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第十三章 取引と洗脳

「テメエっ!!」  千景が拉致された瞬間を目の当たりにし、斎に伴って寮まで送り届けた茅萱は、到着するや否や待ち構えていた綜真に胸倉を掴まれラウンジの壁へ押し付けられる。この際斎が自分の意志で外出をしたかは問題では無く、茅萱の目の前で千景が組織の手によって拉致された怒りを目の前の茅萱へぶつけるしか無かった。  昨晩から企てが露呈した茅萱は隠し立てや無駄な抵抗を図る事も無く、振り上げられた綜真の拳にはびくりと肩を震わせ歯を食い縛るが、虚仮威しでは無い拳が茅萱の顔面を目掛けて振り下ろされようとした瞬間、ピリつく空気の中劈くような真香の叫び声が綜真を制止させる。 「御嵩さんッ!!」  咄嗟の判断で打撃位置を茅萱の顔横へとずらし、拳のみならず腕全体で壁を打ち付ける形に留まった綜真が制止の声を上げた真香を振り返ると、真香に支えられた詩緒が青褪めた顔をして立っていた。暫くの間悪化する事が無かったので忘れかけていたが、詩緒は怒声や暴力を苦手としている事を改めて思い出した綜真は頭に血が上り過ぎていて詩緒の存在を失念していた事を後悔した。 「詩緒……」  綜真の距離からでも詩緒の顔が青褪めているのが良く分かり、余りにショックが大き過ぎたのかすぐには綜真と目が合わせられない程に震えていた。  事情は良く飲み込めてはいないが、昨晩に引き続き綜真からも殴られる覚悟をしていた茅萱はそれが無かった事から思わず閉ざした両目を恐る恐る開き、目前の綜真が自分では無く別の方向を見ている姿を見上げる。殴られなかった事を幸運と思う事は茅萱には出来ず、千景をも巻き込んでしまった責任が自分にある事を自覚しているからこそ茅萱は呆然としたまま綜真を見上げていた。その時、茅萱のポケットの中でスマートフォンが着信を告げる音を鳴らす。  このタイミングでの着信となると相手に心当たりは一つしか無く、茅萱以外の全員も息を呑んで茅萱の行動に注視する。胸ポケットから取り出したスマートフォンの液晶に表示されていた名前は茅萱の想像通りの人物で、茅萱は一度綜真へと視線を送る。 「電話……佐野を拉致った奴からだ」 「スピーカーで」  綜真はそう言って茅萱から離れるが、詩緒の元へ近寄ろうにも今の自分が触れると過去の恐怖を蘇らせてしまうのでは無いかという不安が足を竦ませた。真香がゆっくりと背中を摩り何かを耳打ちすると詩緒はこくりと頷き顔を上げゆっくりと綜真へと歩み寄る。今どれ程の恐怖が詩緒の中に渦巻いているのか想像も出来ない綜真だったが、それを押してでも共に歩む事を選んだ詩緒を大切にしなければならないという想いが今まで以上に湧き上がり、差し出した腕の中へと詩緒が飛び込んで来るとその両腕で強く抱き締めた。  綜真の指示で着信をスピーカーで受けた茅萱は、手元のスマートフォンに三睦の姿が映し出されているのを見て片眉を上げる。およそ悪辣な商売をやっているとは思えない眼鏡を掛けたインテリ風の容貌、この三睦自身が嘗て茅萱から雪貴を奪い取った張本人である事を茅萱は片時も忘れる事は無かった。 『俺だ』 「佐野は無事か?」  落ち着いた物腰ながらも慇懃無礼という表現がぴったりの口調で三睦は茅萱へと声を掛ける。今の時点で真っ先に気にすべき事は三睦と一岐を呼び出す為の取引きではなく、ただ千景が無事であるかという事だった。 『勿論無事に決まってるだろう。今も元気そうにしている』  三睦は目を細めスマートフォンのレンズでは無くその遥か奥へと視線を向ける。