11 / 11
終章 シュレディンガーの夜明け
「あ、お帰りアキ兄」
「イトナ……」
暁の視界の外から投げ掛けられた言葉。ぎこちなく暁が振り返ると、ボストンバッグを肩に掛けた絃成が帽子の鍔を少し上げて呑気な声を上げていた。
「そこで飲みモン買ってきた」
その手にはペットボトルの清涼飲料水が握られており、もし腹を下しているとしたならば水分補給は必要であると絃成なりに暁の事を考え行動した結果だった。
じわりと暁の両目に涙が浮かび、裏切られていなかった事実と少しでも絃成を疑ってしまった自身に暁はその身体に鞭を打ち、絃成へと駆け寄ると倒れ込むようにして絃成の身体を抱き締めた。暁の様子が先程までとは少し違うと感じた絃成ではあったが、腹を下している所為かもしれないと悠長に構え、代わりに両腕で暁の身体を抱き締め返す。それが人前であろうが絃成には関係の無い事で、暁が何故泣きそうな顔をしているのかの理由も分からず、ただ幼子のように縋り付く暁の姿を純粋にいじらしいと感じていた。
「――愛してる、イトナ」
妙に掠れた声だった。やはり飲み物を買ってきて正解だったと絃成は満悦の表情を浮かべながら耳元で囁かれた言葉に表情を緩め、その冷たい頬にそっと口付けを落とす。
「俺も愛してるよアキ」
初めて言葉で伝える事が出来た、今まで心に秘め続けてきた思い。たった五音であっても音に出して伝える事はとても難しく、誰かにそんな言葉を伝える日が来るなど夢にも考えはしなかった。
悪夢に飛び起き泣きじゃくる子供をあやすように絃成は暁の背中をゆっくりと叩く。長い長い悪夢はもうこれで終わりで、夜明けと共に自分たちの生活はがらりと変わる筈だった。
定刻通りにバスが訪れ、二人は互いに支え合いながらそのバスへと乗り込む。年末年始の繁忙期と異なり、また週末でも無かった為座席の空きは多く、そのお陰で暁が当日でも乗車券を買う事が出来た。前の乗り場から新名の息が掛かった者が乗ってきてはいないかと気を揉むつもりの暁だったが、もうすでにその心配が不要である事に気付いていた。
その証拠は和人が来ていた事であり、恐らくは暁と絃成を逃さぬよう包囲網を敷こうとした新名を制して和人はひとりでこの場所へと現れた。暁を取り戻す事が和人の目的だったとするならば、尚更新名とかち合うような真似を和人がする筈は無かった。
他の乗客と距離を空け、暁は窓際の座席に腰を下ろす。幸いバス内にトイレの設備もあり、腹を下しているのならば通路側の方が良いのではないかと打診した絃成だったが、具合の悪そうな暁が窓際を望んだ為それ以上の異論は告げず、絃成は窓際の座席に腰を下ろす。バスは乗客を確認するとすぐに発車し、深夜発という事もあり、間も無く車内は小さなライト数個を残し暗闇に沈んだ。
乗客が少ない事もあり、あまり大きな声を出す事が無ければ少し位は会話をしても問題が無いだろうと絃成はバスが高速に入った辺りでこそりと暁へ声を掛ける。
「広島通るかな?」
絃成がファンであるOctōは千葉県の出身だったが、今も尚音楽活動を続ける二代目リーダーのNeunは広島県の出身だった。神戸市が兵庫県に含まれるという事を理解していなかった絃成はそもそも日本の地理に疎く、広島県が兵庫県より先に位置している事すら理解していなかった。
「広島は神戸より先だから通らないよ」
それすらも絃成らしいと暁は口元に緩く笑みを浮かべ、肩を揺らす。その僅かな機微ですら暁の傷口には大きなダメージを与え、内側から何かが滲み出てくる感覚に暁の意識が少し遠のいた。
「|Neun《ノイン》の地元だから行きたかったのになー」
「……行こう広島も、福島も。一緒にシュレの聖地巡りしよう」
これから向かおうとしている土地とは全く正反対に位置する福島県はドラムの| Cien《シエン》と前ボーカルであるゼロの出身地だった。今をどうにか切り抜ける事が出来たならば、広島県であろうが福島県であろうがもう好きな所へと行ける。
「そうだなっ、一緒に行こうぜ」
にかっと笑みを浮かべる絃成の嬉しそうな顔が、擦れ違うトラックのライトに照らされ色濃く暁の脳裏に焼き付く。この笑顔を守れて良かった、少しでも疑ってしまってごめんなさいと暁は顔を苦痛に歪めたが、その表情に絃成が気付く事は無かった。
夢心地のような感覚に暁はもう開けていられない重い瞼を下ろす。まだ絃成と話していたいのに、脳を鷲掴みにされて真後ろに引っ張られているように真面な思考が出来ずにいた。
