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終章 最後の一線

 蒼が全ての仕事を片付け戻ってきた時、寝室のデジタル時計は二十時を迎えていた。その数時間前に秘書は蒼の家を後にしており、蒼の邪魔をする事も出来ずやる事が無かった喬久は再度ベッドに背中を預けたがそのまま寝入ってしまっていた。 「すぐ片付けるつもりだったのに大分掛かっちまったな。お腹空いてるだろ? お粥だけど」  喬久が気を使っている事は蒼にも分かっており、もしかしたら眠っているかもと考えた上で声を潜めながら寝室の扉を開けた。その片手にはトレイに乗せた陶器の器があり、会議の合間を見て蒼が喬久の為に用意をした病人食だった。蒼の声ですぐに目を覚ました喬久だったが、気が付いたら蒼の家に居たという状況はまだ解決しておらず、順当に考えれば蒼に連れて来られたと考える事が出来たが、幾ら体調が悪くとも施錠を忘れる事は考えられず自ら蒼を部屋へと招き入れた覚えも無かった。  喬久の思考がぐるぐると巡る中、蒼はベッド横に向かうと喬久と視線を合わせるようにして膝を付く。冷静に考えてみれば今日一日何か物を食べたという記憶すら無く、器から漂うほのかな出汁の香りに触発された喬久の腹が控え目に空腹を訴えた。 「あ、ありがとうございます……」  その腹の音は当然蒼にも聞こえており、食欲を唆る香りと共に主張してしまった空腹に喬久は恥ずかしさを覚え耳を赤く染めた。蒼は喬久ほどそれを気にした様子は無く、床に膝を付いた際に隣へ置いたトレイから器を取るとレンゲでごく少量の粥を掬い熱々とした湯気がおさまるまで吐息を吹きかける。蒼には話したい事や聞きたい事も山程あったが、食事の用意までしてくれた蒼の気遣いよりも優先する事柄では無く、話題の切り口を見出だせないままの喬久が戸惑っていると、やがて蒼は適温に下がったレンゲへ手を添えて喬久の口元へと運ぶ。 「はい、あーんして」 「あのっ、……一人で、食べられるんで……」  何となくそんな予感は蒼がトレイを持ってきた時点で気付いていた喬久だったが、子供が母親に食事を与えられているような状況には躊躇いを禁じ得ず、両手を胸の前へ出して丁重に辞退の意を示す。それは蒼自身への拒絶とも受け取られかねない行為であり、その事に気付いた喬久がはっとして蒼の顔を見ると蒼はレンゲを握ったまま視線を手元に落としていた。 「させてくれよ。これが最後になるのかもしれないんだから」  蒼の口元には普段通りの優しい笑みが浮かべられていたが、喬久はその表情を見て心臓が握り潰されそうだった。その笑顔は喬久が知るいつもの蒼の笑顔とは異なり、とても悲しげに見えたからだった。喬久は蒼とちゃんと話をするつもりだったが、既に蒼の中では今日こそがふたりにとっての最後の日であるという認識で、そんな自分が最後に喬久へしてあげられる事は何かと考えた結果最初で最後の看病と相成った。  喬久は両手で布団を握り込む。ずっと側で部下として働いてきて蒼の事を信じてきたのにも関わらず、最後には一方的な思い込みで疑い、蒼の事を深く傷付けてしまった。疑った事を今更謝ったとしてももう遅いかもしれない。許されなくても構わない、それでも喬久は蒼に伝えなければならなかった。握り込んだ手が喬久の意志と呼応するように震える。 「……蒼さん、俺っ聞きたい事があって」 「……うん、なにかな」  レンゲを一度器の中へと戻すと陶器同士がぶつかり合う小さな音がする。蒼はそれでも柔らかい笑顔を崩さぬままトレイごと端に避けてから再度喬久へと視線を向ける。僅かに首を傾げるその仕草は相手の意見に耳を傾ける時の蒼の癖でもあり、懐かしいその仕草を再び目の当たりにした時揺れる喬久の心は定まった。 「俺、あの時ちゃんと聞かないで行っちゃったんですけど……蒼さん、何か言おうとしてたから」  膝を付いただけの姿勢から腰を落として体勢を整え、立てた膝に片腕を預けるような状態で蒼は喬久が最後に訪問した日の事を思い出していた。