その時丁度三睦がカメラの向きを切り替え、茅萱の画面には三睦ではなく三睦の視線の先と同じ物が映し出される。 『……ぁっ……ゃ、っぁ……』 『おニィさん開発されまくりじゃん。感じ易いねーイケるよっ!』 「ッ!!」  微かに漏れ聞こえた声が千景の物だと気付いた茅萱は、同時に画面の中に映し出された光景に絶句した。幸運にも画面を見ているのは茅萱のみで、綜真や詩緒、真香、斎の誰も直接その光景を目撃する事は叶わなかったが、確かに聞こえた千景の声に誰もが茅萱を注目した。 『お前が持ち出した帳簿とこの男の身柄を交換する』  三睦はスマートフォンを持ったまま立ち上がり画面が揺れる。三睦が向かった先は薄暗い廃墟の中正に千景が一岐によって蹂躙されている現場だった。屈み込んだ三睦は千景の顔を掴みライトで灯されるスマートフォンのレンズへと顔を向けさせながら手持ち無沙汰で唇に触れる。 「……誰が、お前の言葉なんか信じるんだよ」  取引きが行われるまで千景が無傷で居られる事を期待した自分が馬鹿だったと茅萱は震える手を両手で抑え込むようにしてスマートフォンを落とさないように力を込める。 『……ファイル、茅萱はもう……持ってないぞ』  目に突き刺さるライトには眩しそうに目を細めた千景だったが、通話の相手が茅萱である事に気付くと挑発するように三睦へと視線を向ける。 『昨日の、時点でもうっ……半グレに、渡してある……』  今更ファイルを奪い返そうとしても盗み出した昨晩の時点で絶対にバレてはならない相手へ既に渡してあるというブラフが何処まで目の前に通じるかは分からなかったが、千景が乗り込んだ時点で一度事務所へ立ち寄った後ラウンジから退散したこの二人にはその後起こった出来事など把握する術は無いと、血と唾液に塗れた口元で笑みを作る。 『はァ?』 『ザマァミロ……ッん!』  一岐の低い声のすぐ後唐突に千景の表情が引き攣る。三睦がレンズを向けない限り何が行われるか知り得る事が叶わない茅萱だったが、千景の苦痛に歪む顔から良からぬ事をされている事はすぐに察する事が出来た。 『……中に直接食らいてぇの?』 『やってみろよクソ野郎』 『上等だ』 「一岐やめろっ!!」  その時茅萱は一岐が防犯用のバトン型スタンガンを常に携帯していた事を思い出した。気付いた時には叫んでいた茅萱ではあったが、珍しいその茅萱の焦りように綜真と斎は固唾を呑んで茅萱を見守った。 「ファイルはある! 俺が持ってる! 持って行くからそれ以上佐野に何もするな!!」 『イイコだな征士郎。場所は――』  茅萱が三睦から取引き場所を告げられた時既に千景の意識は無かった。人材を発掘して斡旋するだけが仕事だった茅萱は自分自身がそういった被害を受けた事は今まで一度も無かった。だからこそ今の千景の苦痛を計り知る事も出来ず、何故あの瞬間自分が代わりに拉致される事が出来なかったのか、もっと昨晩の内に斎を傷付けて突き放して、今日斎を本棟から連れ出さなければ良かったと後悔ばかりが湧き上がる。  事は一刻を争う、例え相打ちになったとしても千景だけは助け出さなければならないと決めた茅萱はふらりと壁伝いに玄関へと歩き始める。 「行く気なの茅萱さん」  寮に戻って早々綜真が茅萱に殴りかかろうとした為、エントランスで尻もちを付いたままだった斎は茅萱が歩き始めるとその姿を視線で追い、自分の前を通り過ぎる時には立ち上がり壁へ腕を付いて茅萱の進行を阻んだ。  改めて見上げれば斎の顔は三睦が上玉と言うだけあって整っていると感じた茅萱は、それと同時に顔というよりは全体的な雰囲気が雪貴に似ていると改めて感じていた。だからこそ敢えて斎を見ようとはしなかった。 「当たり前だろ! 