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 飛んでいった傘の落ちていく先に人影がいたような気がして、しまったと思った。ついさっき、彼がオートキャンプ場を逃げ出したときの空は雲ひとつなく晴れていたはずなのに、今は濃い灰色の雲が重く垂れこめている。  ごうっと吹きつけた強い風に木々がざわざわとしなる。彼は荒い息をつきながらアスファルトを蹴った。ほんの一瞬までは、彼を追いかけてくる(かもしれない)人間に怯えていた。いまこの瞬間は、突風に奪われた雨傘が誰かに迷惑をかけるのを恐れている。  彼の生活はいつもこんな調子だ。最初はいい結果になると信じたことに怯え、自分がやらかしたことを恐れる。  友人の車でここまで来たときは気づかなかったが、アスファルトの道はところどころ陥没していた。スニーカーのつま先がひっかかって、彼は前につんのめった。  膝をついて、頭から転びそうになるのをなんとかこらえた。うつむいたまま、風に揺れる木の枝が彼をあざ笑うのを聞く。それにかぶさるように、叩きつける雨音のような大きな音が聞こえた。耳鳴りにしては遠い。膝をついたまま見上げると、空を覆う雨雲はさらにぶあつくなっていた。やはり耳鳴りだろうか。  立ち上がったとたん、傘がすぐ先に転がっているのが見えた。さっきはそこに人影がいたように思ったのだが、これも気のせいだったのか。  彼は傘をひろい、とぼとぼと歩きはじめた。しばらくのあいだは友人の車の音が聞こえるのではないかとびくびくしていたが、耳に響くのは木々のあいだをわたる風の音だけ。アパートの鍵とスマホは尻ポケットに入っている。しかしこのあたりは電波が入らない上に、スマホの電池は残り少なかったはず。そして財布が入ったリュックは友人の車の中だ。  どうしたらいい。友人が追ってきたら――  彼は想像をめぐらした。友人のことだ。彼に追いついてきたら、何事もなかったように車に乗せて「びっくりさせて悪かった」とか「そこまで怖がると思わなかった」というのではないだろうか。きっといつもの無邪気な笑顔をみせるにちがいない。  さっき逃げ出すことができたのは、友人が彼をみくびっていたせいだろうか? 抵抗するとは思っていなかったから?  彼は傘を握りしめた。たしかに彼も、あんなふうに襲われたとき、自分が闘えるとは思っていなかった。でも二度同じことができる気はしない。不意打ちで夢中だったからやれたのだ。  最初に出会った時は、こんなふうになるとは思わなかった。大学では他の学生と打ち解けることができず、いつもひとりでいた彼は、同学年の友人ができて嬉しかった。  それともこれは彼のせいなのだろうか。  友人に対して、微妙な違和感をおぼえることはあった。たまに彼をみつめる目つきや、彼のために便宜をはかろうと――押し通そうとするようなときに。友人の実家は裕福だったから、彼もいつしか、甘えてしまっていたかもしれない。  友人はその見返りを求めているのか。  見返りが必要な関係は友情ではないし、ましてや愛情ではありえない。おまけに友人は彼を脅迫しようとした。  これからどうしたらいい。後期の授業は来週からはじまる。  彼は歩きつづけた。下っていたはずの道がいつのまにか上りに変わり、少し先で大きくカーブしている。舗装はますます荒れて、木々の根元には掘り起こされたような跡がある。  来るときにこんな道を通っただろうか? 彼は不安に身をすくませ、後戻りするべきかと考えたが、足は惰性のままに動き続けている。  するとカーブの先に門がみえた。寺門のような屋根をいただいた大きな門だ。左右には巨木が立っている。寺か人家、あるいは集落の入口だろうか。  石畳の道が奥へ続いていたが、落ち葉ひとつなくきれいなものだ。人が住んでいるのなら電話を貸してもらえるかもしれないし、スマホを充電できるかも。  彼は石畳を踏んだ。ぬるりとした空気の層と雨の匂いが鼻をつく。急に心が落ちつき、なぜかもう大丈夫、安心だと感じた。彼は石畳を一歩進み、門をくぐりぬけた。  とたんに激しい雨の音が耳を打った。天から降りそそぐ雫が彼の髪を、肩を、スニーカーを濡らす。門をくぐる寸前まで持ちこたえていたのに、ついに雨が降り出したのだ。  彼は傘をさそうとして目を瞬いた。さっきまで手に持っていたはずなのに、どこへいった? 石畳の上を雨粒が飛び跳ねる。焦った彼も飛び跳ねるようにしてその上を走った。