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第十章
翌日、詩緒は意を決して綜真と那由多が共同で使っている個室の前に立っていた。今この時間に綜真が部屋に居るのは確認済みで、那由多が外出しているのも確認済みだった。
先程から何度かノックをする為に片手を上げるも叩く勇気が出てこない。考えてみれば詩緒がまともに綜真へと声をかけるのはこれが初めてだった。先日はついカッとなって酷い言葉を投げ掛けてしまった。
「榊さん? どうしたんですか?」
横から突然那由多に声を掛けられて詩緒の両肩が飛び跳ねる。予想以上に思い悩んでしまった為那由多が出先から戻ってきてしまったのだ。
「あ、赤松……早かったな」
綜真に声を掛けようとしている手前、何となく那由多とは顔が合わせ辛い詩緒は何でも無いとでもいうかのように表情を取り繕い、手を下ろして自分の部屋へと戻る事にした。その手を那由多が掴み、壁際に詩緒を追い詰める。
「俺に会いに来てくれたんですか?」
嬉しそうに笑みを浮かべる那由多の顔に詩緒のなけなしの良心が疼く。返答を待つ事無く那由多は詩緒の首筋に吸い付き片手で腰を撫で始める。
「違う、そうじゃなくて……」
「じゃあ御嵩さんですか? 中に居たでしょ、声掛ければ良かったのに」
「そうなんだけど……」
ちりっと燃えるような痛みが詩緒の首筋に走る。那由多は詩緒の白い首筋に歯を食い込ませ、薄い皮膚が破れて血が滲む。腰に回していた手は撫で回すように詩緒の中心へと伸び、少し手荒に握り込む。
「……い、てえ、赤松」
「昨日と匂いが違いますね。昨日は海老原さん家で飲んだんでしたよね。本田さんも一緒だったとか」
好意を伝えてきた相手からすれば、詩緒の行動は不実に当たるのかもしれない。あの夜那由多に他の男との行為を制限するよう要求をされてはいないが、されたところで詩緒自身がそれを履行出来るとは思っていなかった。
歴で言えば那由多よりも真香、斎と過ごした時間の方が長く、同期でもあり親友で大切な仲間だ。こういう面倒臭い事が起こるから詩緒は恋人などという存在を必要とした事が無かった。
「3P楽しかった? 今度俺も混ぜてよ、俺の目の前で他の人に抱かれる榊さんの事見てみたいから……」
こいつは何を言っているんだ、と詩緒の頭の中が真っ白になった。他者との行為に寛容と捉えてしまって良いのか、寝取られ願望でもあるのか那由多を理解するにはまだ情報が乏しく、那由多の舌がねっとりと噛み跡をなぞると絶頂に似たごく小さな刺激が詩緒の全身に走る。
「赤松、お前何言ってんだ……」
「榊さん、俺は貴方の事、本当に心から……」
那由多が何かを言い掛けた所で個室の扉が内側から開かれる。中から顔を覗かせたのはその部屋の利用者の一人でもある綜真。特に何を言うでも無く黙って詩緒と那由多の姿を見ていた。
「……俺に用があるんだろ。さっさと入れよ」
綜真は数十分前から詩緒が扉の前で右往左往している事に気付いていた。こちらから声を掛けて招き入れても良かったが、詩緒の性格を考えた上で自分から声を掛けるまでは放っておこうと考えていた。しかし暫くすると扉の外で何やら話し声がするようになり、綜真は自ら扉を開ける事となった。
詩緒は二人きりでの会話を望んでいるだろうからと言って那由多には暫く部屋に戻って来ないようにと伝えた。そうまでしてようやく詩緒と部屋で二人きりになった綜真だったが、当の詩緒は入室後扉に寄り掛かり物理的な距離を縮めようとしない。
綜真も自分から無闇に近付く事はやめようと思い、詩緒が自分から近付いて来るまで物理的な距離を保っておこうとデスクチェアに腰を下ろす。この感覚に綜真は覚えがあった。自分から近付くと爪を立てて逃げて行き、無視されるとうろうろと此方の様子を伺うように近寄る何か。
「あの、さっ……」
珍しく詩緒が自分から口を開いた。綜真がそれが何かを思い出したのとほぼ同時だった。
「猫っ、好きだよな?」
「猫ってお前の事か?」
「そうじゃなくてっ……」
開口一番が猫の話とは綜真の予想を斜め上に越えていた。
「斎が猫、拾ったらしくてさ……飼える人探してるんだって。綜真、昔猫飼ってただろ? だからっ……」
あの猫の名前は何と言っただろうか。六年前詩緒が綜真の自宅に行くと迎えてくれた美しい黒猫。当時譲渡して貰ったばかりだと言っていた。
「海老原が、猫。ふぅん?」
猫なら自分も十分好きだろうにと綜真は考えた。しかし綜真も詩緒が自分の世話も出来ない社会不適合である事は知っていたので、恐らく真香や斎に止められたのだろうなと容易に想像がついた。