僅かに口元を手で隠す状態になってしまったのは意図したものではなく、手の置き場がそこしか無かったからだった。  あの日、喬久に伝える事が出来なかった言葉。その気にさえなれば伝える方法は幾らでもあった。部屋を飛び出した喬久を追う事も出来たし、喬久の部屋で帰宅を待ち構える事も、職場まで赴く事も――手段は幾らでもあった。それでも蒼が踏み留まったのは、喬久の中での自身の評価が決まってしまっている事に気付いたからだった。潔癖で真面目過ぎる喬久は一度決めた自分の信念を曲げる事は無い。しかしそれは喬久にとって譲れない事実であると決定付けられたものに限られており、話す順序さえ間違えなければ喬久に誤解を与える事は無かった。 「……ストーカーはな、お前に打診したあの時点ではまだ確かに居たんだ」  蒼の離婚後もストーカーは確かに存在していた。それは仕事中であろうがプライベートであろうがお構い無しで、自宅から出ずに仕事を行う体制に切り替えても常に誰かに見られている気配を拭い去る事が出来ず、蒼は疲弊しきっていた。ひとりで過ごすには広すぎる部屋、それでも常に監視されているような視線は蒼に心の安らぎを求めさせた。 「だけど同時に秘書にもストーカーを探させてた」  蒼の異変に誰よりも早く気付いたのは日頃からオンラインながら蒼をサポートしている秘書だった。蒼が離婚前から存在していたストーカーの存在を秘書へ打ち明けると、別料金を上乗せしても構わないのならという前置きの上で秘書はストーカー調査を引き受けた。蒼に海外製の盗聴器発見器を与えたのも秘書だった。 「あの人に……」  ただの秘書という存在で括るにしては、その枠から外れすぎている気がすると喬久は考えざるを得なかった。それでも蒼が秘書に対して高い信頼を抱いているのは喬久からも感じ取ることが出来て、同時にちくりと心臓へ刺さるような痛みを感じた。無意識に喬久が布団を掴む手に力が入り、掌に爪が握り込む程に食い込んでいた。  喬久の手元へと視線を向けた蒼は、布団を握りしめる喬久の手が微かに震えているのを見て居たたまれずその手首を掴む。発熱により触れるだけで感じ取れた熱さが今は無く、強く握り締め続けていたせいか真っ白になっていたその指先は冷たかった。緊張を解すように蒼は指先で掌を撫で、両手で大切そうに包み込む。 「俺が海外出張行ってる間に秘書から『もう大丈夫』って連絡を貰って、帰国したら部屋の中から盗聴器も全部無くなってた」  実際のところ秘書がどんな手段を使ったのかは蒼にも分からなかったが、秘書の言葉通り帰宅した部屋の中からは盗聴器の全てが無くなっていた。何度取り外しても気付けば再び部屋の中に取り付けられていた盗聴器類は、今この瞬間においても再び現れることは無かった。 「……だから喬久を部屋に呼んだんだ」  片手で喬久の手を掴んだまま、蒼は隻手を喬久の頬へと伸ばす。 「あの時にはもう……?」  喬久が触れる蒼の手へ寄せるように顔を傾けたのは無意識で、蒼が喬久の頬に触れたまま腰を浮かせベッドの端へ腰を落ち着けるまでの間喬久の視線はずっと蒼へと向けられていた。 「本当はあの日、その事をちゃんと伝えるつもりで呼んだんだけどな」  喬久という偽装恋人の存在がストーカーの神経を逆撫でしたのか、秘書がその尻尾を掴むのは蒼の予想よりもずっと早かった。快諾してくれた喬久ではあったが本来喬久のような元部下という立場の存在を巻き込むべき内容では無く、家に喬久を初めて招いた日に偽装恋人の終了を告げる気だった。しかし蒼には喬久にそれを伝えることが出来なかった。 「……親友の事、悲しそうに話す喬久の顔見てたら何か無性に」  蒼にとっての喬久は自らのことを一心に慕ってくれる可愛い部下だった。物覚えも良く自らの成長の為には貪欲で、雛の様に後を付いてくる様子は可愛らしかった。