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四十三哩(恋する日々は喉が渇く)

 海のむこうで戦争が始まった。      ♂ 春の日のクラス写真でぼくだけがどこをみているのかわからない      ♂  結論からいうと、ぼくは留年した。出席日数/単位不足。一年生をもう一回。元同級生たちからぼくの噂は伝わって、一コ下の新同級生たちは、さわらぬ気狂いに祟りなしと思ったようだった。誰も近づいてこなかった。  購買部で買ったパンを手に提げて、チェーンを跨いで地下廊下へおりた。そこは教材室や薬品室があるために立入禁止で、いいことや悪いことにはもってこいの場所だった。くぐもった声と、鈍い音。ぼくは廊下の先を曲がった。  四人が一人を囲んでいた。青い上履きで寄ってたかって蹴る。リンチだ。ぼくの右耳でマルケヴィチのカンターテ。不協和音のオーケストラ。ソプラノがフランス語の詩を切々と訴える。〽Je saigne(血を流す), saignent mes mains(わが手は血を流す), saignent mes yeux(わが眼は血を流す), saigne ma bouche(わが口は血を吐く), et mes cheveux(そしてわが髪), mon sang comme des cheveux(わが髪のような血が)……。  暴行られてるやつの右の膝下が、もげた。ふっ飛んで、ぼくの足もとへ転がった。びびった。チタン合金と強化プラスチックの塊――義足か。ターミネーターのパーツみたい。それがショートソックスと上履きをちゃんと着けているのが恐ろしくシュールだった。その上履きのゴムの色は黄。ぼくと同じ。つまり、ぼくの新同級生ってことだ。  蹴ってる一人は、元クラスメイトの天野克浪だった。やつらはぼくに気づいて、ぎょっとした顔。だてにジャンキー・チェンと呼ばれてるわけじゃなかった。ぼくはにやりと笑って、火災報知器の[強く押す]ボタンを叩き割った。機械仕掛の蝉が騒ぎだす。やつらはダッシュで退散していった。  ぼくは屈んで右足を拾いあげた。それなりの重量感。持ち主にさしだしてやる。やつは無言で受けとってズボンの萎んだ片裾をまくる。その短い膝下の断面はつるんと丸くなっていた。そこに透明なうつわ状の装着部を嵌める。吸盤のようにくっついた。  ソプラノが歌う。〽Je saigne par amour(愛ゆえに血を流す), sans que personnes(誰ひとり救護に) élance à mon secours(急ぐ者はなく)……。どこかで見たような面長、赤茶色の団栗眼(どんぐりまなこ)。何かいわれるのを待っているふうだ。頭がちっちゃい。面長でダックスフントっぽい。それも、あんまり利口じゃないやつ。もみあ毛がルパン三世みたいだと思って、記憶が甦った――あゝ、葛󠄀城力の腰巾着くんだったやつだ。そういえば、あのときから足をひきずっていたっけ。 「きかねえの?」面長が口を利いた。やや甲高い声。「おれの脚のこと。それ、どうした、って」 「おまえ、いつもきかれんだろ、そうやって」 「うん」 「もう、うんざりしてんだろ」 「そうなんだよ」 「だと思った」  破顔一笑する面長。ちょっぴり魅力的な笑み。  ぼくは静かに立ちあがり、その場をあとにする。面長が何かいった気がするけど、非常ベルでよくきこえなかった。この再会を、ぼくはなんとも思ってなかった。  でも、この一回きりじゃ終わらなかった。      ♂  あくる雨の昼休み、教室で金城一紀の直木賞受賞作を読んでいると、机の横に誰かが(たたず)んだ。どっかで見た面長。あの義足のダックスフントだ。鼻の頭にピンクの絆創膏。ぼくはすぐ立てるように椅子を後ろへひいた。やつは困ったように笑って、ぼくの前の席の椅子に跨って背凭れをかかえた。 