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第一章

 第五分室はその特性から社屋が分かれており、別棟に存在していた。メンバーにはそれぞれ九畳程度の個室が与えられていて防音設備も完璧、それぞれの部屋毎に空調を整えられるようにしてある為、本棟ではなくかつて資料室であった別棟が改修して使われていた。  四條の個室も別棟に存在していたが、四條の仕事そのものは本棟でもする事が出来るものなので、他者からの評価や情報収集の為にも普段は本棟で勤務をしている方が都合良かった。  二年間分室への異動希望を出し続けていた那由多を分室へと案内している四條は、那由多の特性が既存メンバーと折り合いの付くものなのか危惧していた。実際のところ、分室の設立から今まで一度もメンバーの増員が無い訳でも無かった。分室だけに許された特権を目的とした異動希望者は設立当初数人居た。早い者で五分、一番長い者でも一ヶ月も持たなかった。その事があってから四條は積極的に増員を求める事は無く、仮に異動希望を出す者が居たとしても能力より既存メンバーとの相性を見るようにしていた。 「うちの子らはえらく物臭でなあ。家に帰るのも面倒臭い言うて、ある程度簡易的な生活必需品は整っとるんよ」 「分室の方は殆ど本棟にも出てきませんからね。食堂で見掛けた事もありませんしー」  期待に胸を膨らませる那由多の目は、漸く受理された異動希望にきらきらと輝いていた。色素が薄い髪を耳が隠れる程度に短く整え、耳には過去のやんちゃの名残りかピアスの穴が残っている。  成果重視の分室では納期に間に合わせる為ならば何日も泊まり込む事が多くある。着替えこそ自分で持ち込む必要があるが、シャワー室や洗濯機も共有スペースに備えられており、やろうと思えばこの分室に住む事も可能だった。 「此処がミーティングしたりもする共有スペースや。今日も泊まり込んどる筈やけど――」  そう言って四條は別棟に入ってすぐ一階にある扉を開いた。電気は灯されており、配管が剥き出したままのその部屋はとても改装済とは思えない雑居感があったが、端に置かれた大きなソファベッドや配線の繋がれた小型冷蔵庫は何処か生活感があった。 「ああ、おったわ」  そう言って四條はソファベッドへと歩みを進める。普段は寛ぐ為のソファとして使えつつも背凭れを倒せばベッドとしても使えるそれは背凭れが起こされたまま、薄いタオルケットからは黒髪が覗いていた。ソファベッドの脇に置かれたテーブルにはその人物の物か黒縁の眼鏡と灰皿、封の空いたゼリー飲料が置かれていた。 「榊、起きや」  タオルケットを剥がせば仰向け状態で寝ているその人物。四條は優しく声を掛けながら胸元を叩く。  タオルケットを剥がされた事で瞼の裏から射し込む光、詩緒は怪訝そうに眉を寄せつつ重い瞼を持ち上げる。始めはぼんやりと、しかし次第に目が慣れてくると裸眼でもしっかりと認識出来るようになり、それが室長の四條だと分かると詩緒は慌てて飛び起きた。 「おわっ……わ、四條さん……っ」 「おはようさん」 「……オハヨウゴザイマス」  時刻は午前十時を過ぎていた。本来ならば業務開始の時間ではあったが、分室には明確な始業時間が無く、それと同時に明確な就業時間も存在しない。仕事が終わりさえすれば何時に開始して何時に終わらせても問題無いのだ。 「斎の代わりに資料作成終わったんか」  まだ半分夢と現実の区別が付いていない詩緒はソファに座り直すと両手で顔を覆い隠し大きな溜息を吐いた。顔の半分が隠れるまでの長い前髪は何ヶ月散髪に行っていないのかと思える程に長かった。徐々に現実を認識し始めた詩緒は片手を伸ばしてテーブルの上へ無造作に置いた黒縁眼鏡を取って装着する。 「終わりましたよ……何だよもう納品書とか請求書とか。俺の専門じゃねぇよ……」  四條が来る時間までうっかり寝過ごしてしまうとは恥以外の何物でも無いと考えるも、数秒後開き直った詩緒はその長い前髪を掻き上げてソファへ深く背中を沈める。それまで黙って四條の後を着いてきていただけの那由多だったが、座り直した詩緒の着崩した姿に思わず赤面して視線を逸した。分室のメンバーにはスーツ着用の義務は無い。詩緒は白いシャツに黒いジーンズを着用していたが、シャツの前ボタンは全て外されておりインナーを何も着用していない事から素肌は露わ、ジーンズのファスナーは全開で辛うじて穿いていた下着が覗いていた。 「本田は?」 「今シャワー浴びてます……」  共有スペース奥にある脱衣所の扉を指差すと上司である四條の前にも関わらず、詩緒はポケットからくしゃくしゃになった煙草のソフトケースを取り出すとその中から一本を取り出し口に咥える。ライターで火を灯し燻る煙を肺の奥まで循環させる中、詩緒はようやく四條の背後に立つ那由多の存在に気付いた。 「あー……今日新しい奴が来るって話でしたね……」 「赤松那由多くんや。今日から海老原の代わりに営業のヘルプしてくれる事になった」 「初めまして、赤松那由多です。今日からお世話になります!」  四條に名前を呼ばれ、顔を背けていた状態から那由多は改めて詩緒へと視線を向ける。