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第十六章

「居ねぇじゃん……もう家着いてんのか……?」  斎から送られた住所を地図アプリで見ながら詩緒は綜真の自宅付近まで辿り着いていた。斎は通話をしたいという素振りを見せたが鬱陶しいので詩緒が断った。どうせ出勤すれば嫌でも顔を合わせる事になるのだし、何も今すぐ斎に伝えなければならない事でも無い。自分が断れば真香でも問い詰めて聞き出すだろうと丸投げする事を決めた。  綜真に会って何をどう伝えれば良いのか、詩緒は思い悩んだ。つい数時間前に酷い断り方をしたばかりでどんな顔をして会えば良いと言うのか。そもそも何故通話やチャットでは駄目だったのだろうか、真香に押されて勢いで自宅付近まで来てしまったは良いが詩緒は悩んでいた。  たった数時間で意見を翻す事は不誠実では無いだろうか。ころころと意見を変える事は余計に綜真を振り回して疲れさせるのではないだろうか。自分の間違いを潔く認め、本当はずっと綜真の事が好きだったと告げる事が本当の意味で大人といえるのではないだろうか。同じ考えが頭の中でずっと堂々巡りをしていた。  綜真と仮に付き合う事になったとして、何がどう変わるのだろうか。無条件であの頃のような関係に戻れるとは詩緒も思ってはいなかった。しかし恋人ともなれば必然的に一緒に居る時間が増える事にもなるかもしれない。キスだけではなく、もしかしたら今までした事の無かったその先の事も――  そこまで考えた瞬間、詩緒は思考を止めた。その先の事が真っ暗で何も見えない。綜真は真香や斎とのセフレ関係を知っていると真香は言っていた。その上で言われた「付き合ってくれ」の言葉の意図とは。その瞬間セフレの事を忘れていた可能性も有り得る。いざそんな状況になった時に「やっぱり無理」と言われてしまったら。  ――ピコンッ 「わっ……」  突然鳴ったトークの通知音に詩緒はびくっと背筋を震わせる。一気に現実に引き戻された気がした。しかし手元のスマートフォンを見ても何の通知も来ていない。街灯だけが道を照らす薄暗い夜道、住宅街の所為もあって人通りは少ない。自分以外の誰かが近くに居てその通知音だと考えた時、再び詩緒の全身を悪寒が襲う。  真香に背中を押されて出てきたは良いが、那由多が何処に行ったか誰も知らなかった。もしかしたら分室で何事も無かったかのように顔を合わせるのだろうか、那由多ならば然もありなん。詩緒は心を決めて辺りを見回す事にした。  ――誰も居ない。気にし過ぎだったかと安堵した詩緒は、念の為誰かと通話状態にしておいた方が安全だろうと画面に指を滑らせて斎を選ぶ。発信ボタンを押した時、詩緒の視界の先に路上へ落ちたスマートフォンがあった。良く見ると画面が点灯している、先程の音はあれかと理解した詩緒は誰かの落とし物かと考えて歩み寄る。 「うわ……画面割れてんじゃん」  どこかで見た事があるようなスマートフォンだと詩緒は思った。それがどこであったかを考え視線を落とした時、詩緒は見覚えのある背広の柄に目を留める。 「…………綜真?」  ブロック塀に背中を預ける綜真の姿が見えた。そういえばこのスマートフォンは綜真が持っているものだったかと気付いた詩緒は、まさか綜真が路上で寝ている訳が無いと思いながらも声を掛けてそっと近付く。 「……そう、ま……?」  其処には確かに綜真の姿があった。腹から流れ出た血液は一面を血の海にし、背広にも血が滲み赤黒い。口元に笑みを湛え、目を閉ざした綜真の姿は――命がある者とは思えなかった。 「綜真……? なに、何で……?」  屈み込んで肩に触れるとそのまま綜真の身体が崩れ落ちて横に倒れる。すぐ側に刃先が血に汚れた包丁が落ちていた。  頭が割れるように痛かった。