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5-4 言い聞かせ、問いかけ

 何度も。何度も何度も、心光に言い聞かせた。お前は慈悲深く穏やかな僧。望んで人を傷つけ殺めるような男ではないと。  俺がそう信じれば、腹の底からそうだと思えば、そうなるのでないか。俺の身体が鬼となったように。そう考えて、ずっと心光を抱きしめ、念仏のように言い聞かせていた。  そのうちに、ふと俺は自分のことまでも思い出す。  物心ついた時には、人里離れた山の家に住んでいた。両親はおらず、俺を育てていたのは子の無い老夫婦。ある時、婆様が籠に入った幼い俺を拾ったのだとか。  きっとどこかの集落の子だと、夫婦は親を探したそうだが結局見つからなかった。そりゃあそうだろう。赤い髪の子なんて、普通はいないのだから。きっと異人の子だとは思ったそうだ。それでも夫婦は、俺を遅く授かった子と思って育ててくれた。優しい人たちだった。  しかし麓の村では、俺が鬼の子ではないかと言う奴も少なくはなかった。髪の色が珍しく、おまけに他の子どもたちと違ってえらく背が伸びたからだ。村人には嫌われていたが、その中にも俺と変わらず接してくれる人はいた。  特に同じほどの歳の娘、お夏とその家族は俺によくしてくれて、だから彼らの畑仕事などを手伝うこともあった。俺の育ての親たちが寿命を迎え、ひとりになってからは彼らの家へ通うことも増えた。  人には色々言われても。俺には家族が、お夏がいる。鬼ではなく、ただ体が立派で髪が赤いだけだと言い聞かせ、何も変わらず接してくれる人がいる。それだけで俺は、幸せだった。  その思い出を、なぜ忘れてしまったのか。そして俺の平穏は、どうして壊れてしまったのか。その末に祠に封じられたのか。その全てを、まだ思い出せない。 「…………蘇芳……」  胸元から、心光の声がする。我に返って腕の中を見ると、心光は落ち着いた様子で静かに口を開いた。 「もう、大丈夫です。わたくしは陰陽師を追う気も、殺すつもりもございません……。少々、取り乱してしまいました」  少々、で済むような状態ではなかったようにも思うが。しかし、先ほどまでとは明らかに違う様子だ。俺は恐る恐る心光を抱きしめる腕を緩めたが、彼は本当に落ち着き、ゆっくりと立ち上がった。  その頬は濡れ、陽の光を反射して輝いている。涙を拭いながらも、心光がこちらを見る。 「……蘇芳……。あなたは憐れなお方です。あのような罪人たちの為、いたずらに人の姿を捨てて……」  そう目を伏せた彼が、何を言っているのか。少し考え、それから俺は己の姿を確認した。  腕も脚も、いいや全身の体つきが逞しくなっているような気がする。指から生えた爪は鋭く刃物のように煌めき、口の中には牙を感じる。額に触れれば二本の立派な角が生えていた。  ああ。鬼だ。俺は正真正銘、鬼となったんだ。  そう理解して、思わず苦笑が漏れ出す。あれほど自分は人喰い鬼ではないと思いたがり、そうではないと言ってくれた心光に救われたのに。彼の為とはいえ、自ら人の姿を捨てるなんて。  だが、この力があれば、きっと心光の影を止められる。事実、今の彼はとても落ち着いた様子だった。しかし、その表情に柔らかさはない。疲れ果てたような無の表情をたたえており、彼が「どちら」なのかすら曖昧だった。 「あなたのせいで、陰陽師を殺しそこないました。この落とし前はあなたに取って頂きますが……。その前に、ここへ残った者たちにまだ息があるなら、用があります」 「……とどめを刺すつもりか?」 「まさか。……こうなった以上、傷つけるつもりも殺めるつもりもございませんよ。ただ……聞きたいことがあるのです」  そう静かに呟く心光に、あの時のような強い憤りや殺意は感じられなかった。許可を求めるように見つめる瞳も、穏やかな亜麻色をしている。俺は少し考えてから頷き、心光と共に陰陽師たちのそばへいった。  心光は彼らの急所を外したらしく、ふたりとも深手ではあり動けそうにはないが、仰向けで荒い呼吸を繰り返していた。そのひとりへ俺が近寄ると、彼は怯えたように札を探し始める。しかし、俺に手当てを受け始めると、何もかもを諦めたように大人しくなった。  生殺与奪の全てを俺たちに握られているようなものだ。よく見ればそれなりに歳のいった陰陽師のようで、身体が細い。