森の木が刈りこまれた低い生垣にかわり、その先に建物があらわれる。軒下に人がいる。 「すみません、あの……」  彼は軒下に駆けこみ、そこにいた人は彼のために場所を開けてくれた。これといった特徴のない顔立ちをした三十がらみの男だった。 「迷ったのか?」 (追われたのか?)  雨のせいか、気のせいか。男の言葉は彼の耳にだぶって響いた。 「はい、ええ、そんな感じです。あの、タクシーを呼んでもらえないでしょうか。スマホの電池が切れてしまって……」 「今日はもう来ないよ」  男はあっさりいった。 「タクシーは予約制だし、今日はもう遅い。おまけにこの雨だ。ふもとまで送ってあげられるといいが、車は全部出払っていて、明日にならないと帰ってこない」 「え……そんな」 「大丈夫、泊っていくといい。ここは迷い人のための宿だ」 「……でも僕、今はお金もなくて……」 「大丈夫だ。こっちへ」  自然な手つきで背中を押され、彼は軒下から建物の中へ入った。古めかしい旅館のような建物だった。彼は濡れたスニーカーを脱ぎ、男のあとについて板張りの廊下を進んだ。  彼の髪からはまだ水が滴っているし、濡れた靴下が板張りを踏んでいるのに、男は気にするそぶりもみせない。彼は和室に通されたが、服も髪も濡れたままで、畳に座るのをためらっていた。すると男が今度は小さな湯飲みを手にやってきた。 「あの、タオルを貸してくれませんか。畳が濡れちゃって、すみません」 「ああ。待って」  男はそっけない声でいい、彼に湯呑を渡して襖を閉じた。彼は小さくため息をついたが、渡された湯呑からはいい香りがする。誘われるように口をつけ、暖かくて香ばしく、かすかな甘みのある液体を一気に飲んでしまった。とても美味しかった。  急に落ちついて、濡れていることが気にならなくなった。彼は尻ポケットのスマホをひっぱり出し、畳に座った。電源を入れようとしても充電不足だ。真っ暗な液晶画面を眺めていると頭の奥がやけにくらくらしはじめ、彼の意識も真っ暗になった。  気がつくと彼は全裸で夜の中に横たわり、雨にうたれていた。  目にうつるのはとろりとした柔らかな暗闇で、手足は縛られているかのように動かず、起き上がることもできない。しかし降りそそぐ雨は糸のように細く、温かく、優しかった。  しずくはゆるゆると彼の体にまとわりつき、耳の裏や首筋、胸元から腋の下、股間から尻の方へと垂れていく。太腿、つま先、足の裏……まるで彼の体のすべてを知ろうとしているかのようだ。  唇の隙間から入りこんだしずくはほのかに甘く、もっと飲みたいと思わせた。彼は思わず口をあけ、落ちてくる雫を受けとめた。体が熱を帯びるのを感じ、耳の裏をくすぐる雨のしずくを意識する。胸のとがりをしずくが愛撫して、股間に熱が集まってくる。それでも手足は動かせず、彼は呼び覚まされた快楽に身もだえして、横たわったまま熱い息をもらした。雨はそんな彼の喉に流れこんでいく。  ――ハッとして目が覚めた。  彼はまた暗い場所にいた。背中に当たるのは乾いた布団の感触で、顔の上を覆っているのも柔らかな寝具だ。  雨の音は聞こえない。夢をみていたのだろうか。  布団は乾いているのに、なぜか濃い水の匂いがする。いやな匂いではなかった。むしろかぐわしく、ほのかに甘い。夢見心地のまま、彼の体は奇妙な期待でうずいた。  ふいに上にかけられていたものがはぎとられた。  真っ暗だ。何も見えない。その中で見えない手が彼を触り、雨で準備された彼の体はその手に応えた。右の胸のとがりに熱い舌が吸いつき、左は強くつままれる。  喉の奥から声があふれそうになったとき、唇を覆われた。胸を愛撫するのとは別の舌が彼の口腔に入りこみ、歯のあいだをはげしく嬲る。気が遠くなりそうな一瞬のあと、何者かの手が股間に触れた。とっくに堅くなっていた陰茎をゆるくしごいてから、彼の腰をもちあげる。  唇がいつのまにか自由になっていた。彼は腰を抱きかかえられて、いまだに顔の見えない何者かの膝の上で、誰にも触らせたことのない場所をまさぐられている。 「はぁ、なに……あっ……」  温かい雨に解かれたおかげでそこはすでに湿り気をおび、熱く蠢きながら中をさぐる指を受け入れた。指は彼も知らなかった快楽の場所をすぐに突きとめ、そこに触れられたとたん、彼の意識の遠くで白い星が砕け散った。 「あ――あ、はぁ、ああ…」  そのまま一度は萎えかけていたところを擦られる。