佐野がまだ無事な内に取り戻さねぇと!」  斎が本当に復讐対象であったのか、茅萱にも疑わしい部分はあった。もし拉致されたのが千景ではなく斎だったならば同じように自分は取引きに応じただろうか、その可能性は限りなく高いと心の内にあった変化よりも今は千景の救出が先だと茅萱は進路を塞ぐ斎に食って掛かる。 「そしたら茅萱さんが殺されるかもしれないんでしょ!?」 「それがどうした! 俺は元々刺し違えてでもあの二人殺すつもりなんだよッ!!」  警察に連絡をするでも、千景を無事に救出する手立てが付くまで茅萱を思い留まらせる事が出来ないかと茅萱の両腕を掴む斎だったが、元より相打ち覚悟の復讐を想定していた茅萱の決心はそんな事で簡単に揺らぐ事は無かった。 「佐野さんはそんな事望んでないよ!」 「それには俺も同感。千景はアンタの事嫌いだけど、アンタが敵討ちの挙句死ぬ事は望んでねぇ」  例え自分自身が犠牲になる事はあっても――二人のやり取りをただ静観していただけの綜真もついには口を挟む。茅萱のスマートフォンから聞こえた音声で千景が危機的状況に陥っているのは確かであり、一連の千景の言葉に酷く気分が悪くなりつつある綜真だったがそれを詩緒に悟られないように、同様に大きなショックを受けている真香へのフォローへ差し戻した後、後先を考えずに突っ走ろうとする茅萱を諫める為一歩足を進める。 「お前ら……馬鹿か? 佐野が正気のまま戻って来られると本気で思ってんのか……」  斎も綜真も正確な状況が全く理解出来ていないと茅萱は愕然としながら順に視線を送る。 「どういうこと……」 「お前には使わなかったけど、組織が調教の時好んで使う薬がある」  それは三睦からの通話の中にも映り込んでいた。酷く不鮮明な画質だったので定かでは無かったが、映像で判断せずとも調教に時間を掛ける事を好まない二人が裏ルートで仕入れた特殊な媚薬入りクリームがあった。クリーム状の為塗布に特化したものではあるが、薄くひと塗りしただけでも感覚神経へ過剰に作用し、特に性感帯へ塗布する事で即効性が高い事で知られていた。  その試作品の実験体として使われたのが他でも無い雪貴だった。 「あんなモン使われ続けたら四六時中セックスの事しか考えられねぇ程佐野の頭ん中ブッ壊されっぞ!!」  堕ちてしまえばただただ楽だった。許しを乞うて足元に縋れば二度と何も考えなくて済む。ただ一人、最愛の存在である玲於以外の人物のモノで貫かれ、何度も起こる性衝動は決して自分の意志では無い。食われたくない心までは。この身体はもう芯まで穢れてしまった、それでも後少しだけこの身体でやらなければならない事がある。それまでは絶対に心までは食われまいと千景は自らを穿ち律動を繰り返す三睦の顔をただ見上げていた。  三睦と一岐は恋人関係にあるらしく、挿入行為だけは三睦に譲った一岐ではあったがその最中もクリームを塗り付けた手で千景の雄を優しく愛撫し、時折衝動を堰き止めるなど明らかに千景の思考を破壊する手段に出ながら視線が絡み合う度三睦と唇を重ねる。  数時間前、三睦は誰かと通話をしていた。その相手は恐らくファイルを持っている茅萱だろうとあたりを付けた千景だったが、茅萱がこの場所に今現れてしまうのは些か分が悪い。茅萱は何処からか入手した拳銃を持っていた。訓練も受けていない人間が容易に扱える代物では無いが、茅萱は二人を殺すつもりでこの場所へとやって来る。ある人物より先にこの場所へと来られてしまう事は千景にとって都合が悪いものだった。 「……よお。繁盛してっか」  放置されてから数ヶ月以上は経過している廃ビルの一角、地下のバーに足を踏み入れる者の存在があった。