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第2話 1994年 ニューヨーク ブルックリン
赤茶色のレンガ造りの25階建てのビルが、中世の城壁のように何棟も並び立っていた。これらの建物群は「プロジェクト」と呼ばれ、ニューヨーク市住宅局(NYCHA)が運営する低所得者向けの公共住宅である。
俺は、そのビルの最上階にある2501号室の窓から、イーストリバーの向こうに広がるマンハッタンの夜景をじっと見つめていた。世界中の富が集まる街がこんなにも近くにあるのに、俺にはあまりにも遠い場所に感じられる。俺は、自分のこれまでの人生を振り返り、しみじみとした思いに浸った。
俺の祖父は、戦争が始まる一年前に日本から渡米した。異国の地へ向かうなんて、並々ならぬ勇気だったんだろうと俺は思う。冒険心に満ちた人だったに違いない。でも、俺には彼の記憶はほとんど残っていない。
ニューヨークのブルックリンでクリーニング店を始めた祖父、坂本吉三郎は、朝から晩まで勤勉に働き、少しずつ顧客を増やしていった。同じく日本からの移民で雑貨店を営む夫婦の娘、生方美子と結婚し、三男一女をもうけた。しかし、やがて太平洋戦争が勃発し、坂本一家も他の日本人移民たちと同様に収容所へ送られた。それまでに一生懸命貯めたお金も、クリーニング店も、顧客もすべて失ってしまった。
収容所での過酷な生活の中で、幼い子供たちのうち二人の息子を病気で失った。戦後、荒廃したクリーニング店に戻った祖父は、再び店を立て直そうと奮闘したが、収容所での生活が原因で肺を病んでしまい、以前のように長時間働くことはできなかった。生き延びた息子の洋一と娘の綾子は、両親を手伝っていたが、家計は厳しく、生活は困窮していた。隣に診療所を開いていた山田医師が坂本一家の面倒を見、祖父を無償で診療してくれた。当時の日本人移民たちは、強いコミュニティを形成しており、彼らの間での結束は非常に固かった。結婚も同じ移民コミュニティ内で行われることが多かった。山田医師の娘、信子も例外ではなく、吉三郎の息子、洋一と結婚した。
1987年にその洋一と信子の間に生まれたのが俺だ。俺が生まれた翌年に祖父が、さらに3年後に祖母が亡くなった。祖父は生涯、青森の故郷に帰りたいと願っていたそうだが、その夢は叶わなかった。
俺も両親も日本を訪れたことは一度もなく、日本という国を知るのは祖父母から聞いた話だけだ。でも、洋一と信子は日本人家庭で育ったため、日本語を話すことは問題なく、俺も日常的に日本語で会話をしていた。
祖父母が亡くなり、父は長年続けていたクリーニング店を閉め、同じ場所で日本食レストランを始めた。しかし、経済状況は改善されず、家賃が安い「プロジェクト」へと移り住むことになった。俺が6歳のときのことだ。
「夜は絶対に外に出ちゃいけないぞ、危ないからな。」
治安の悪い場所だと父に何度も言われ、俺は外に出ることを避けるようになった。特に夜、銃声が響くと、恐怖で身動きが取れなくなり、母と一緒に布団にくるまりながら眠った。
俺は高額な学費が必要な日本人学校には通えず、代わりに近所の公立小学校に通うことになった。それまでほとんど外で遊ぶことがなかったため、友達と呼べる存在は一人もいなかった。初めて足を踏み入れたその学校は、まるで「プロジェクト」と同じような、赤レンガの無機質な三階建ての建物で、どこか心が寒くなるような感じがした。
「くせえな。」
隣の席に座っていたまるまると太ったマイクが、鼻を押さえながらわざとらしく言った。重たい体を揺らし、さらに鼻をつまんでこう続けた。
「ジャップくせえぞ。」
マイクの取り巻きが、彼の言葉に追従して笑い声を上げた。
移民が多く住むこの街で、まだそんなことを言う奴がいるのかと呆れた。「プロジェクト」の住民のほとんどは中国人やインド人、ヒスパニック系、プエルトリコ人などの移民で、むしろアメリカ人の方が少ないくらいだ。俺は何も言わず、マイクを無視した。
学校が終わってすぐに家へ帰ろうとしたが、校門の前でマイクに待ち伏せされていた。