そんな喬久をひとり会社に残し、その後喬久に降り掛かったであろう業務的な災難を考えれば心が僅かながらに痛んだが、喬久のさらなる成長の為には必要なステップであるとも考えていた。  そんな喬久の心の中を初めて垣間見たあの日、心から愛する幼馴染の為に流した涙――。 「その涙を俺が止めてやりたいって思ったんだ」  喬久にそこまで大切に思われていたという幼馴染に対して羨ましいとも思った。秘めた想いを十数年間ひとりで抱え続け、その時でさえ自分の積年の慕情よりも相手の幸せを願うその姿を直視した蒼は自らの手で喬久に幸せを与えたいという衝動に駆られた。  酔って判断のつかない喬久に付け込んだ自覚はあった。それでも喬久が本気で難を示すのならばまだ引き下がれた。引き返せなくなってしまった瞬間は一体いつだったのか、それはあの通話の瞬間や喬久の家の前まで行った時では無く、あの日あの瞬間に喬久の流す涙を見た瞬間だったのだと思う。 「だけど、お前の事騙し続けてた事には変わりないよな……ごめん」  伝える機会ならば幾らでもあった。蒼の部屋に喬久が訪問した時、蒼が喬久の自宅前まで行った日――。その好機を全て無為にしたのは蒼のエゴであり、実際には既にストーカーが存在していないのにも関わらず喬久の恋人という立場を利用し続けていた。  その行為がどれだけ喬久を傷付けるものであるのか蒼も気付いていた。それでも喬久に問われたならば素直に白状するつもりもあった。それが第三者からの悪意ある密告で無かったならば。  嘘が嫌いな喬久をこれ以上嘘で縛り付ける事は出来ない。誰かを想う気持ちは所詮エゴであり、蒼が幾ら喬久を想おうとも喬久の気持ちは初めから幼馴染へと向いていた。そんな事、最初から分かり切っていた事だった筈なのに――。  これで本当に最後にするから、少しでも長くふたりきりの時間を過ごさせて欲しい。そう願う蒼の指先が微かに震える。 「……蒼さん」  喬久の唇から紡がれる蒼の名前。名前を呼ばれる事もこれが最後になるかもしれない。蒼が動く様もその感情の機微も視線でずっと追い続けた喬久は頬に触れる蒼の手の上から自らの手を重ね、片方の手は掌側から皺をなぞるように指先を滑らせ、指の股に指先が触れて――そのまま両手で蒼の手を包み込む。  初めてではないはずなのに、まるでその言葉を口にする事が生まれて初めての経験であるかの様に動悸が落ち着かない。下がったはずの熱が再び上がったのかもしれない、手汗による気持ち悪さを蒼に与えてはいないだろうか、そんあ些末な事にすら気を取られつつ浅い呼吸を数度繰り返した後ひとつ大きな瞬きをゆっくりとした後蒼へと視線を送る。 「……俺、は蒼さんの事が好き、なんだと……思います」  蒼はそもそも異性愛者であり婚姻歴もある。ストーカーが居なくなったのなら前妻とよりを戻す事も、新たな配偶者を望む事も蒼の自由だった。我儘を言える身分で無い事は分かっているし、蒼を困らせるような我儘を言うつもりもなかった。蒼にとってはそれがただの偽装恋人だったのだとしても。もう伝えないまま迎える後悔だけは二度としたく無かった。 「でも喬久、お前は」 「確かにっ」  蒼の言葉を遮るように躊躇った指先を絡ませ蒼の手を握る。伝え方が分からない、何が正解なのかも分からない。好きという単語だけでは喬久の気持ちは蒼に伝わらない。 「確かに俺はか、っ、幼なじみの事が好きだって言いました。確かに言いましたけどっ……」  つい先日蒼の前で和己の事が好きだと言ったばかりで、今は蒼の事が好きだというのはどちらに対しても不義理になる。どちらの言葉も喬久にとっては嘘では無い。学生時代から和己を想い続けていたのは事実であるし、目の前の蒼に対し和己以上の感情を抱いているのも疑いようの無い事実だった。繋がる手だけが蒼とを繋ぐ唯一のものだった。もしこの手が解かれる事があるならば、それは蒼からの優しい拒絶でしかなかった。喬久の指は蒼へ縋るように折り曲げられ、蒼の指はぴくりとも動かない。 