独特の鉄板を入れた靴音がコンクリートに響いた時、虚ろな思考の中千景は勝利を確信した。 「さ、佐野さん……?」  一岐の言葉に三睦の動きが止まる。行為の真っ最中を目撃される事は流石にばつが悪いと感じたのか、一岐はそっと千景から手を離し距離をおこうと後退する。 「今日は何で此処に……」  三睦もその人物の姿を凝視したまま固まり、一歩ずつその人物がバーの中へと足を踏み入れる度に言い表せぬ恐怖が背筋を這い上がっていた。まさかこんなにも早く辿り着かれるとは思っていなかった。先程の通話で千景が告げた昨晩の時点でラウンジを管理する半グレへ渡してあるという言葉、その半グレの一人が今この場に現れた佐野御影、その男だった。 「…………」  御影はズボンの両ポケットに手を突っ込んだまま薄暗い室内を見渡し、ラウンジのVIP室を貸し出している組織の中枢、一岐と三睦、そして三睦に凌辱されている千景へと順に視線を移していく。  タイルを踏み付け割れた陶器の音が響いたかと思えば、一岐の身体は御影に殴り飛ばされ部屋の隅へと朽ち落ちていた。 「ぐあッ!」  売上の誤魔化しはご法度であり、露呈してしまえば制裁は免れない。何よりも目の前で一岐が殴打され木の葉のように飛び散る光景を目の当たりにした三睦は暴力では決して御影には勝てないと本能で理解した。 「佐野さ、!!」  御影の次の矛先は三睦へと向かい、体裁を整える間も無く千景への挿入に及んでいたままの三睦の首を片手で軽々と掴み上げる。隆起した筋肉は三睦の腕と比べ何倍もの太さで、その筋肉のままに三睦の顔面へ拳が打ち込まれる。一岐の様に吹き飛ぶ事こそ無かったものの三睦の身体は千景の側に崩れ落ち、御影は更に三睦の上へと跨ると顔面に限らずその重い拳を両手で落としていく。 「俺のモンに手え出してんじゃ! ッねえよ!」  佐野御影、その人物はラウンジを管理する半グレチームの一員であると同時に勘当された千景の実兄でもあった。幼い頃から弟の千景に偏執的な愛情を抱いていた御影は、千景が誰かと会話を交わすだけでその相手を裏で殴り飛ばし、時には千景自身を真っ暗な物置の中へと閉じ込め、千景に性的な目的を持って近付く者が居れば容赦無く半殺しの目に合わせてきていた。しかしそれらの全てが千景を自分ひとりだけの物にしたいという歪んだ感情の現れで、千景が二十歳を迎え親の庇護を抜けたその夜御影は千景を犯した。  その行為には流石に目に余る物があり、直後にショックから千景が自殺を図った事も相成り御影は両親から勘当され、裁判所を通じて千景への接近禁止命令も出されていた。更に御影から手の届かない場所へ送る為千景は学校を卒業後単身神戸で就職をするが、数年前から再び地元へ戻り玲於と再会した。その千景の自宅にも御影は一度襲来しており、千景こそ居なかったが偶々風邪をひいて家に居た玲於が被害を受け、一時千景と玲於の間に亀裂が入りそうな程だった。  毒を以て毒を制す、それは千景が茅萱から話を聞いた時から考えていた事だった。茅萱に二人は殺せない、慣れない拳銃以外の手段を想定していない事もそうだったが、こんな二人の為に茅萱が自らの手を血に染める必要も無いと考えていた。ならば組織を潰すのに一番有効な手段はそれ以上の暴力で潰してしまう事だった。  昨晩千景はラウンジで実兄御影と偶然遭遇した。ファイルを見せてこそいないものの、御影に組織を潰させる事にファイルの存在など然程重要な事では無かった。 「……お、にい、ちゃ、ッぁ!」  三睦は息をしているのか、微かに聞こえる呼吸音だけが三睦の存命を告げていたが、虫の息となった三睦から手を離した御影はその隣に転がされていたままの千景の頬をも同様に打ち付ける。