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3-3 施し
ただ男のすすり泣く声ばかりが微かに響く。彼は小さな声で「もうしません、お許しください、真っ当に生きます、命ばかりは」と繰り返しており、これ以上憐れなものはこの世に存在しないのではないかと思うほどだった。
ややして、心光はゆっくりとその表情を無に変えていく。その冷たい眼差しさえ、どこか人を離れたものを感じさせ、こんな状況であるのにどこか蠱惑的だった。
「……良いでしょう」
その声は、実に穏やかだった。
「わたくしとて、あなたと無闇に争いたいわけではございません。その者は見逃すことにいたします。きっとわたくしが導かずとも、御仏は正しき道をお示しになることでしょうから」
「ほ、本当か?」
「ええ……。わたくしは嘘偽りなど申しません。さぁ、あなた。蘇芳に礼を言って、ここを去りなさい……」
優しい声音だ。俺はまだ信じきれなかったが、男を揺さぶって「早く、行け」と逃げるように促した。それでようやっと、自分が助かるということに理解が及んだらしい。彼は顔を上げて、震えながらこちらを見た。
「ああ、ああ、ありがとうございます……っ、ひいっ!」
ところが男は俺の顔を見ると、悲鳴を上げて。
「お、鬼だ、鬼だぁ……っ! お許しを、お助けをぉ……っ!」
そう叫び声を上げると、ふらつく足取りで家を走り出ていった。俺はそれを呆然と見送って、それから気付く。
額が、熱い。恐る恐る手を伸ばし、顔に触れる。ぬめる液体は、死んだ男たちのものか、それとも俺の額から流れたものなのか。ほんの数刻前までは、ただの隆起であったはずのそれは、今やはっきりと角として皮膚を突き破っていたのだった。
「あ……?」
何が起こっているのかわからない。どうして突然、こんな角が。鬼というのは、俺のことか。俺が、鬼に見えたのか。
思考が乱れる。動揺する俺に、声が届いたのはその時だった。
「ねぇ、蘇芳」
「……っ」
その、甘い囁きは。明確な意図をもって発せられたものだ。それを空気で感じ取って、俺は彼を見ることさえできなかった。
血と肉の香りで満ちていたはずなのに、どこか花のような芳香へと変わり、俺を取り巻いているように思える。しゅる、と衣擦れの音が立ち、一歩、また一歩、ひたりひたりと心光が近付く。俺の四肢に、黒い影がまとわりつく。まるで離さぬというように。
「あなたの望むとおりにしたのです。この憐れなわたくしに、ひとつ施しを与えてはいただけませんか……?」
それは、問う言葉ではない。有無を言わせないという強いなにか、意思のような、この世のものではないものを感じて、俺は震えた。
いったい。いったいこの僧は、なんなのだ。俺は、いったいなんなのだ。
わからないまま、ようやっと心光の顔を見る。いつのまにやら触れるほどのところへ来ていた心光が、目を細めた。
「人の血肉より甘美なるものを、与えてくださいませ。そしてこの虚しき身体を、慰めてくださいませ、ねぇ、あなた……」
そして、心光が俺の頬へ両手を添えて。まるで愛し子にするように、優しく口付けた。
狂った夜は、まだ始まったばかりなのだと、その時俺はようやっと理解した。
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