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第六章 愛玩と接待

「海老原、請求書の桁一つ足りねぇ」  本棟喫煙所、弱々しいながらも昼の陽の光が射し込む窓際のベンチに腰を下ろしうとうとと船を漕いでいた斎は綜真に声を掛けられて目を覚ます。この数日で酷くやつれた様子の斎は目の下に隈を拵え、綜真に指摘された言葉の内容もすぐには理解出来ない様子だった。  つい先程担当営業が斎から渡された請求書の金額に誤りがあったと四條に指摘された綜真は、自らが最終確認をしなかった事も原因の一つとされまだ社内にいるはずの斎を捕まえて今日中に修正した請求書を提出するよう言い渡されていた。本棟で斎が居そうなところといえば喫煙所位で、真っ直ぐ喫煙所に向かった綜真は案の定うたた寝している斎を発見した。 「あっ、えっと……」  綜真に手渡された請求書を印刷した用紙と綜真の顔を順に見た斎は数秒後にようやくゼロの数が一つ足りていない事に気付いた。凡ミスに斎が焦った理由はそれだけではなく、自らのミスで真香や詩緒の作業に影響が生じてしまわないかという事だった。  変わらず二人の側に居る為には二人と同じだけの仕事が出来なければならないと考えていた斎は、斎のミス一つで分室の評判そのものが落とされる事を懸念していた。  先日千景と一緒に斎と茅萱の行為を目の当たりにした時を契機とし、目に見えてやつれていっている様子の斎を綜真は心配していた。斎の作業内容は半分近くが寮で片付けられるものであるはずだったが、一日の大半を本棟で過ごした上帰宅は深夜を迎える事が多かった。退勤後外で遊んでいるのでは無いかと四條にちくりと釘を刺されていた綜真は、ただでさえ尋常ではない仕事量の上に居住者の生活管理まで押し付けられてはやってられないと度々四條と口論していた。  神戸に戻らず分室に残る事を選んだ綜真の弱点を遠慮無く突き、詩緒と一緒に居たいのならば働けと馬車馬の様にこき使う四條の事を綜真は昔からサディストだと認識していた。 「……なんか、悩みでもあるなら聞くけど?」  まだ日は浅いとはいえ自分も分室の一員であると自覚していた綜真は詩緒、真香、斎の三人よりは若干年齢が上である事から三人よりは少しだけ距離をおき何かあればサポートをしたり相談を受けられるような立場に徹していた。上司である四條よりは多少話し易い事もあるだろうと綜真は斎の隣に腰を下ろすと胸ポケットから取り出した煙草を口に咥える。 「悩み……なんて俺には贅沢ですよ」  真香や詩緒とは変わらず友人関係でいられて、自らを愛してくれる相手もいる。そんな自分が何を贅沢に悩めるというのか、今自分はこんなにも満たされている――はず――なのに。  斎がやつれている理由として綜真が考えられる事はたった一つしか無かった。分室に関わるなと千景に啖呵を切った手前、何とか斎の力になりたいと考える綜真ではあったが、斎自身が話し出さない限り綜真からは何も言い出せなかった。資料室で二人の行為を見ていたとはとても言えない。 「――海老は」  斎に声を掛けようとした綜真が煙草を灰皿に傾けつつ斎に視線を向けると、斎の様子が明らかにおかしい事に気付いた。ベンチに腰を下ろしたまま前傾姿勢を取り時折全身が小さく震える。特に腰の跳ね具合が大きく、同時に綜真の耳へと届いた微かなモーターの機械音。まさかここまでとはと状況を甘く見ていた綜真の指から煙草が擦り抜け灰皿の中へと落ちる。両手で顔を覆い隠し暫し考え込む綜真だったが、ふうっと長い息を吐き出した後心を決めて顔を上げると斎へと再度視線を向ける。 「……中に、挿れられてるな? ローターか?」  