「そう猫……猫避けようとして|斎《アイツ》事故ったらしいから……」
「…………うん?」
綜真は詩緒の言葉に妙な引っ掛かりを覚えた。
「……なに?」
「いや……」
今口に出す事ではないと判断した綜真は言葉を呑み込んだ。斎の拾った猫を自分に託そうと考える程度には信頼を持たれているらしいと安心した綜真だったが、最大の問題が解決していない限り二つ返事で引き受ける訳にもいかなかった。
「詩緒」
名前を呼ばれると詩緒の肩が震える。まだこれほどまでに自分に対して恐怖を抱いている詩緒とこの先も仕事の付き合いを続けていけるかは綜真にも分からなかった。
「俺が此処に必要無い存在なら、俺は近い内に神戸に戻る事になる」
飲みの席でも四條には伝えてある事だった。自分の存在が詩緒にとってのストレスになるならば潔く身を引くのも必要な事だった。翌日四條が詩緒から直接聞いた話では、綜真が居ても詩緒の業務に支障は無いという事だったがそれは上司である四條の前だったからという可能性もある。
「何でっ……俺、四條さんに言った! 綜真が居ても問題無いって!」
どうやら建前ではなく本当にそう思っているのだろうと綜真は内心安堵した。しかし詩緒にとって自分の存在がストレスではないとしても、那由多から見ればどうなのだろうか。先程廊下で見かけた関係から察するに詩緒と那由多の二人はそういう関係に足を踏み入れつつある。那由多と自分の板挟みに苦しむ詩緒を見たくないというのも綜真の本音だった。
綜真は四條から、詩緒が過去の自分達に身体の関係が無かった事を打ち明けたと聞いた。
大学内に広まった噂は全くのデマだった。詩緒を落とす寸前まで持って行く事は出来た綜真だったが、直前で詩緒の猛反撃に合い止むを得ず手を引いた。しかし噂は広がってしまった。詩緒の初めての相手は自分では無い大学内の別の誰か、それは綜真にでも分からない。
詩緒を輪姦していた男達を半殺しに至らしめたのは贖罪の意味もあったが、嫉妬もしていた。それから他の誰も詩緒へ手を出せないように出来る限り側に居た。キス位はした。しかしそれ以上の事に及びはしなかった。誰よりも一番詩緒が傷付いていると思っていたからだった。同じ傷を与えたくなくて綜真は詩緒に手を出さなかった。
これは、純愛と呼んでも許されるものだったのだろうか。
綜真は徐にシャツを脱ぎ始める。普段色の濃いシャツを着ているその下には詩緒と別れた後、多少やんちゃをしていた頃に入れた英字の刺青がタンクトップの下に覗く。詩緒は綜真が服を脱ぎ始めると同時に視線を足下へと落とす。詩緒は直視する事が出来なかった、自らが犯した罪の象徴に。
「詩緒、目ェ逸らすな」
落ち着いた声で綜真は詩緒を諭す。タンクトップを下から捲り上げると綜真の左腹に残る縫合痕。
「お前が刺した痕だ」
詩緒は六年前、綜真を包丁で刺した。
お互い傷付け合う事しか出来なかったあの頃、綜真の心も大きく疲弊していた。詩緒を手放せないのは自分が最初に手を出そうとしてしまった責任感からか、自分が本当に詩緒の事を好きで側に居るのかさえあの頃の綜真には分からなくなっていた。
部屋で特にする事が無くとも、抱き合って眠るだけでも幸せだと思える時間は確かに存在していた筈なのに。
何も分からなくなっていた綜真は久々に中学の同級生に再会してその弟を紹介された。青年は毎日でも綜真の悩みを真剣に聞き、詩緒との別離を勧めたのもその青年だった。
側に居るだけで詩緒を苦しめるならば自分が居なくなった方が良い。一時的な別れからの復縁も何度も繰り返した。その都度詩緒はぼろぼろになって行った。大学も中退して、青年が誘う神戸に行こうと綜真は固く決めた。
綜真は嘘を吐いた。それまで散々詩緒には嘘吐きと罵られ続けていた。賭けの対象であった事を何度も槍玉に上げて責められた。嘘吐きと呼ばれていた綜真にとって最後の『本当の嘘』だった。
――好きな人が出来た。
詩緒はその場に膝から崩れ落ちる。六年前、綜真に捨てられたくなくて、他の誰かのものになる位ならば、殺して自分だけのものにしたかった。それ程までに愛していた、綜真の事を。
「…………ごめん、っなさい……」
ずっと謝りたかった。刺した事を、綜真からの思いを否定し続けた事を。目に溜まる涙で視界が歪む。二度と会いたく無かった、もう一度会いたかった、相反する二つの気持ちを抱えたまま詩緒が伝えたかった言葉。あの時の綜真がどれ程自分の事を思っていてくれたのか、助けようとしていてくれたのか、今の詩緒にはそれが痛い程分かった。
「詩緒」