始めは何故那由多が顔を赤く染めているのか理解出来ていない詩緒だったが、ふと視線を落とし自分の着崩しに気付くがまあ良いかとそのまま紫煙を吐き出した。 「来週には神戸から庶務も来るから少しはやり易くなるやろ」  ぽんと手を置いて四條が詩緒の頭を撫でると、心なしか詩緒の表情が明るくなった気がするのを那由多は見逃さなかった。 「赤松……だっけ」  四條が本棟へと去った後、共有スペースに残された詩緒と那由多の二人。詩緒はちらりと脱衣所に視線を向けるが、四條が来る前にシャワーへと向かった真香が出てくる気配はまだ無い。詩緒は自身が新人の世話をする程に対人スキルがあるとは思っていなかった。そうだとしても今日配属されたばかりの新人をこのまま棒立ちさせておく訳にも行かず、緩とソファから立ち上がると脱衣所の横にある給湯室へと向かう。 「はい、赤松那由多です!」  緊張しているのか、那由多の声は少し上擦っていた。 「コーヒー飲むか?」 「あっ、はい! お願いします! 俺も何か手伝いを……」  元からオーバーサイズなのか、歩き始めると詩緒の着ていたシャツは肩からずり落ちてしまいほぼ半裸の様な状態になっていた。それでも歩き難さには問題があり、立ち上がると共にジーンズのファスナーはきちんと上げていた。  小さな冷蔵庫や簡易的な給湯設備はあっても本格的な食事を作るには限度が有る。その証拠にこの給湯室には炊飯器は存在していなかった。電気ケトルの電源を入れ沸騰を待つ間脱衣所の更に奥にある擦りガラスの先へ詩緒は声を掛ける。 「真香、コーヒー飲むか?」  一拍遅れて中から返事が返ってきた。 「飲むー!」  シャワー室の防水加工が阻害し酷く反響していたが、今も尚シャワー室内に居た真香からの返事を確認すると詩緒は棚から三つのコーヒーカップを取り出し並べた。 「……真香ぁ」 「なーにー?」 「四條さん帰ったぞ」 「……はあ!?」  先程まで確かに内部で聞こえていたシャワーの水音が突然切れたかと思うと、慌ただしくシャワー室の扉が開かれ全裸の男が出てきた。  茶髪の中で前髪に一部白のメッシュを入れた真香はその身体に一糸纏わぬまま脱衣所の扉を開け、給湯室で湯が沸くのを待っている詩緒の前に姿を現す。詩緒はまだ服を着ていたが全裸のまま現れた真香に那由多は絶句した。詩緒は慣れているかのように冷めた視線を真香に送る。 「何で教えてくんなかったんだよ榊!!」  全裸のまま髪からは水滴を滴らせ真香は詩緒に歩み寄る。 「ちんたらシャワー浴びてるお前が悪いだろーが」 「誰のせいだと思ってんだ? アァッ!?」  何処か可愛らしいと呼べる顔立ちとは裏腹に、低くドスのきいた声で真香は詩緒のシャツに掴みかかった。 「あ、あの、暴力は……」  その格好には面食らったが、目の前で今起ころうとしている暴力を止めない訳にもいかなかった那由多は二人の間に入り遮るように手を出す。 「……誰、こいつ」  ぼたぼたと水滴をタイル式の床へと垂らしながら、真香は突然目の前に現れた那由多を凝視する。真香の手がシャツから離れた詩緒は肩を片方晒したまま、沸いたケトルを手に持ちカップに湯を注ぐ。 「斎の代わりに営業のヘルプで入った赤松だってよ」  インスタントコーヒーの香ばしい芳香が鼻腔を付く。元々は斎の物であるカップを上から持つと詩緒はそれを那由多に差し出す。 「あ、赤松那由多です! 今日から海老原先輩の代わりに頑張ります!」  詩緒から受け取ったカップを両手で持ちつつ那由多は真香に頭を下げる。 「俺はデザイナーの本田。宜しくな、赤松!」  那由多の真香に対する第一印象は『人懐っこそうな人』だった。先程までの形相が嘘かのように人好きのする笑みを浮かべる真香につられて那由多もへらっと笑みを浮かべる。 「……榊、お前ちゃんと挨拶した?」 「うっ……」  真香に指摘されて詩緒は固まる。詩緒と付き合いの長い真香は詩緒のコミュニケーション能力の低さを分かっていた。二人分のカップをそれぞれ両手に持つ詩緒の肩を掴み那由多の方を向かせると、真香はその背後から詩緒の両肩に手を置く。 「……エンジニアの、榊」 「『宜しくお願いします』は?」 「真香うるせえ」  真香は背後から指先で詩緒の首筋をなぞる。肌蹴たシャツの奥、白い肌に転々と浮かぶ鮮明な赤い痕。 「……何か、事後みたいっスね!」  那由多の渾身のギャグのつもりだった。二人は呆気に取られた顔で那由多を見るが、先に動いた真香は爪先立ちをして詩緒と顔の高さを合わせると、両手で詩緒の顔を横に向かせてそのまま唇を重ねた。 「まなっ……」  詩緒の抗議の言葉は真香の唇によって塞がれた。詩緒が手に持つカップの水面が大きく揺れる。詩緒は片手に持った真香のカップをシンクへと叩き付けて置くと、その手で真香の顔を押し返す。 「実際事後だしなあ。な、榊?」 「……コーヒー溢れんだろ」  真香の問い掛けを完全に無視し、詩緒は関係無いとばかりに自分のカップを持って給湯室を離れ共有スペースに戻る。  空いた口が塞がらない那由多だったが、残された真香を直視することも難しくぺこぺこと頭を下げると詩緒を追って共有スペースへと戻った。

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