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ミラー

「つわりなんじゃないの」  事もなげに呟かれたその言葉は、頭の中でぼんやりと考えていたものよりもずっと重かった。中身を全て空っぽにされた胃袋が、犬の唸り声みたいにぐるぐると不快な音を鳴らした。 「何それ、中出しされてないし」 「はは、中出しされちゃったら赤ちゃんできるの? 男なのに」 「………………」  ドアを開けっぱなしで便器に顔を突っ込んでいる恋人に対して、四郎は心配する素振りも見せず(それどころか揶揄までしてくる始末だ)洗面台に腰を預けたまま俺をつぶさに観察した。 「………見んなよ、こんなの」 「ドアを閉めないそっちが悪いんじゃないの」 「空気が籠って余計気持ち悪くなるんだよ」 「そうなんだ」  四郎はそれだけ言うと、今度は黙り込んだまま空を仰いで見せた。 まったく憎たらしいったらない。そもそも俺がこうなってしまったのだって、昨夜突然四郎が日本酒の入った一升瓶を片手に帰ってきたせいだ。そして四郎には珍しく「今晩で空けたい」などと言い出した。どうして急にそんなことを、と訊ねて見れば、会社の先輩の安産祈願、と返された。 「先輩の奥さん、さっき産気づいたんだって。お酒大好きな夫婦なんだけどさ、妊娠が分かってから夫婦揃って禁酒してるらしいんだけど、もう今夜が出産となったら応援するしかないだろ」 「おまえの理屈は理解できないよ」 「俺の理屈は、一度だっておまえに理解されたことはない」 「それは確かにそうだけど」  四郎はグラスをふたつ取り出してひとつを俺に渡すと、居間のソファにどかりと座った。渋々俺もそれに倣い、促されるままグラスを傾けると、夜は勝手に更けていった。明け方、四郎のスマートフォンに先輩から連絡が来て、無事に出産を終えました、と宇宙人だか子猿だか分からない(お世辞にも可愛いとは言えない)生まれたての赤ん坊の写真が送られてきた。一升瓶は空かなかった。俺は頭の鈍い痛みに襲われて、耐えがたい睡魔の為にすぐさま意識を手放した。四郎は隣で赤ん坊の写真を眺めながら熱の上がった頬をして、視線だけは涼し気だった。そして目覚めてからずっと、ご覧の有り様だ。  四郎はおかしな男だ。本人の話によれば幼い頃は、1足す1が何故2になるのか随分と理解に苦しんだそうだ。顔は悪くないけれど、女にはモテない。気味が悪いのだろう、今だって何故か俺の蹲る狭いトイレに入り込み、後ろ手にドアを閉めてご丁寧に施錠までしてしまった。 「なに、なんでドア閉めるの。冗談に付き合える余裕ないから、出て行って」 「まだ吐きそう?」  四郎は俺の背中に手を添える。普段よりそれが熱く感じるのは、俺の体温が下がってしまっているからだろうか。柄にもなく心配なんてしてくれているのだろうか、背中をゆっくりとさする手付きはいやに丁寧だ。 「………ねえ、心配してくれるなら、出て行けよ。落ち着かない」 「いや、別に心配はしてないんだけど」  は、と呆けた声がでる。あまりに心ない返答に半ば呆れながら振り返ると、予想していたよりもずっと近くに四郎の瞳があって、それから逃れる寸前にきつく顎を掴まれた。 「………………」  四郎の表情は変わらない。吐瀉物で汚れた口元から異臭を漂わせたくなくて、すぐさま口を噤んだ。すると四郎の湿った親指が唇を這い、かたく結んだそこに強く爪を立てた。 「いたッ………」 「口、開けてよ」  ぬるく滑った口の中に、四郎の指が無遠慮に押し込まれる。顎を掴んだままの右手の親指、そして左手の人差し指と、中指までが差し込まれた。抵抗する俺を他所に、それは無理やり入り込んで咥内を搔き乱し、俺は再び瞳いっぱいに涙を溜めて息を荒くした。そしてあろうことか四郎の指が、震える喉に触れた。 「ぐ、ぅ………っ」  胃が大きく痙攣する。空っぽになってしまった胃から、酸っぱい匂い粘液が込み上げた。霞んだ視界の中で、四郎が唇を歪めたのが分かった。そして指が引き抜かれ、代わりに四郎の舌が入り込んだ。酸っぱい生ゴミみたいな匂いを漂わせる中を、四郎はひとつひとつまるで神経質に、余すところなく点検するみたいに舌全体でなぞって舐め上げた。汚いよ、なんて言うのも馬鹿馬鹿しい。四郎は鼻息を荒くしながら大切に咥内を探って、冷や汗で湿った俺の肌に手のひらを這わせて、忙しなく俺の平たい胸の頂きを弄って、おまけにジーンズ越しでも分かるくらい、大きく勃起なんてしている。恋人にたらふく酒を飲ませて、身がやつれるほどに吐き出させ、その姿に興奮するなんてどうかしている。本当にこいつの理屈は理解できない。きっとそれは、いつまで経ってもそうなんだろう。  狭いトイレの中で四郎は額に汗の粒を貼り付けて、それでも絡め合わせた舌を離さずに性急な手付きで俺の下着に手を突っ込んで、興奮したように頬を痙攣させた。心の底から、四郎は理解しがたい男である。しかしそんな四郎の姿に、躰の中心を痛いほどに熱く隆起させる俺にも理屈があるのだとしたなら、それだってきっと誰にも理解されやしないのだ。

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