綜真の呼び掛けに詩緒は顔を上げる。綜真はチェアに腰を下ろしたまま右手を詩緒に差し出していた。
「おいで、詩緒」
「……綜、まっ」
膝と両手を一歩ずつ交互につきながら綜真の元へと近付く。綜真の膝に手で縋ると、綜真はその手を両手で優しく取って自らの左腹へと誘う。
「……身体の傷なんかいつか消えるんだ。こんなモンもう痛くも無ェ」
腹に触れるだけで感じる事の出来る綜真の鼓動。あの時は無我夢中で、ただ綜真を引き留めたかった。刺す程に綜真を必要としていると伝えたかった。目が離せないから側に居るともう一度言って欲しかった。
「……本当に痛かったのは、錯乱したお前が俺達の過ごした時間の全てを否定した事だ。……分かるよな?」
「分かる……」
今なら間違いなく詩緒にも理解する事が出来る。あの時は子供過ぎた。冷静になって考えれば分かる事だったのに、綜真は何度も冷静に話し合おうと詩緒に伝えていたのに。
綜真の右手が詩緒の左頬に触れる。詩緒が大好きだったあの頃の綜真の手だった。涙は堰を切ったように止まる事を知らず流れ続ける。
「詩緒。お前を愛してる。あの頃から、今もずっと。……あの時の俺がお前に伝えたかった言葉だ」
膝を着いたままの詩緒に両腕を伸ばし、綜真は詩緒の細い身体を抱き締める。
「愛してる、詩緒」
「綜真、綜真……」
あの頃の綜真が一度も詩緒に掛けてくれなかった言葉だった。
「……綜真?」
無言のままどれ位の時間が経過したのだろうか、詩緒は違和感に気付いて声を上げる。
「……何だよ」
水を差されたように綜真が少しムッとして腕の中から詩緒を解放すると、詩緒の視線はある一点に注がれていた。
「勃ってる」
「ッ……! お、お前が色んなとこべたべた触るからだろっ」
特に神経が鋭敏になっている左腹や内腿の周辺を詩緒が意図せず触れた事で起こってしまった生理現象。まるで格好が付かないと綜真はチェアに座り直し片手で仰ぐ顔を隠す。
詩緒は綜真の足の間に座り直すと、綜真の両足に手を掛け更に左右へ大きく開かせる。手慣れた手付きでバックルを外しファスナーを下ろすと、初めて相対する綜真のそれを躊躇う事無く口に含む。
「……バッ、お前、何してっ……!」
詩緒が足の間で何やらもぞもぞと動き始めると綜真は仰見ていた姿勢から頭の位置を元に戻す。詩緒の口内に包まれる感覚に、綜真の意思とは関係無く更に成長を遂げる。綜真にとってもこれが詩緒との初めての行為となるので、このまま成り行きでしてしまって良いのか、めちゃくちゃに掻き抱きたいという二つの感情がぐるぐると頭の中を巡った。
「詩、緒っ、待てって……」
思わず快感のまま腰が浮きそうな綜真だったが、その時綜真の視線の先には詩緒の首筋があった。詩緒の白い肌に鮮明に残る赤い歯型。まだ血が滲む生々しさからそれはつい今しがた那由多が付けたものだと綜真は察する。
「詩緒ッ……!」
綜真は詩緒の両肩を掴んで自分から引き剥がす。
「えっ……」
下手だと言われた事は無かったが何が駄目だったのかと目を丸くする詩緒。しかしまたすぐ詩緒の中に別の考えが巡る。思わず銜え込んでしまったが、今まで一度も綜真とはこういった行為に及んだ事は無かった。綜真が愛していると言ったのはあの頃の自分と、あの頃の自分を継承している今の自分。その中に今のこの行為は含まれていなかったのではないかと考えた時、詩緒から血の気が失せた。自分はまた感情的になって余計な事をしてしまったのではないか、綜真は自分に失望したのではないか、そう思った詩緒の目から再び涙がぼろっと溢れる。
「ごめ、俺っ……」
「詩緒?」
また間違えてしまった。詩緒はふらりと立ち上がり一歩後退する。
「ごめんっ……!」
詩緒は踵を返して部屋を飛び出す。
「オイ詩緒、待てお前ッ……!」
慌てて詩緒を追おうと立ち上がる綜真だったがズボンに足が絡まりその場に顔から転げ落ちる。
詩緒の走る足音が聞こえなくなった後、カツンと靴音が部屋の前で止まる。
「……何回榊の事泣かしたら気ィ済むんや自分」
「……盗み聞きとか趣味悪ィぞ暎輝」
扉から顔を覗かせた四條に、綜真はズボンを上げバックルを留め直しながら一瞥を向ける。
「昔冬瓜切ろうとして自分の腹刺したって話が此処に繋がるとは思わんかったわ」
詩緒に刺されたという事実を綜真は今までずっと隠し続けていた。冷静になった詩緒が一番後悔しているだろうと気付いていたからだった。
「……それより、確認してぇ事があんだけど。お前の部屋に海老原呼んでくんない?」
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