「お前みたいにスカしてる奴が、一番気に食わねぇ。さっさとこの街から出ていけよ。」
マイクはそう言い放ち、取り巻きに俺を押さえつけさせると、突然拳を振り上げて俺の顔にパンチを入れた。衝撃で眼鏡が吹き飛び、レンズが割れる音が聞こえた。続けざまに腹や顔に何度も打撃を受け、俺は痛みで意識がぼんやりとしてきた。
その時、不意に何かが動いた。スローモーションのように、誰かの長い足がマイクに向かって伸び、その顔面に鋭い一撃が入った。マイクの体がぐらりと揺れ、醜く歪んだ顔で地面に倒れ込んだ。
腫れ上がった目をなんとか開けてみると、そこには金髪を風に靡かせた美しい少女が立っていた。整った顔立ちと、その毅然とした佇まいに、俺はしばし見とれてしまった。
「げっ、アレンだ!逃げよう!」
マイクの取り巻きが慌てて倒れているマイクを抱え、走り去っていった。
「おい、大丈夫か?立てる?」
少女、いや、アレンが俺に声をかけてきた。
「うん…ありがとう。君は…?」
「俺はアレン。お前、プロジェクトに住んでるだろ?何度か見かけたことがあるんだ。」
「じゃあ…君も?」
「ああ、9階の901号室だ。」
その時、アレンが男の子なのかもしれないと思い始めた。外見は美少女のようだが、話し方や振る舞いがどこか男らしい。
「お前って、日本人か?」
突然そう聞かれ、俺は一瞬答えに詰まった。
「わからない。じいちゃんとばあちゃんは日本人だし、父さんと母さんもそう。でも、俺は日本に行ったことがないし、日本のこともよく知らないんだ。」
「そうなんだ。俺、柔道やってるんだぜ!柔道って日本のスポーツだろ?」
「だから君は強いんだね。」
「そうさ、俺は強い。でも、もっともっと強くなって、この場所を出ていくんだ。」
アレンの澄んだ青い目を見つめながら、俺は彼がその夢を叶えるだろうと強く感じた。
「俺の大親友もお前と同じなんだ。」
「同じ?どういうこと?」
「じいちゃんが中国から来たんだって。でも、チャンは中国に行ったことがなくて、自分が何者なのかわからないって言ってたよ。あいつ、ピアノがすごく上手いんだ。聞きにこいよ!」
アレンはそう言うと、俺の手を引っ張り、9階まで連れて行った。そこで、チャンと出会った。彼は、短い黒髪に切れ長の黒い目をした少年だった。
「アレンか。入れよ」
チャンは小声で言い、俺たちを自分の部屋に案内した。
彼が住む902号室は、俺の2501号室と寸分違わない間取りとインテリアで、まるで自分の部屋にいるような錯覚を覚えた。『プロジェクト』は、外観だけでなく、各部屋まで無個性なコピーのようだった。
ただ一つ、チャンの部屋には違いがあった。古びたピアノが置いてあったのだ。
「ゴミで捨てられていたのを父さんが拾ってきたんだ」
チャンの両親はブルックリンで中華料理店を営んでいるらしい。俺と似た境遇だ。
俺たちは、チャンの部屋で何時間もお互いのことを話した。俺は友達がいなかったから、自分のことを話すのも、人の話を聞くのも初めてだった。
アレンは自分の父親のことを「ハックルベリー・フィンの親父みたいなやつ」と言った。
ハックルベリー・フィンの親父がどんな人か俺には分からなかったが、とにかく飲んだくれのロクデナシらしい。母親はコールガールとして働いて生計を立てているが、ほとんど家にはいないそうだ。
「俺は、絶対に有名になって、金持ちになる!」
アレンは自信満々に言った。
「どうやって?」
「これさ!」
アレンはピアノを軽く叩いた。
「チャン、弾いてくれ」
アレンがそう言うと、チャンはピアノの前に座り、演奏を始めた。彼の小さな指から美しい旋律が紡がれた。
その音楽に合わせて、アレンが歌い始める。
なんて美しいんだろう。俺は、これまでこんなに美しい歌を聴いたことがなかった。
気が付けば、俺は涙を流していた。
後でチャンが教えてくれた。「アメイジング・グレイス」という歌だった。
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