「蒼さん、こんなに忙しいのにあの日、あんな時間まで俺の事……心、配して待っててくれた」  今日のこのたった数時間だけでも、蒼が普段どれ程の激務をこなしているのかという事は喬久にも分かる。それでも蒼は喬久の前で仕事の愚痴ひとつ零す事は無かった。あの晩アパートの前に残されていた煙草の吸い殻、とても数分間とは思えない程に残されたその量、一体何時間蒼は忙しい中喬久の帰りをアパートの前で待ち続けていたのか。  これが最後になるのなら思い残す事無く蒼へ全てを伝えたいのに、胸の内から込み上がる感情が喬久の言葉を阻害する。気持ちばかりが逸り大切な言葉が一向に喉の奥から出て来ない。 「俺がいきなり此処に来た時だって、嫌な顔ひとつしないで家に入れてくれて……ちゃんと、俺に話そうとしてくれた……」  初めて喬久から声を掛けて蒼の部屋に来たあの日、蒼がとても嬉しそうな顔をしてくれていた事を今でも覚えている。その笑顔を凍り付かせてしまったのは他でも無い喬久自身の勝手な思い込みであり、呼び止める蒼の言葉も聞かないで走り去った。 「なのに、なのに俺は……」  悪いのは全て自分だと分かっている。言葉に出せず散ってしまった初恋も、信じきれなかった蒼の気持ちも。呆れられていても仕方が無い、ただ今度こそは伝えられずに終わらせたく無かった。たとえそれがエゴだとしても。 「蒼さんのこと、振り回してばっかで」  縋り付くように絡ませた手から力が抜ける。するりと喬久の手は重力に伴い滑り落ちるが、それは一度も蒼の手を握り返さなかったからだった。それでも喬久は滑り落ちるその手を腕の力で支えていた。指先の、僅かな先端で蒼の掌に触れたままゆっくりと、名残を惜しむように腕を下ろす。  もうダメなんだ、全てが遅すぎた。蒼の優しさにこれ以上頼り切ってはいけない。――ただあの晩、逃げるように八雲に呼ばれたホテルから帰宅した喬久にとっては、蒼の存在が何よりの救いであった事は疑いようの無い事実だった。 「それは違う喬久」  不意に視界の暗さが増したかと思えば、蒼の両腕は喬久の身体を抱き締めていた。同時に腕の片方が頭部にも回され、宥めるように喬久の頭を撫でる。緩みきった涙腺が崩壊してしまいそうなその蒼の優しさに、喬久の両手は行き場を無くしていた。  喬久の言葉を遮らないよう黙って聞いていた蒼だったが、全て聞き終わる前に身体が動いてしまった。初めて本心からの喬久の言葉を聞く事が出来た気がした。たったそれだけの言葉を口にするだけでも喬久にとっては初めてのLTの様に緊張した事だろう。大方一番気にしているのは同性同士という点と、元々自分が結婚経験のある異性愛者だという事だろうとあたりを付けた蒼はこれ以上ないまでの勇気を振り絞った喬久を落ち着かせるようにゆっくりと背中を擦る。 「お前の家に行ったのも、俺がやりたくてやった事だ。俺はお前に振り回されたなんて思った事はないんだよ」  直接耳元で伝えられる言葉に喬久の肩がぴくりと震える。それでも蒼は優しいから自分の為を思ってそう言ってくれているだけなのかもしれないという不安は拭いきれなかった。縋っても良いのかこの優しい腕に、また何か蒼のこの優しさに思い違いをしてしまってはいないか、それでも蒼の腕は暖かくて優しくて、安心出来た。 「お前にストーカーの事ちゃんと話さなかったのも俺の責任だし、何より弱ってるお前に付け込んだのは俺の方なんだから」 「付け込まれたとかっ……俺はそんな風に思ってないです……っ」  蒼の腕の中で喬久は頭を左右に振る。喬久も子供では無いので嫌な事は嫌と言えるし、その一件で蒼との関係を続けられないと感じたならば認識の齟齬を擦り合わせる事も出来た。蒼の背中に回す事も出来た両手を喬久は敢えてふたりの身体の間へと滑り込ませそっと蒼の胸元を押し返す。  喬久から離れて欲しいという意図を汲み取った蒼は抱き締めていた腕から喬久を解放する。喬久は蒼のシャツを掴み俯いたままひとつひとつ言葉を慎重に選んで蒼へ渡していく。 