射精の瞬間も彼の腰は太い腕にがっしりささえられ、余韻を感じる暇もなく、今度は尻のあいだに熱く太いものが押し当てられる。  下から突きあげられたとたん、また水の匂いがした。太い楔につらぬかれたまま、口をしっとりと湿った唇におおわれる。ずくん、ずくんと突き上げてくる快楽は雨音のような律動となり、そのたびに彼は、自分の身体からとろりとした甘い水が零れるのを感じた。水は彼の太腿をつたい、ふくらはぎからつま先へと流れていく。  楔がずるりと抜けていったとき、彼はすっかり放心していた。しかし解放はほんの一瞬で、今度はうつぶせで腰を抱えられている。今度彼に押し入った楔はさっきとはちがう形をしていて、律動は嵐のさなかの雷のように不規則だった。 「ああん、やっ、はぁ、あん、あん……」  彼の両足はすでに溶けたようになって、感覚も忘れそうなものなのに、楔を打ちつけられるたびに電撃のような快感に我を忘れる。うつぶせで柔らかな寝具に顔をおしつけていると、別の手が彼の頭をそっと持ち上げ、ひたいや目尻、耳の裏を愛撫する。  次を待っているのだと彼は思ったが、嫌ではなかった。このために自分はここへ招かれたのだ。背中に覆いかぶさる重みが消えたと思うと、彼は強い力で抱き寄せられている。今度は洪水に流されるようだった。仰向けになって両足をひらき、両手をひろげて彼を抱く何者かの背に回す。太い楔が動くたびに水音が響き、彼の声と混ざりあった。  目覚めると朝になっていた。  彼は浴衣を着て布団に横たわっていた。体は妙にだるいのに、頭はやけにすっきりしている。  起き上がった瞬間、夢を見た、と思った。いい夢だった。それは覚えている。それにそう、雨が降っていたような。  枕元にたたんだ服が置いてあった。乾いていて清潔な匂いがする。いつの間に洗ってくれたのだろう。アパートの鍵とスマホもその横に置いてあった。ためしに電源を入れると、これも充電してくれたらしい。何から何まで申し訳ないと思いながら着替えて部屋を出ると、昨日の男がいた。 「よく寝ていたな」 「はい」  彼はそう答えてから、いつ眠ったのかも覚えていないことを恥ずかしく思った。 「すみません、服も乾かしてもらって」 「いや。車でふもとまで送ろう」  おにぎりと卵焼き、それに味噌汁。男は簡単な朝食まで出してくれた。スニーカーも洗いたてのようにきれいになっている。  昨日とうってかわって外は晴れていた。青空には綿菓子のような白い雲がちらほら浮いているだけ、灰色の雨雲はどこにもない。 「どうもお世話になりました。あの、あとでお礼を送りますので、連絡先を……」 「いや、世話になったのはむしろこっちのほうだ。あんたが来てくれてよかった。最近雨が多すぎたからな」  いったい何の話をしているのだろう。彼は不思議に思ったが、聞き返すのも間が抜けている気がしてあいまいにうなずいた。  男のあとについて石畳を歩き、門をくぐる。その瞬間、かすかな水の匂いが彼の鼻をくすぐって、すぐに消えた。 「ふむ。おひとりついて行かれるか」  彼には男のつぶやきは聞こえなかった。門の外には車が待っていた。  男はふもとのバス停で彼を下ろして、また山道を戻っていった。そのころになってスマホの電波がようやく入ったが、彼は着信件数をみてぎょっとした。きっと友人にちがいない。メッセージも何件も入っているが、見る勇気がない。  迷っていると路線バスがやってきた。一日に二本しか走っていないバスだ。ひとまずスマホをマナーモードにして彼はバスに乗った。財布がなくてもスマホがあれば家に帰れるのはありがたい。ようやく駅にたどりつき、改札を通って、スマホは尻ポケットに入れたまま無視することにした。  やっと最寄り駅までたどりつき、彼は一人暮らしのアパートまでいつもの道を歩いた。そのあいだもメッセージは増えていく。 『大丈夫か?』 『心配してるんだ』 『昨日のことは気にするな』 『カバンはこっちにある。財布も持ってないんだろう? 連絡して』  カバン。彼はびくりとした。あれは返してもらわなければ。でも今はまだ、友人には会いたくない。  そう思ったとたん着信が入った。  液晶に表示された名前を見つめたまま彼は一瞬動けずにいたが、我にかえって歩きはじめた。スマホは握ったまま、最初は小走りで、次第に本気で走りだし、アパートの階段をかけのぼる。  二階の通路から道路を見下ろしたとき、友人の姿がちらりとみえた。階段の方へ向かっている。彼はぎょっとしたが、これは心のどこかで予想していたことでもあった。