声を潜めて問う綜真の言葉に的を射られた斎はびくりと肩を震わせる。自分では隠していたつもりだったがモーター音が響いてしまっているのか、隠し立ての出来ない証拠を指摘された斎は一秒でも早く綜真から離れる事を決めた。 「……な、なんの事だか」  そう言ってベンチから腰を上げた瞬間内部で当たる角度が変わり強烈な刺激が内側から斎を苛む。 「……っ、ん、く」  両足で立つ事も儘ならない斎は立ち上がった直後腰が砕けた様に床に尻を打つ。その衝撃が再び斎の内部で別の刺激を生むと斎は咄嗟に両手で股間を抑える。 「あ、……は、ぁっ……んん、ッ」 「……海老原」  斎におかしなものを仕込んだ張本人は十中八九茅萱だろうと考えた綜真は、斎にこれ以上公共の喫煙所で痴態を晒させる訳にいかないと、斎の足首を掴んでその場に引き倒す。 「詰まんねぇモン仕込まれてんじゃねぇよ。抜くぞ」  おかしな事にこの状況下でも勃起の兆候が見えない斎の下腹部に視線を落としつつ綜真は斎のベルトへと手を掛ける。しかしそれを拒むように斎は綜真の手を掴む。力の加減すら出来ない程切羽詰まってういるのか、手首に食い込む斎の爪に綜真は眉を寄せる。 「……や、めてっ、御嵩さっ……」 「うるせぇ暴れんな。脱がせなきゃ出来ねぇだろうが」  正に斎のベルトを外しズボンのファスナーを下ろそうとしたその時、綜真の背後で喫煙所の扉が開かれる。 「…………うわっ」  何の利害関係も無く、単純に喫煙をしに現れた千景が煙草を口に咥えたまま斎のズボンを脱がせようとしている綜真を見て固まっていた。千景の顔を見た綜真の顔からもサッと血の気が引く。 「……待て、誤解だ。詩緒には言うな」 「え、真っ先に気にするとこそこ?」  詩緒を好き過ぎて綜真(コイツ)は昔より更に馬鹿になっていると呆れ気味に言う千景は、綜真に脱がされようとしているのが斎と分かると目の色が変わる。この状況を他の誰にも見られてはならないと察した千景は後ろ手に扉のノブを掴む。 「さ、のさん……」  頭がおかしくなる程の強い刺激を与えられ続けた上に視界の中に居るのは嘗て深く愛した相手。痴態を見られた事に対する恥辱よりも欲の対象として千景を捉えた斎は、いつの間にか振動をやめた体内の玩具に乗じて立ち上がると綜真の横をするりと擦り抜け、ゾンビのようにゆっくりとした足取りで千景へと手を伸ばす。  燻る熱をただ何とかしたくて、苦しくて、目の前で立ち尽くす千景の腕を掴む。千景の口から咥えていた煙草が落ちた。 「――――」 「海老原……」  ここが会社である事も、扉一枚の向こうに多数の社員が居る事も斎にはどうでも良い事となり、あの日のように千景に顔を近付ける。避けなければいけないと分かっていても、千景は目の前で自分に縋る斎を拒む事が出来なかった。 「おイタしてんじゃねーよ海老原ァ」  千景の背後、僅かに開いた扉の隙間から現れた手が斎の髪を掴む。気配すら感じられなかったその存在に千景が振り返ると、閉めようとしていた扉の間に足を差し込み徐々に再度開いていく扉の隙間から手の持ち主、茅萱が姿を現す。 「ちがっ、や、部長……」  茅萱の登場に恐れ慄く千景は弾かれたように扉から離れ、その代わりに茅萱は髪を掴んだ斎をそのまま喫煙所から引き摺り出す。 「俺のが迷惑掛けて悪ィな。ちょっと躾け直してくるわ」  ひらりと手を振る茅萱を今度ばかりは止めねばと考えた千景は一歩踏み出して口を開くが、背後から綜真に腕を掴まれ綜真に告げられた事を思い出す。喫煙所の扉が閉まる寸前、千景は確かに斎と目が合った気がした。 「っ、あれの何処が大丈夫な状態だっつうんだよ!」  茅萱の手により斎が連れて行かれた後、喫煙所にたった二人で残された千景は綜真へと掴み掛かる。