「……蒼さんが、……俺の事どんだけ大切に思ってくれてるか、俺にももう分かってます」  蒼は優しいから、相手を傷付けないようにその場限りの社交辞令を言う事もあるかもしれない。しかし少なくとも自分と蒼の距離感は社交辞令で済ませられる程度の関係では無い事、他の誰かとの事など知る由もないが、自分の前に居る蒼はそこで社交辞令として心にも無い言葉で片付けようとする人間では無いという事を喬久は誰よりも一番良く分かっていた。  初めから蒼の言葉に嘘はひとつもなく、ストーカーが居たという事も、八雲に嫉妬したという事も、好きだと告げられた言葉も全てが紛れもない蒼の本当の気持ちだった。だからこそ蒼を信じきれなかった自分自身を一番許せない。蒼のシャツを掴む喬久の手に次から次へと涙が零れ落ちる。 「俺は何ひとつ蒼さんに返せてない……」 「返、さっ……」  咄嗟に喬久の両腕を掴む蒼だったが、潔癖過ぎる喬久が一度決めた事は中々覆さない厄介な存在である事を知っている蒼は言葉をそのまま呑み込んだ。決して見返りを求めていた訳では無いが、見返りを求めずに与えるものが愛であるという事を喬久が知るのはまだ先の事になりそうだった。  今この瞬間がふたりにとっての今後を決める大事な岐路である事は蒼にも分かっていたが、喬久のこの偏屈な思考回路を何とかしない限り先に進める気がしなかった。俯く喬久の顎に手を掛け上を向かせると目に浮かぶ涙が寝室のライトに反射する。実際返されても困るものではあるが、喬久がどうしても返したいというのならその願いを叶えてみせようと蒼の中にある悪戯心が僅かに疼く。 「――喬久がそう思うなら、納得出来る返し方、して貰おうかな」 「――あの、蒼さん」 「んー、なーに?」  蒼から求められた予想外の要求に喬久は感情の落とし所が分からず困惑しながらただ一定間隔で蒼の頭を撫でていた。  一方の蒼はそんな喬久の困惑などいざ知らずといった顔で、ソファに腰を下ろした喬久の腿に頭を乗せて満悦そうな笑みを浮かべていた。やけに上機嫌そうな蒼の表情とは裏腹に、喬久が想像していたものとは何かが違うような状況に承服しかねていた。ガラス製のローテーブルには幾つかの皿が並べられており、その上に盛り付けられた料理は部屋の主である蒼が作ったものでは無く、キッチンを借りて喬久が調理したもので色味は黒から焦げ茶色に偏り、見栄えもあまり良いものとは言えない。 「これは一体何なんでしょうか」 「恋人の膝枕でしょ?」  喬久の腿に頭を乗せながらその長い足はソファの手摺へと放り投げ、困惑の表情を浮かべる喬久の顔を見上げるとばちりと片眼だけを伏せてウインクを飛ばす。整った顔をした蒼から飛ばされるウインクは同性である喬久に対しても効果覿面で、明らかにからかわれているというのが分かっていながらも、ふたりきりの空間で自分だけに向けられたウインクには喬久の表情筋が妙な動きを示した。  蒼からの要求は喬久の手料理と膝枕だった。到底そんな事で返しきれるはずがないと思う喬久だったが、蒼がそれを望むのだから応じない訳にはいかなかった。喬久が当初予定していたものとは大きく異なっているその内容には躊躇いを隠す事が出来ないまま、もやもやとした気持ちを抱いたまま柔らかな髪質をした蒼の頭部を撫でていた。 「それとも喬久は」  言いながら蒼は腿の上で寝転がり喬久の腹側へと頭を傾ける。ぴくりと喬久が肩を揺らした原因は振り向いた蒼の片手が意図的なものであるかは分からなかったが、喬久の内腿の上へと置かれたからだった。喬久の微かな動揺を見逃さなかった蒼は横目で視線を送りつつもにやりと口の端を上げる。 「こういう事を――期待してた?」  置かれた蒼の手がそのまま腿の上を滑り、その指先が喬久の中心部へと触れる。これまで蒼に与えられてきた物事へ対する等価交換としてはそれ位の事しか思い浮かばなかった喬久だったが、蒼から望まれたその内容との差に自らの考え方の極端さを改めて知った。顔から火が出そうな程の恥ずかしさに喬久は思わず撫でる手を止めて両手で自身の顔を覆う。