こんなときにかぎって、鍵穴に差しこもうとした鍵はするりと指先から飛び出して足元に落ちる。  あわてて鍵を拾ったとき、通路の端に友人の姿が見えた。彼は手元に意識を集中し、今度こそ鍵をあけた。ドアを開いたとき、彼の名を呼ぶ声が聞こえた。思わず顔を向けて後悔した。友人と目が合った。  硬直した彼の顔をみて、友人は笑った。いつもの笑顔だ。一見人のよさそうな、無邪気な笑顔。  彼はアパートの中に飛びこんだが、友人はもうそこにいて、ドアの把手を握っていた。 「カバンを持ってきた。連絡がないから心配したよ」  彼の口はカラカラに乾いていた。ほんの一瞬、何事もなかったように話をすればいいのではないか、という考えが浮かんだ。友人を中に入れて、カバンを返してもらい、落ちついて話をすればいいのではないか。  小さな悲鳴があがったのはその直後だった。  悲鳴をあげたのは彼ではない。ついでドアがバタンと閉じた。彼はびくっとしたが、足をひきずるような音がドアの外で聞こえているあいだはその場にじっとしていた。いや、むしろ動けなかったという方が正しい。  外が静かになってから、彼はやっとドアに手をかけ、すこしだけ開けてみた。何かにひっかかったと思ったら、通路に落ちていた彼のカバンだった。彼はさっと手を伸ばしてカバンを回収した。元の通りだ。財布はもちろん、なくなったものはない。  友人はどうしたのだろう? わけがわからないまま彼は鍵をかけ、チェーンもかけて部屋に戻った。なんだか妙に体が熱い。なぜ自分はこんなに興奮しているのだろう? 友人を追い返せたから?  彼は窓を開けた。濃い水の匂いがした。雨が降る前の空気に似ているが、空は晴れ渡っている。彼はカーテンを閉めると服を脱いだ。なぜそうしたかったのか、自分でもよくわかっていなかったが、そうしなければならないと思ったのだ。  浴室でシャワーを浴び、ぬるま湯を頭からかぶって、ボディソープで体を洗う。きめ細やかな泡で体をこすりはじめたとたん、水滴が意思を持つようにうねうねと肌の表面を蠢きはじめた。彼は目を閉じ、息を吐いた――いったい何が起きているのだろう?  ろくに体を拭かないままベッドに横になる。目を閉じると何者かがのしかかってきた。濡れた股間を這う舌のぬめぬめとした感触に続いて、締まった蕾の奥へ指が差しこまれる。 「ぁ、あっ―――はぁああん……」  瞼のうらで夢で経験したものと同じ快感の星が炸裂し、長い余韻が尾を引きながら飛び去った。そのあいだも彼を抱く腕は力をゆるめず、彼はゆっくりと押し入ってくる楔の太さを感じながら、両手を広げて自分にのしかかる重みをぐっと抱きしめる。  ここまで来てくれたのだ、頭に浮かんだのはその一言だった。  これは彼を守るためにここまで来たのだ。 「あっ、ああっ、あ、あ、あああああ――」  彼は背中をそらせ、甘い水が自分の身体からあふれるのを感じた。雨の匂いがして、屋根を叩く雨音が響いた。快楽に酔う彼の耳には、ついさっき起きたことをすべて忘れさせてしまうような慰撫の音に聞こえる。  彼のアパートの周辺に時ならぬ大雨が降りそそいでいることを、ベッドでまどろんでいる彼自身は知る由もなかった。  それからの彼の毎日は、これといって変わったこともないまま続いている。  もっともそう思っているのは彼だけかもしれない。一限に間に合うために乗った満員電車で、彼に痴漢しようとした中年男は急に青ざめ、次の駅に停車したとたんに飛び下りていく。彼は気づかない。過去には満員電車でよく痴漢に遭遇していたが、最近はとんとそんなことがないのだ。  大学の学食で友人とすれちがうと、相手はぎょっとした顔で彼をみて、腫れ物にさわるようにおそるおそる挨拶をしてくる。彼はふつうに挨拶をかえすが、友人はほっとした顔で去っていく。どうしてあんな顔をされるのか、彼にはさっぱりわからない。  べつに困ったことはない。彼を囲む人間たちはみな親切だが、彼は誰とも親しくならない。  帰り道はいつも、どんなに晴れていても、水の匂いがする。ときおり彼の耳の中で雨の音が響く。きっと空耳、あるいは耳鳴りだ。  彼にとってはどうでもいいことだった。耳の底で響く雨の音に彼は安心する。時には興奮することもある。そんな夜、夢の中で、彼は雨に抱かれるのだ。  誰にも話したことはない。一生、誰にも話さない。

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