綜真が分室に関わるなという言葉が正論だったからこそ千景はそれ以上何もせず分室とは距離をおいていた。しかし信用して綜真に託したはずが事態は改善するどころか目に見えて分かるほど悪化している。職場であんな痴態をさせられている斎に何故何もしてやれないのか、千景は振り上げた右の拳を綜真目掛けて振り下ろす。 「……なんで避けねえんだよ」  千景が振り下ろした拳は綜真の顔横の壁を打ち付ける。避けるなり手でガードするなり幾らでも方法はあったはずが、綜真は何もせず千景を見ていた。 「殴って気が済むなら殴ればいいだろ。ただお前は関わんな、それは変わんねぇよ」 「……茅萱部長はヤバい、アイツの周りはどうにもキナ臭い。絶対に海老原が近づいちゃいけねぇんだよ」 「お前には関係無ェことだろ」 「ッ!!」  千景が幾ら斎の窮状を訴えたところで、綜真がそれを本気で受け取らなければ何の意味も無い。外側に居る自分には斎を助ける事も出来ないのだと改めて実感した千景は今この瞬間に心を決めた。  何かしらの変化が千景に生じた事に気付いた綜真はそれが斎を助ける道である事を察すると千景の細い首に手を掛ける。 「俺が言った言葉の意味が分かってねぇのか?」 「ぐ、が、ぁっ……」 「俺は忘れてねえぞ。千景、お前が神戸で仕事も恋人も何もかも抱え込んでぶっ倒れた事」  そのまま少しずつ指先に力を込めていく。脅しが効くような相手では無いと初めから分かっていた。千景の細い首は綜真の片手だけでも簡単に頸動脈を絞められ、幾ら千景が綜真の腕を叩いて訴えようとも全く効かなかった。得物さえあれば綜真に負けない千景だったがこの喫煙所には武器になるような物も無く、先手を取られた状態では千景に勝ち目は無かった。  元から千景に危害を加える気が無かった綜真は、千景からの抵抗が無くなると諦めたと見てぱっとその手を離す。解放され床に崩れ落ちた千景は唐突に酸素を吸い込むと嗚咽を吐きながら呼吸を繰り返す。 「こンの、脳筋野郎が……」 「コケ脅ししか出来ねぇ御猫様に言われたくねぇわ」  昔から此奴とだけは全く相容れないと改めて思う千景と綜真だったが、今二人の間で確実に一致しているのは茅萱が危険人物という認識だった。 「……玲於くんとは、仲直りしたんだろ?」  改めて口に咥えた煙草に火を付けた綜真は床へ屈み込んだままの千景へと視線を送る。何の根拠があってそう言うのかと視線を返す千景に対して綜真は指先で自らの首筋を指し示して教える。綜真が示したものが玲於の残したキスマークだと分かると千景は咄嗟に手で首筋を覆い隠す。 「……お前の方は、ヤれたのかよ」 「……玲於くんは、どうやって……そう、持ってくの?」 「まだヤれてねぇのかよ」  天然記念物に指定したい程今どき珍しい進展の遅いカップルだと呆れた千景はゆるりと立ち上がると綜真が咥えていた煙草を奪い取り自らの口に咥える。 「レオのやり方、お前に教えたとしても、それじゃ榊に通じねぇぞ?」  細く長い煙を吐き出しながら千景は綜真に視線を向けてにやりと口角を上げて笑う。 「……何でだよ」  左手の時計で時刻を確認すると、一口分吸った煙草をそのまま綜真の口へと挿し戻し千景は両手をスラックスのポケットの中へと押し込む。 「俺と榊は別の人間だから。俺が『良い』と思う抱き方、榊も『良い』って思うかは分かんねぇだろ?」  そうでなくとも千景は玲於との情事の内容を他の誰にも話すつもりは無かった。大好きな玲於の事は誰彼構わず自慢したいが、夜の営みだけは別だった。 「ああ佐野くん、此処におったん?」  喫煙所の扉が開かれ、四條が顔を覗かせる。先日四條へと千景がメールを認めたのはこの時為のものだった。話があると四條へのアポイントを取り、提示されたのが今のこの時間だった。