「……ごめん、少し……眠くて」
八時間の長い旅、バスにトイレが常設されているという事は途中で何処かのサービスエリアに停車する可能性も低く、今は少しでも眠って体力を温存しておいた方が良いと暁の体調を気遣った絃成は、汗でしっとりと湿った暁の額に張り付く前髪を指で払い除け、その冷え切った額にそっと唇を寄せた。
「ん、お休み――向こう着いたら起こすからさ」
昨晩から随分と暁には無理をさせてしまったという自覚のある絃成は、乗車時に渡された毛布を暁の上に掛け自らも座席を倒して角度を調節する。
「あり、がと……」
明日になればきっと全てが変わる。那月の紹介であるならば信頼のおける相手だ。当面の内は和人の金があればなんとかなる。何かに怯えて過ごす必要も無い、今度こそ暁は自由になれるのだと薄れゆく意識の中口元には微かな笑みが浮かんでいた。
翌朝――遮光カーテンの隙間から射し込む赤々とした眩しい太陽に絃成は暁よりも早く目を覚ます。予定時刻では神戸に着くまでは更に一時間近くあり、途中停車する大阪で既に何人かが降車したのか、絃成が車内を見渡す限り昨晩より乗客が少ないように思えた。
連日の無理が祟ったのか、窓に凭れ掛かって眠る暁を起こさないように絃成はそっと遮光カーテンの隙間を埋める。神戸に到着するまではスマートフォンの電源を入れてはいけないと暁から強く言われていたが、到着するまでの数十分暇を持て余した絃成はもう大阪を過ぎたから問題無いだろうと約束を破り、電源ボタンを長押ししてスマートフォンの電源を入れる。
電源を切る前に音量を下げておかなかった所為もあり、起動時の初期化が終わるとスマートフォンは絃成の手の中で激しく揺れ始め昨晩からの着信やチャットの通知を報せ始める。慌てて音量ボタンを操作し鳴動音を消す絃成だったが、予定外に暁を起こしてしまっていないか、今も尚振動を続けるスマートフォンを両手で包み込み、そろりと隣で眠る暁へと視線を送る。絃成の不安に反して暁が目を覚ました様子は無く、眉ひとつも動かさず静かに寝入っているようだった。
起こしてしまわなかった事にほっと胸を撫で下ろし、絃成は再び手元のスマートフォンへ視線を落とす。ひっきりなしに続いた通知は落ち着きを見せ、その大半は新名からのものだった。恋人関係にあった萌歌も心配をしての事なのか、数件チャットと着信の通知があり、その中に和人からのものはひとつも無かった。
時間を見計らっていたのか、絃成がスマートフォンの電源を入れた後、那月からのチャットがロック画面に表示された。暁と絃成の二人が姿を消した事は仲間内ですぐに情報が巡り、数件あった萌歌からの通知も全てそれに起因するものだった。萌歌と違うところは、那月は明確に二人の行き先を知っており、二人が居なくなったと分かればその行き先は神戸以外に他ないと、長年の付き合いから暁の考えを先読みし神戸へ到着するであろう時刻に併せて絃成への連絡を入れた。
二人が既に神戸に向かったのならばと那月も根回しに奔走し、二人が到着した時点ですぐ拾えるように迎えの者を手配するのと同時に、那月自身も和人や新名に気付かれないよう始発電車へと飛び乗り神戸に向かっている最中だった。
「神戸着いたぜアキ」
バスの運転手が終着地である三宮に到着するというアナウンスを流す。スマートフォンを片手に惰眠を貪っていた絃成もそのアナウンスが耳に届くと緩々と目を覚まし、込み上がる欠伸を隠す事もせず放出した。バスターミナルに那月の知り合いが迎えに来ている筈で、そろそろ暁も起こさなければならないと感じた絃成は、那月からのメッセージ画面を開いたまま声を潜めて毛布を掛けたままの暁へ声を掛ける。
「ナツ兄に神戸着いたらここに連絡しろって言われたんだけど――」
――何かがおかしい。絃成はその時初めて気付いた。昨晩から輪を掛けて顔色が悪い、それはただ腹を下しているだけだと思っていた絃成だったが、昨晩隣の座席に座りながら一度でも暁の寝息を聞いた事があっただろうか。一度でも暁が身動いだところを見ただろうか。
寝た振りも良いが、そろそろ本当に起こさなければバスが目的地に到着してしまう。起こす為肩に触れた時に気付いたその冷たい感触。ずっとそれは腹を下しているのと車内の空調によるものだと考えていた。しかし寒いのならば――何故一度もくしゃみなりその体温低下を暁は訴えようとしなかったのか。
「アキ?」
暁はとても、幸せそうに微笑んでいた。
了
ともだちにシェアしよう!