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第十二章

 翌日の第五分室。名目上一応の始業時間が設けられてはいたが、その時刻になっても詩緒が出社する事は無かった。 「今までも何度かあったのか? こういう事」  この一年間の勤怠を確認してみても、詩緒の無断欠勤、無断遅刻は確認出来なかった。昨日の事が原因では無いかと考える綜真は、いよいよ荷物を纏めて神戸に戻る日も遠くはないと灰皿から零れんばかりに押し込んだ煙草の吸い殻を見て溜息を吐く。 「一回も無いっすね。|榊《アイツ》季節の変わり目に体調崩す事良くあるけど、俺か真香にしっかり連絡入れてくるし」 「今日は既読にもならねぇし、通話も繋がんねぇんだよなあ……」  真香は音沙汰の無いトークルームを見て肩を落とす。詩緒が真香からの連絡を未読無視する事こそ今まで起こり得ない事態だった。  落ち着かないという様子で綜真はこの日何十本目かの煙草を口に咥えて火を付ける。空調機能が入っているとはいえ、そこはかとなく共有スペース全体が煙く感じる非喫煙者の真香は隣に座る斎へと視線を送る。 「み、御嵩さん、赤松は?」 「もう出社してる」  綜真としても今那由多と顔を合わせる事は何となく気不味い。必要性が無い限り暫くの間斎の部屋を間借りしたり共有スペースを使おうと考えていた。  言葉には出さずとも詩緒の事を気にかけているのは四條も同様であり、給湯室で淹れたインスタントコーヒーを一人で飲みながら朝のミーティングが開始する時間を待っていた。詩緒の勤怠に問題が無い事は四條も重々承知していた。昨日綜真との一件が詩緒の心に深い影を落としたとしても、詩緒には支えてくれる真香と斎という存在が居る。連絡が出来ないような状況に陥っているのか、事故にでも遭ったのか、緊急連絡先として登録されている詩緒の実家に連絡を入れるべきか、四條は判断を迫られていた。 「皆さんお揃いだったんですね、俺が一番最後でしたか」  定刻の数秒前、扉を開けて那由多が顔を表す。そして那由多はスーツのポケットから自らのスマートフォンを取り出すとトーク画面を一同に見せる。文字は小さ過ぎて何と書いてあるかは定かでは無かった。 「榊さんから体調不良で暫く休むって連絡来てたの、伝えるの忘れてました!」 「……えっ」  小さな声で真香が呟いたのを那由多以外の全員が聞き逃さなかった。詩緒が自分達を差し置いて欠勤の連絡を那由多だけにしている事が受け入れ難かった。ふらりとよろける真香の身体を斎が支え、ソファに座らせる。 「本田さん、どうかしました?」 「気にしないで良いよ赤松、偶に起こる貧血だから」  真香の表情は思い詰めているかの様に真っ青だった。それを見た綜真も吸っていた途中の煙草を灰皿に押し付けて消火する。 「心配なんで俺帰りに榊さん家寄って様子見てきますね」  スマートフォンをポケットの中へと戻すと那由多は空いている椅子を引いてきて腰を下ろす。到底心配しているようには見えない那由多の違和感に気付いたのは綜真だけでは無かった。  たった一人のメインエンジニアである詩緒の欠勤は仕事に大きな穴が開く事になる。ミーティングの後四條は斎に至急本棟へと向かい第二開発室の千景に事情を話して応援を求めろと指示を出す。真香の具合はまだ悪そうだったが、業務には影響は無く少し休んでから作業を開始すると真香は告げた。 「……綜真、自分が榊の様子見てき」 「え、俺が?」  突然話題を振られた綜真は驚いて四條へ聞き返す。 「庶務の仕事やろ」 「四條さん、大丈夫ですよ。俺が帰りに見てきますから」 「赤松、自分の仕事は――」 「それに、御嵩さんが行ったら榊さんを怯えさせるだけじゃないですか」  誰の目から見ても明らかに分かる、綜真に対する宣戦布告だった。 「……本田、具合は大丈夫か?」  本棟へと向かった斎の代わりに綜真は真香に手を貸し個室へと連れ帰る。 「うん、まあ……何か冷たいの飲みたいかも、冷蔵庫にペットボトル入ってるから」  真香が指し示す先にある冷蔵庫へと向かい、綜真は中から取り出したミネラルウォーターを真香へと手渡す。 「……御嵩さん、良い事教えてあげよっか?」  真香の精神は大きくぐらついていた。どんな扱いをしていようが真香は詩緒に依存している節がある。その詩緒からの裏切りとも受け取れる連絡手段の断絶は自らの内からどす黒い物が込み上げてきそうだった。 「何だよ」  近過ぎない距離で真香の様子を確認する為、綜真は真香が資料を置いている本棚に寄り掛かって視線を送る。  綜真が現れた時点で真香は心の何処かで理解していたのかもしれない。いつか詩緒が自分から離れていってしまう事を。決して断らない詩緒の優しさに付け入りずるずるとここまで関係を続けてきていた。 「榊がさあ、今まで自分から手を出して来た事って一度も無いんだよ」 「何の話をして――」  綜真は始めそれが何を表しているのか理解する事が出来なかった。理解していなさそうな綜真の表情を察すると世話が焼ける奴らだと溜息を吐く。 「榊が自分から、手を出したり、フェラしたり、アイツは自分の意思でした事無いんだよ」  此処まで言えば流石に鈍くても理解出来るだろうと真香が視線を送ると、綜真はその言葉と昨日の行動の意図に気付き片手で顔を覆いながらずるずると腰を落としていく。 「……お前、ら、昨日の見て……?」  廊下で立ち聞きをしていた四條はともかく、真香と可能性としては斎に見られていたかも知れないという事実は綜真の羞恥心を煽るには十分過ぎる程だった。 「御嵩さん達の部屋、|俺《こ》の部屋の隣だからね。良く聞こえるったら」  悪戯が成功した子供の様に真香は笑う。恐らく詩緒が一番隠したがっていたであろう秘密がよもやこのような形でバレてしまうという事は綜真にとって大きな誤算だった。 「斎が拾った猫、引き取ってあげるんでしょ?」 「……まあな」  詩緒が恐らく初めて自分の意思で行おうとした事を、小さな嫉妬で拒絶してしまった自分の心の狭さに吐き気がした。自分の手は何度詩緒を冷たく突き放せば満足するのか、あの時詩緒は泣いていた。泣かせたのは自分自身だった。

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