約束の時間までまだ少しあると思った四條は時間まで一本は吸えるだろうと喫煙所に現れたところ、これから話をする予定の千景と顔を合わせた。 「四條さん、時間までまだ少しありますよね」 「あるから気にせんでえぇよ。ゆっくりしてこーや」 「……暎輝、海老原見なかったか?」  自分もそろそろ作業に戻らなければならないと感じた綜真は吸い終わった煙草を灰皿へと押し付ける。 「何や綜真もおったんか」 「おったわ」  四條は喫煙所へと来る少し前に目撃した光景を左上に視線を動かして思い出す。 「海老原……そういえば茅萱さんに手ぇ引っ張られて仮眠室入ってったなあ」  ――同時刻、仮眠室。 「バレたっ、絶対佐野さんと御嵩さんにバレたって……!」  半狂乱で喚く斎を宥め透かし仮眠用のベッドへと座らせた茅萱は、二人の関係以上のものが露呈したとその原因を作った茅萱の静止も聞かず怯え震える斎の身体の中へと埋め込んだ小さな玩具の電源を遠隔で入れる。 「ッ! は、ぅ……それ、やめ、てっ……」  途端に斎の背筋から脳天までを強い刺激が走り、ベッドに横たわった斎は股間を抑えつつ身体の中で暴れる玩具に堪える。 「お前がイイコにしてないからだろー?」 「……ごめ、なさ……」  電源を落とす茅萱だったが、達したいのに達せられない生殺し状態のまま、脳まで侵されているような惚けた表情を浮かべる斎の髪を掴み、茅萱はベッドの上に寝かせた斎へと顔を近付けて視線を合わせる。飼い主に怯える大型犬のように眉を落とした斎は、茅萱の機嫌を損ねたら捨てられるという強い強迫観念の下、好かれようと口元を引き攣らせながら笑みを作る。 「ちゃーんと分かってるよな。イイコだ、海老原」 「……茅萱、さんっ、お願い……取って」  足を舐めろと言われれば舐めるだろう、この苦しみから逃れられるのならば。髪を掴む茅萱に視線を向けたまま懇願する斎を見て、茅萱はパッと手を離すとベッド横の床に屈み込んで腕を組む。 「自分で脱いで俺に見せてみろよ。そしたら取ってやるから」 「ちがやさん……」 「早く、海老原」  茅萱からの冷ややかな催促に今にも泣き出しそうな感情を喉の奥に呑み込んだ斎はベッドに横たわった状態のまま自らのズボンに手を掛けファスナーを下ろす。内部で蠢く振動が斎の動作を緩慢なものとさせていたが、斎が自らその下半身を曝け出すまで茅萱は決して手を貸す事もなく、ただ眺めていた。その茅萱の視線の先は斎の耳の形、首から鎖骨に掛けてのライン、目の形、鼻筋、唇の薄さなど。斎のパーツ一つ一つを何か確認するように視線を送る茅萱の前に、下着を下ろし下腹部を露わにした斎がベッドの上に座り直す。尻を着いてしまえば蠢く玩具は筋肉の収縮により更に奥へと進んでしまい、尾骶骨辺りに重心を置いた斎は目の前の茅萱へと腰を露骨に突き出すような形となり、両手で股間を覆いながらも視線を茅萱から俯き気味に逸していた。 「海老原、手はちゃんと身体の横着いて」 「……はず、かしくてっ……」 「早く」  痺れを切らした茅萱は玩具の操作器を見せて斎を脅す。逆らえば再び電源を入れられると理解した斎が両手を股間から外すとそこには銀色に輝く貞操帯が斎の陰部を堅牢に隠していた。その下の蕾から覗くコードを茅萱は指に絡ませ、くいっと手前に引き寄せると斎の両足が震える。 「取って欲しいのはこっち? それとも……」  勃起を制御するだけではなく、繰り返し早漏と言われてきた斎が精を漏らさぬよう奥まで埋め込まれた長いプラグの先端を茅萱は爪先で弾く。この貞操帯が硬く斎を制御していた為、綜真は喫煙所で斎の兆候に気付く事が出来なかった。 「……ぁ、りょお、ほっ……や、だぁ……!」  