御影は千景が自分以外の人物と関係を持つ事ですら耐え難かった。 「テメエも、俺以外銜え込んでんじゃねえ」  状況が幾ら千景が被害者であろうとも受け入れてしまった事実は覆せず、どす黒い嫉妬の炎に焼かれた御影は頬を打たれ俯く千景の胸倉を掴む。 「っ、ごめ、なさっ……」  御影を利用する事に関してのリスクは千景も考えて居なかった訳では無い。ファイルよりも何よりも千景自らが組織に手を出された事実を目の当たりにすれば当然御影は二人を生きては返さないだろう。しかしそれは同時に千景自身も御影から逃げられない状況に陥るという事だった。  薄暗い地下の密室の中、最初に御影に殴られそのまま意識を失っていた一岐が目を覚ます。自分がどれだけ意識を失っていたのかも分からず状況も掴めないままやがて暗闇に目が慣れてきた一岐の目に映ったものは、自分を殴り飛ばした御影の背中一面に広がる刺青だった。 「ひ、ぃっ……!」  三睦がどうなったのかも分からず、まだそこに居た御影の存在を認めた一岐は悲鳴にも似た声を出し、四肢を縺れさせながらも立ち上がりその部屋を飛び出す。 「――――」 「あァ? メンドくせえな」  一岐の悲鳴と足音のみが反響するように響く中、御影は面倒臭そうに足音が聞こえる方向へと視線を送る。御影は露骨な舌打ちをしつつもゆっくりと立ち上がり、逃げていった一岐の後を追い部屋を出て行く。  二人の足音もやがて聞こえなくなった時、室内に残された千景を呼ぶ声が微かに響く。 「……千景」  室内へと伸びる長い影、茅萱から取引き現場を聞き出し駆け付けたは良いが、中へ入るタイミングを見計らっていた綜真だったは、獰猛な獣のような殺気を放つ御影の存在の為入るに入れないままで居た。長年喧嘩慣れをしている綜真は相手を一目見ただけで自分の敵う相手であるかを判断する事が出来た。その綜真の本能が御影には暴力で勝つ事は出来ないと警鐘を鳴らしており、御影が誰かを追って部屋を出て行くまで物陰に隠れてやり過ごし、漸く室内に取り残された千景へ声を掛ける事が出来た。  窓の無い地下の所為もあり、中の様子は明確には分からなかったが気配で察するに御影程の存在はもう居ないと感じ上着を脱ぎながらコンクリートに転がる千景へと歩み寄る。 「……ああ、タケ……良いタイミング」  御影が居なくなるまでの一部始終をある程度聞いていた綜真にとって、痛々しくも聞こえるその掠れた千景の声に綜真は胸を締め付けられる。近付けば明確に分かる千景の姿は、シャツは半脱ぎのまま後ろ手に拘束されており、下半身には何も纏ってはいなかった。綜真はその千景の下肢に自らの上着を掛けてから上体を起こそうとする千景に手を貸して支える。 「い、ってぇ……取り敢えず両手痛いから焼き切ってくんね?」  手首に食い込む結束バンドを一番に外して欲しいと、千景は起き上がった反動で余計に手首へと食い込む自らの両手首を上げて綜真へと晒す。 「ライターで? ナイフで良いだろ」  確かにライターで焼き切れば確実ではあったが、肌に食い込むほど強く締め付けられている今の状態ではライターの火が手首をも害する可能性があり、綜真は常備しているフォールディングナイフをポケットから取り出し刃を開く。 「銃刀法違反かよ。捕まれクズが」 「言い方」  薄暗い中、手首の隙間に刃を滑り込ませると痙攣のように千景の腕がびくりと動く。なるべく手首に負担を掛けたくは無かったが、限界まで強く締め付けられており、拘束を解く為に刃を動かせばその度千景の手首にプラスチックが擦れる。