哀想に、と若くして"有り体にいえば"残酷な形で天に召されてしまった少年を哀れむ声の中、立ち尽くすライナーには何を言う事もできず、誰を咎める事もできなかった。 あまりにも皮肉なものだ。いつだって独りだったメリルの話を、最初から間に受けなかった連中である。イルカと心を通わせるばかりか、双方が望んで一つになったなどと誰が信じるものか。 その後、ライナーは何度か入り江に足を運んだが、ディランがそこへ姿を現す事も二度と無かった。 当人と当イルカの間では愛し合った結果だったとしても、はたまた一途な恋が実を結んだ末路であったとしても、ディランが人殺しイルカとなってしまった事実は変えられない。賢いディランがそれさえもご自慢のエコーロケーションで悟ったのか、それとも生前のメリルが釘を刺していたのかまでは、暗く美しい海に帰ったイルカのみぞ知るところだ。 海辺に建つ研究所の哀れな所長の息子は、誤って海に落ち、フカやオルカなど凶暴な海の動物に襲われたという事で処理された。 メーリンの街を駆け巡るニュースレターにも、海難事故に対する注意喚起と野生の海の生物の恐ろしさなどを交えた、中くらいの記事で掲載された。 一度は逃げ仰せたフカに食われてしまった事もあながち間違いではないだろうが、それは恐らく、メリルが意識を失ってからだ。でなければ、あんなに満たされた表情を浮かべていられる筈がない。愛するディランの胸びれの中で息絶え、硬直した後で、メリルは文字通り魚腹に葬られたのだ。 オルカが人間を襲うなど有り得ないという事は、海洋生物学者でなくとも知っていたが、そんな事をいちいち気に留める余裕など、誰の心にも無かった。 メリルの葬儀以降、エイドリアン《大西洋》研究所の中はまるで灯が消えたようだった。 いつも中央ホールの大水槽、あるいは館内の何処かに必ず居た小さな人影が一つ失われただけで、がらんと広くなったように感じられるものだ。 ことライナーにとっては、心に大きな穴が開いたようだった。 予測不能の事態により、ライナーの研修期間は大幅に縮まった。 落ち着きを取り戻した頃に改めて、未来の海洋生物学者の一人として再びこのイルカの楽園を訪ねる事を約束し、メーリンを発つ事になる。 「まさかこんな事に巻き込んでしまうなんて。わざわざウォーレンから来てくれた、将来有望な若者だと言うのに…」 港まで見送りに来たコナー所長は、一人息子の死こそ受け入れてはいたが、死因についての言及は避け続けていた。息子のサンクチュアリには、どうしても触れられずにいるらしい。 コナー所長が切り出しづらそうに訊ねる。 「メリルは君にずいぶん懐いていたようだが、何か聞いていなかったかね?」 やがてはメリルと共に旅をさせてほしいと直談判したライナーの話も覚えていたようだ。当のメリル亡き今、その夢も潰えてしまった。 「残念ながら、何も知りません。」 ライナーはなるべく表情を変えないように答えた。メリルが自分だけに明かした秘密を、今更他言するつもりはなかった。 「お力になれず…」 形式ばった言葉を伝えると、コナー所長は溜め息を吐いた。 「そうか…」 子を失ったばかりの父親の姿に心を痛めないほど、ライナーは冷酷ではない。 だが秘密を明かしたところで、理解の無い人間には理解する事もできないだろう。あるいは理解する気さえ無かったり、本心では理解したくないとさえ思っていたり。そういった態度が見て取れたのだ。死んで尚、他人と少しばかり異なっただけの少年が、蔑まれるような扱いを受ける必要など無かった。 そういったしがらみから逃げる道としても、メリルは自ら死を選んだのかも知れないと、ライナーは悟っていた。 突飛な未来の計画など、無謀な覚悟を決めたティーンエイジャーにとっては最初から意味が無かったのだ。興味も持てなかったに違いない。惹かれ合う一頭のイルカと一人の少年の間には誰も割り込む事も、その愛を禁じる事もできない。思春期の彼が求めたのは、自身が最も想いを寄せる存在と結合する事。最高潮に満たされる愛の形。それだけだ。 数日後、ディランが砂浜に打ち上げられて死んでいた。肺呼吸の哺乳類が、陸に上げられて困る事はない。死因は溺死だった。 イルカにも、自ら死を選ぶ権利はあるようだ。 ウォーレンに戻る一週間ほどの船旅の道中、ライナーは何度も、海に飛び込みたい衝動に駆られた。 メリルの遺した、眩しく輝く海。この煌めきの中に飛び込めば、自身もメリルと一つになれるのではないか。そんな馬鹿げた考えが、頭を過るのだ。 海洋生物に魅了され、この道に足を踏み入れたが、早くも行き着いてしまった先は、自分と同じく海洋生物に魅せられた一人の美しい少年の死。心を奪われ、想いを寄せていたその小さな存在は、あっという間に、文字通り砕け散って消えてしまった。 究極の愛とは、相手に自らのすべてを捧げる事だったのかも知れない。 ライナーにはそれができなかった。あまつさえライナーは、メリルを自分の領域へ引きずり込もうした。そうして少しでも長く、その危険な欲望から目を背けさせたいと考えていた。 もっとも当のメリルは、そんな事は初めから望んでいなかったのだ。所詮は思春期を少し抜けたばかりの少年。頭にあるのは自制の利かない欲望に満ちた妄想ばかり。愛する相手と結合する事で命を落とすなど、考えもしなかったかも知れない。苦しむ間もなかったのかも知れない。 そうして考えれば考えるほど、分からないことばかりだった。 船がウォーレンに着く頃には、ライナーはすっかり心を病んでしまっていた。

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