朝早くから茅萱によって本棟へと呼び出された斎はまだ誰も居ない男子便所で貞操帯を装着させられ、それだけでは飽き足らず身体の中に茅萱が持つ操作器で動くローターを押し込まれた。玩具の電波が届く距離はそれほど遠くなく、二人は互いに仕事へ戻ったが、茅萱は社内で斎を見掛ける度玩具の電源を入れその都度斎の反応を楽しんでいた。しかし貞操帯と共に奥まで押し込まれたプラグは斎の吐精を阻み、何度追い立てられようとも一度も達する事の出来ない感覚に斎の仕事へ向ける集中力も限界に近付いていた。 「嘘は良くねーな。ほら、どっちが嫌なんだ? ちゃんと言ってみろよ」  分室寮――ダイニング  片付ける仕事が残っているからと十八時頃に帰宅した綜真は自分の部屋に籠もったきり一度も顔を見せていなかった。時計が十九時を周り、終業後から支度をしていた真香は詩緒と向かい合って座り二人だけで夕食を食べていた。  二人だけで会話が弾む事も無く、ただ真香の作る料理を美味しいと褒める詩緒に気を良くしたままお互いに本日の進捗を報告し合い、予定工数の認識を擦り合わせた。 「御嵩さんは腹減らねぇのかな」 「とっとけば勝手に温めて食うだろ」 「……仲直りはシマシタカ?」 「元から喧嘩してねぇから……」  食事が終わり、食器をシンクへと片付けると、洗い物位は自分でと腕を捲り詩緒は皿洗いを始める。そんな詩緒を一人残して部屋に戻るのも忍びない真香は特に手を貸す事はしなかったがダイニングのテーブルに突っ伏しながら詩緒へと視線を向ける。  頭こそ悪いが決して要領は悪くない綜真が帰宅しても終わらない程の仕事を持ち帰っている理由を詩緒は知っていた。綜真はアサインされてから斎と仕事量を分けていたが、現状では斎の仕事を幾つか肩代わりしている。恐らくそれに斎自身は気付いていないが、綜真が斎の領分を侵しているのはそれだけ斎の進捗が滞っていたからだった。斎に限って綜真に甘えて怠けているという事は無さそうだと考えた詩緒は洗い終えた皿を水切りの上へと置くとタオルで手を拭く。 「真香、終わった」 「じゃ上戻るか」  詩緒の声掛けで真香が椅子から立ち上がった時、玄関で自動ドアが開閉する音がした。咄嗟に真香が掛け時計へと視線を向ければ時刻は二十時を過ぎた頃、決して早いとは言えないが先日に比べればずっと早く斎が帰宅したのだと真香が考えていた時、マフラーを解きながら歩いていた斎がダイニングを覗き込んだ。 「真香と榊、ただいま」 「お帰り斎」 「夕飯は? 今日は真香が作ったロールキャベツだぞ」  深夜とは言い難いこの時分ならば充分食べる余裕はあるだろうと声を掛けた詩緒だったが、斎は鼻腔を突く食欲を唆る匂いにも関わらず残念そうに笑みを浮かべる。 「……いや、今は良いや。後で食べるわ」  斎が歩き出した瞬間、ふわりと香る匂いに真香の顔色がみるみる内に青くなっていく。それを顧みる事も無く、同じくやつれ気味の斎は振り返りもせずにダイニングを通り過ぎ二階へと階段を上がっていく足音だけが響く。普段の斎ならば真香の異変に気付かない訳が無いのにと疑念を抱く詩緒だったが、ふらりと体勢を崩しかけた真香の両腕を背後から支える。 「真香」 「……榊」  詩緒に声を掛けられ、初めて背後から支えられていた事に気付いた真香は重心を戻しつつも、とても部屋まで歩ける状態では無いと判断して再び椅子を引き腰を下ろす。詩緒も真香の異変に気付くと真香の隣の椅子を引いて腰を下ろしながらゆっくりと真香の背中を撫でる。 「真香こないだから、斎と何かあったのか?」  両腕をテーブルの上に着いて辛うじて上体は支えているものの真香の顔は真っ青で、それを案じた詩緒は一度席を立ちウォーターサーバの水をグラスに注いで戻る。  