あの時綜真を刺した時の感触が詩緒の手の中にまざまざと蘇ってきたからだった。手応えなど無く、包丁の刃先は驚く程簡単に綜真へと吸い込まれていった。あの後どうなったかを詩緒は正確には覚えていない。確か綜真は詩緒を追い返し、その時自分で救急車に連絡を入れていたような気がする。重傷には至らなかった、そこまで詩緒は刺せなかった。  ――では今目の前で血の海に倒れている綜真は? 「綜真……なあ、趣味悪い冗談やめろよ、笑えねぇ……」  声を掛けても目を開けない綜真の頬へと手を伸ばす。ひやりと指先から伝わる冷たさに、気付けば詩緒の全身は震え涙が目に溜まっていた。 「……綜真、なあ綜真っ……」  傷口を抑えようとしたのか、真っ赤にぬるつく片腕を取って両手で握り締める。 「綜真、お願い……起きて……」  目を開けて、おはようと微笑んで口付けて。 「綜真、ぁ……」  幾ら声を掛けても目を覚まさない綜真の片腕をそっと腹の上に下ろすと、詩緒は転がっていた包丁を手に取る。  ――本当は、最初からこうすれば良かったんだ。  引き留める為に綜真を刺す位ならば、綜真を好きなまま、自分が死ねば良かった。  詩緒は包丁を逆手に持つと自らの左胸に刃先を当てる。  ――――ぃ、ぉ。  綜真の声が聞こえた気がして詩緒は包丁を握ったまま視線を落とす。腹の上に置いた手、指が微かに動いた気がした。 「そうま……?」  包丁を捨て、詩緒は再び綜真の手を取る。専門家では無い詩緒には良く分からなかったが、震える指を首筋に当ててみると微かに感じる小さな脈。  呼吸は、と考え詩緒は息を殺して綜真の口元へと耳を近付ける。綜真の指が詩緒の手を握り返したような気がした。 「…………しお」  確かに聞こえた綜真の声に詩緒の心臓が跳ね上がる。驚いて見ると綜真の瞼が薄く開かれ、その隙間から二つの瞳が詩緒へと向けられていた。 「……そ、っまぁ……いか、ないでっ」  ぼろぼろと涙を流す詩緒の姿を見て綜真の口元が緩む。 「…………も、何処……にも、行かね、から……」  指先から伝わる詩緒の体温を握り返す。また泣かせてしまったと綜真は遠くなりそうな意識に必死にしがみつき、その手を伸ばして頬に触れる。  詩緒の白い肌が真っ赤な血の色に汚れる。もう余り大きな声を出せそうにも無い、綜真は少しでもと詩緒の顔を引き寄せて耳元に唇を寄せる。 「……昔、っから……」 「綜真、無理して喋るな……救急車、今救急車呼ぶから……」 「くち、悪くて……すな、おじゃね、お前の、こと…………ぜんぶ、好きだよ詩緒」  スマートフォンを片手に救急の番号を押した詩緒の手が止まる。 「綜真、綜真俺もな、お前の事っ……お前の、こ、と……」  ――好きだ。  その一言だけがどうしても喉の奥から出て来ない。それを言おうと思ってここまで来たのに、大事な時に、大事な言葉が上手く出て来ない。  綜真は何度も自分に送ってくれているのに、同じ気持ちであるという事がどうしても言葉に出来ない。伝えなければいけない言葉を伝えたいだけなのに、言葉が音となって口から出て来ない。 「……おれ、俺っも……」  この期に及んで何を躊躇うのか。たった二音に。フラグという可能性が詩緒の心に無意識のブレーキを掛けているようだった。伝えたいのに、口から出してしまえば今全てが終わってしまう気がした。 「詩緒……」  片腕で詩緒を抱き締める。詩緒が言えない分幾らでも自分が伝える。それをただ逃げずに受け取ってくれるだけでも良い。 「その内、聞かせて、くれたら……良いから。……焦るな、詩緒……」  願わくば、目を覚ました時そこに再び詩緒の顔がある事を願って。 「約束する、約束するだからっ……」  ――目を覚ましたら一番に俺を抱きしめて。

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