何度かそれを繰り返し漸く綜真の刃が結束バンドを断ち切ると、千景は数時間振りに自らの手首とそこに残る真っ赤な擦り傷と対面する。  ライターでは足りないと綜真はスマートフォンの明かりを室内に向ける。千景のすぐ側に仰向けで倒れていた三睦は顔面の形が分からなくなる程殴打されており、千景が手首以外に傷を持っていない事から千景ではなく先程部屋を出た御影の仕業だろうと推測した綜真は立ち上がろうとする千景に手を貸して支える。 「……アイツは?」 「生きてはいるだろ。虫の息だけど」  もし仮に死んでいたとしても千景には関係の無い事だったが、微かに胸元が上下している事を確認すると後で警察でも呼んでおこうと室内中に散った自身の下着やスラックスを探す為に床を見渡す。  その時、静寂の中爆発音のような物が聞こえ千景と綜真は互いに顔を見合わせる。 「――撃った?」  もしこれが銃声だと仮定したならば、発砲したのは茅萱しか考えられなかった。一岐は千景を車両に連れ込む際スタンガンを使っていた、もし一岐も拳銃を持っていたとしたらそれで脅す方がスタンガンよりも効率が良い。 「海老原が行ってる」  当初千景の救出は綜真と茅萱の二人だけで向かうつもりだったが、斎がどうしても自分も同行したいと言って譲らず、それならばと斎は茅萱の目付役に任命された。支度をする斎が綜真に強く念押しされた事は、絶対茅萱に拳銃を撃たせない事だった。  その綜真の忠告も虚しく銃声らしき音が聞こえたという事は、千景や綜真にとって想定出来る最悪の事態が起こってしまったという事だった。 「お前は?」 「俺はお前の回収」  多少の乱闘までは想定していたが、予想外の人物が現れた事により三睦は既に虫の息、一岐も逃走時の様子を見る限り重傷を負っていた。厳命してある限り斎も茅萱を無事に連れ帰るだろうと考えていた綜真は、茅萱の言葉振りから千景も恐らく重篤な状態であると考え多少の乱闘を覚悟の上で千景を連れ帰る役割を担当する事にしていた。  立つだけでもふらつく千景の身体を横から支え、少しでも早く着衣を整えさせてこの場から立ち去ろうと考えていた綜真だったが、千景は銃声が聞こえた上方へと視線を向け何かを呟く口元を隠すように手で覆い隠す。 「そっか、じゃ悪ィけど――」  落ちていた下着を見付け両足を通した千景は綜真と向き合うように正面に立つとぽんと肩に手を置く。肩を貸すにしては随分歩き辛い体勢だと綜真が考えた次の瞬間、千景の全力を込めた拳が容赦無く綜真の鳩尾へと打ち込まれた。 「暫くそこで寝てて」  咄嗟の事で防御も出来なかった綜真は胃が引っ繰り返るような衝撃に思わずその場に膝を付くも、それすら難しくなり倒れ込む。立つだけでふらついていた千景に残された体力など殆ど無い筈と見ていた綜真だったが、的確に鳩尾へと叩き込まれた拳は重く、綜真は倒れ込んだ拍子に胃液を床へと吐き出す。 「……チ、カ?」  助けに来てこの仕打ちは流石に酷いと綜真は屈み込む千景へと手を伸ばすが、千景は先程綜真が結束バンドを切る時に使ったフォールディングナイフを綜真のポケットから抜き取り片手に握り込む。 「コレ、借りてくな」 「待、てっ……チカ! オイ!!」  ナイフなど何に使うつもりなのか、綜真の呼び掛けに振り返りもせず千景はそのままふらりと踵を返し裸足のまま御影が一岐を追って出て行った扉の無い出入口へと向かう。綜真の読みは外れておらず、覚束無い足取りで時折壁へ凭れ掛かるもまたすぐに歩き始めた千景はぽつりと殺意に満ちた言葉を残す。 「……絶ってぇ、殺す」 「チカ……」

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