詩緒からグラスを手渡された真香はそれを一気に喉の奥へと流し込み、両手でグラスを握り込んで深呼吸を繰り返す。 「……榊は、さ、知ってるだろ、俺が支社の時……虐められてたの」 「え、ああ、……うん」  共に同期入社である詩緒、真香、斎の三人ではあるが研修が明けた詩緒と斎は本社に配属され、真香は一人支社に配属された。会う機会も少なくなった真香を久々に目撃したのは駅のホームで、正に真香が線路へと飛び込もうとしていた所だった。その原因は支社の全員による真香に対する集団虐めによるものだったが真香にとっては思い出したくもない過去である事から、詩緒もその件については今まで触れる事は無かった。 「あの少し前にさ……俺を守ってやるって言ってくれた奴が居たんだけど」  真香がグラスを掴む指先にぐっと力が籠もる。この事は今まで詩緒に話した事は無かった。話した事があるのは千景だけで、本当は詩緒にも斎にもこのまま隠し通すつもりだった。 「俺、そいつに騙されててさ……」 「……真香、言いたくない事なら言わなくても良いんだぞ?」  震える真香の手を詩緒は上から握り込む。思い出したくも無い事を無理に話す必要は無い、詩緒にとって綜真との過去が真香や斎に話したく無かった事と同じように。それでも真香は詩緒には知っていて欲しいと首を小さく左右に振る。 「……性、接待……させられてた時、あるんだ」  集団虐めと救ってくれると信じていた相手からの手酷い裏切り、真香が自ら死を選ぼうとするには充分過ぎた。電車に飛び込もうとしていた真香を寸での所で助けたのが詩緒であり、真香にとっての詩緒は命の恩人と言っても過言では無かった。 「真香、もういい――」 「聞け、最後まで聞けって榊っ……」  グラスから手を放した真香は最後まで詩緒に聞いて貰うつもりで縋るように詩緒の腕を掴む。その時の真香の表情は何とも表現し難く、笑っているのか泣いているのか、怒っているのかもすら分からぬ程複雑な表情を浮かべていた。 「俺を嵌めたあの男と同じ匂いが、最近斎からするんだ……」 「……なん、て?」  甘いような、男を誘う薔薇の香り。独特の香りをあの男以外から感じた事は今まで一度も無かった。最初に予感めいたものがあったのは斎と詩緒が千景絡みで喧嘩をしたあのすぐ後、斎の帰りが午前一時を過ぎたあの日だった。  虐めが原因で精神が疲弊していたあの頃の真香の状況と、今の斎の状況はとても良く似ていた。誰一人自分を守ってくれる存在がいない状況で甘い言葉を掛ける人物が現れれば心が弱い人間ならば誰でもその誘いに乗ってしまう。 「榊、どうしよう……俺のせいで、俺が斎とセフレ解消なんかしたから、俺のせいで斎があの時の俺みたいな事になったら……!」  詩緒の中で漸く合点がいった。真香からも千景からも見捨てられたと考えた斎は心の隙に付け込まれたのだ。ただその原因を作ったのは真香でも無ければ千景でも無い。勿論斎自身に原因があった訳でもない。何より責めるべきは真香や斎の心に付け込んだその人物本人であり、軽いパニックを起こしつつある真香を詩緒は抱き締めた。 「……真香、大丈夫だから落ち着け」  真香を性接待に利用していたのは当時営業部にいた茅萱という男らしかったが、部屋に戻った詩緒が調べてみたところ茅萱の現在の肩書は第三営業部部長という事になっていた。真香はこの事を詩緒以外には千景にしか話した事が無いと言い、その事実を斎に告げる事で更に斎を傷付ける事にならないかと心配していた。綜真との関係性も改めて千景自身の口から聞きたいと考えていた詩緒は近い内千景に直接会って話しをするべきだと考えた。

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