だから心光も急所を見誤ったのかもしれない、と少しだけ考えた。 「……何故、俺たちを襲った。いや、聞くまでも無いか……」  俺は問うて、それから首を振った。人喰いの僧と鬼が旅をしているのだ。わかる者にはわかるのだろう。陰陽師は俺の顔を見て、続いて心光を見上げた。怯えたような表情を浮かべはしたが、逃げようとはしなかった。 「ご安心くださいませ。見ての通り、無害な僧にございますれば。あなたに二、三お尋ねしたいことがあるだけなのです」  心光はそう穏やかに囁いて、懐から二枚の紙を出す。それは俺を封じていた札で、心光が持ち歩いていたものだ。 「こちらが何かおわかりでしょうか? 陰陽師の使う札のようにお見受けしますが……」 「それは……」  陰陽師の男は目を細める。心光が近付いて彼によく見せると、ややして彼は小さなかすれ声で答えた。 「それは、安倍様の流派が使う札だ……」 「あべさま……?」  俺が首を傾げると、心光が代わりに答えてくれた。 「都では知らぬ者はいないほどの、陰陽師の名家です。確かに、それほどのお家ならどんな術でも使えましょうが……。この札から他に読み取れることはございますか?」  心光が穏やかに問うと、陰陽師は静かに答える。 「古い型だ……。しかし札の力は読める。これは……祠に封じ、百年の時をかけて浄化する……?」 「……百年……?」  俺は目を丸めた。  確かに長い時間、あの場所で眠っていたように思ったが。まさかそんなにも時が経っているなんて。だとしたら、俺が夢で見た人々は、どの道もう……。  その絶望感に、大地がぐにゃりと歪むようだ。思わず口に手を当てる。どくどくと鼓動が激しい。背筋から冷たい絶望が這い上がってくる。  俺を知る者は、もうどこにもいやしない。それになんだ? 浄化とは。俺は百年の時をかけて、浄化された? なんのことだ。一体、なんの。俺の身にいったい、何があったんだ。わからない。わからない。思い出そうとしても、まだそこには濃い靄がかかっているようで、記憶さえ見えてはこなかった。 「では、安倍様に尋ねればもう少しわかることもありましょうね。感謝致します。もうひとつ、わたくしの問いに答えて頂けますか?」  心光の静かな声ばかりが、耳に届く。 「あなた。「かざのいん」から呪詛の依頼を受けた者を、ご存知ですか?」  聞き慣れない言葉に、俺はゆっくりと顔を上げる。心光の表情は相変わらずの無で、その瞳は冬氷のように鋭く冷えきっていた。その奥底に何か、深く渦巻く数多の感情が隠されているようで、彼の手は白む程に握り締められ、激情をどうにか堪えているようにも見える。  あの心光が、ここまで感情を昂らせるなんて。俺は困惑し、陰陽師を見やる。彼はふぅふぅと苦しげな呼吸を繰り返しつつも、視線を迷わせた後に答えた。 「誰か、までは知らない……。だが、確かに。花山院の者が陰陽師へ呪詛を願った、という噂は耳にしている……」  その言葉に、心光は一瞬睨むように目を細め、それから重ねて尋ねた。 「何か、そのことについて心当たりは? もう少し詳しいことはわかりませんか?」 「……あまり確証はない……」 「なくとも構いませぬ。仰ってくださいませ」 「だが、お前は……」  陰陽師は心光を見つめて首を振る。 「お前は信じる力が強すぎる……不確かなことを聞いても、お前はそれを真実にしてしまうだろう」 「……仏に誓いましょう。わたくしはあなたの言葉を、そのまま真実とは思いませぬ。ですから、お願いです。ほんの少しでいい。わかることがあるのなら」 「……何故そこまで知りたがる? ……まさか……」  陰陽師がはっとして、心光の瞳を見つめる。それは陽の光の下でひとつの輝きさえ持たない、深い闇を纏っているように思えた。 「わたくしの名は、……わたくしの捨てた名は、花山院定光。花山院家の長子にございますれば」  その言葉に、俺も陰陽師も目を見開く。そんな俺たちに、心光は僅かな笑みさえたたえて、歌うように言った。 「わたくしを呪い、このような化け物に変えた者を、探しているのですよ。ええ、それはもう。地の底から這い上がり、人を殺め血を啜り、この世の奈落で踊り狂いながら。必ずや報いを受けさせんと、わたくしはその為だけに異形へ身を墜とし、ここまで戻って来たのでございます」  そう言って。心光は笑った。

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