正当な恋愛の手順を今まで踏んだ事の無かった喬久は肉体関係以外の手段を知らず、ここに来て百戦錬磨ともいえる蒼との差が出るとは思っていなかった喬久は顔を隠したままソファの背もたれに体重を預ける。  布越しであるにも関わらず蒼の吐息が直接掛かってきているような気もして、嘘を吐けない喬久はこの期に及んでの悪足掻きは無駄であると悟り腹をくくる事に決めた。 「――期待していなかったって言ったら嘘になります」  両手で顔を隠し天を仰いだまま告げられる喬久の言葉に蒼の表情が和らぎ、腿の上に手をついたまま身を起こすと恥ずかしさの境地から顔を見せられない喬久の手ぎりぎりまで顔を近付ける。 「ほら喬久、手下ろして。ちゃんと顔見せて?」  言いながら片手は尚も喬久の内腿を撫で回し続ける。その触れ方には悪意しか無く、明らかに蒼は喬久追い詰める為に敢えてその行為をしており、自ら覆い隠した視界の中、蒼の言葉だけが喬久の得られる数少ない感覚情報としてゆっくりと喬久の中に浸透していく。  喬久の意志で手を下ろさせなければ意味が無いので、蒼は固く閉ざされた指の奥に居る喬久を見つめる。喬久の頑なな心を開かせる為ならば何時間でも粘る覚悟を持っていた蒼だったが、予想外にその機会は早く訪れた。細く開けられた指の隙間からは喬久の表情を窺い知る事は出来なかったが、ようやく気持ちが落ち着いた喬久は指の隙間を開けると同時にゆっくりとその手を下ろしていく。口は真一文字に結ばれており、それが恥ずかしさ故から噛み締めたものであるという事は蒼にも分かった。  勘違いや空回り、そんな憤死しかねない羞恥で限界なのだろうと感じた蒼は、それでも手を下ろし蒼へ真っ直ぐに視線を返す喬久を改めて愛おしいと思った。涙を流す姿も羞恥で耳まで赤く染まる顔も、いち上司と部下という関係の延長線上では決して見る事が出来なかった。手を下ろしたその頬へ指先で触れてみると見た目通りほんの少し熱い。このままソファに押し倒して今度こそは真正面から喬久を見詰めて、まだ奥に隠れた表情を声を晒してみたいと願ってしまう。蒼は今度こそ順序を間違える訳にはいかなかった。体勢を直し喬久の隣に座り直すと、喬久が下ろした片手を手に取る。こんな意味を持ってこの手を取る日が来るとは思ってもいなかった。しかしその衝動に駆られた今もう二度とこの手を離すつもりはない。  蒼の唇が喬久の指先に触れる。まるでそれは神聖な儀式の様にも見え、喬久の思考回路は真っ白になり機能を停止する。誰かを好きになるという事がここまで感情が揺さぶられるものであるという事を喬久は初めて知った。その感情がいつから存在していたのか明確には断言出来なかったが、自覚した時には既に蒼という存在が喬久の世界での中心となっていた。体中がやけに熱くて、込み上がりそうになる涙を呑み込み必死に堪える。  唇を離し、見上げた蒼の双眸が喬久へと向けられる。 「色々と順番を間違えてしまったけど、改めて俺と付き合ってくれる?」  偽装恋人の関係はお互いに本物では無い事を知っていた。それでも構わないと思えていたのは他でもない相手がお互いであったからで、危機が過ぎ去った時点で解消される関係である事も厭わなかった。相手の事を知る度、意外な一面を見る度少しずつ、恐らく自覚も無いまま小さな気持ちが芽吹き始めていた。  こんな感情は初めてで、喬久にとってはこんな言葉を言われる事も初めてで、想定もしていなかった状況に咄嗟の言葉も出てこなかった。しかし喬久が伝えたい想いはたったひとつだった。  一世一代の勇気を出して声を振り絞った。焦りと緊張で胃がひっくり返りそうだった。それでも喬久はもう逃げる訳にはいかなかった。後悔は二度としたくない、今度こそ自分の本当の気持ちを蒼に伝えなければならなかった。 「――宜しく、っお願いします」 了

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