「あんた、北浦タツヤってんだろ」  ぼくのことをリサーチ済みなのか。ぼくはやつの目を凝視した。やつは刹那怯んでから、笑顔を立てなおし、手を差しだす。 「百瀬(ももせ)(あらた)です。よろしく」  ぼくは手を無視して、そいつの目ばかり見た。百瀬は促すように手を振る。 「握手」 「断る」 「えー」  ぼくは机を蹴った。「エーじゃねえよ。うぜえんだよ。消えろ」  百瀬は目をうっすら潤ませ唇を尖らせる。そういうしぐさはかわいい女の子がすべきだ。その他大勢は無関心を装いながらきき耳。無言の期待が肌に痛いくらい。百瀬はいう。 「おれのこと、おぼえてるよね」 「きのう会った」 「そうじゃなくて、中学で……」  いいふらされたら面倒だな、と思った。「忘れた」 「あ、おぼえてるんだ」百瀬はへらへら笑った。「ねえ、ねえ、メアド交換しよーよ」  ナンパか? なんだこのチャラいノリは。おれは慎ましくいってやる。 「ケータイはない」 「うっそぉん。またまたぁ。おれにメアド教えたくないからって」 「わかってんなら失せろ、カス」 「うーん、ガード堅いって萌えるぅ」  無性にいらついた。「あのさ、おれ、おまえの一コ上。敬語つかえよ」 「留年した分際で?」 「てめえの脚、左もぶった切ってバランスよくしてやろうか」  こえー、めっちゃこえー、と百瀬はへらへら笑ってる。ぼくは人差指と中指を立てて、やつの赤茶の目ん玉めがけ突きだした。百瀬はのけぞって後ろの机を傾ける。しぶとく笑顔。 「じゅーう、きゅーう、はーち、ななー、ろーく、ごおー、よーん、さーん……」  ぼくは大声でゆっくりとカウントダウンしながら席を立って椅子の脚を握った。百瀬は慌てて充分な距離を確保した。 「わかった。きょうはご機嫌ナナメなんだな。またでなおすから……」  キレた。ぼくは椅子をぶん投げた。それはノータリンのダックスフントを逸れて、スチール扉に激突。百瀬は逃げだした。当たればよかったのに。      ♂ 完璧なカーヴを描く速球に搭載された雑な魂      ♂  境木町(さかいぎちょう)の竹宮朋代の家は、歯科クリニックと一体になった豪邸だった。矢嶋健の家といい勝負だ。二十帖のリビング。ぼくは薬の副作用のうえに緊張でさらに震える指で、マイセンのカップを持った。アールグレイは香りが苦手。竹宮に似た品のいい母親が、面接かってくらい質問を繰りかえす。趣味は? 家は? お父さまのご職業は? 学校は? ぼくは学校名はごまかした。工業高校で、しかも留年しているなんていったら、この人は卒倒するかもしれない。  リビングにはアップライトピアノがあった。話題を変えたくて、ぼくは竹宮にいう。 「モヨもピアノ習ってたの?」 「小学生までね。すきじゃなかったけど」 「ちょっと弾いていい?」  竹宮は鍵盤蓋をあけて、カヴァーをはずした。ぼくは椅子の位置を調節して、弾きだした。サティ《ジュ・トゥ・ヴ》は元はシャンソンだけど、ピアノ版のほうが有名だ。ひねくれ者のエリック・サティにしては素直で、気持ちのいい曲調だった。  弾いてる途中で、クリニックから竹宮の父親が顔をだした。あわてるぼくに、そのままそのままというふうなしぐさを父親はする。ぼくは終いまでサティを弾いた。父親は拍手した。 「いやはや、またロマンチックな曲を弾くね。この曲の歌詞は知ってるかい?」 「女性版と男性版があるんですよね。とこしえに抱きしめあって、同じ炎に身を焦がそう、愛の夢のなかで、ふたつの魂を交換しよう」 「詳しいね。きっと、優秀な学校に行ってるんだろうね?」  いいえ、とぼくは愛想笑いした。 「なんか、パパとママがごめんね。わたしはタツヤ大すきだから」  竹宮は玄関の外まで見送りに来てくれた。ぼくは頬笑んだ。竹宮の両親がどう思おうが、この子がぼくを好いてくれるなら、それでよかった。  でも、かぐや姫は、いつか人の心を失くして、月へ帰ってしまうのだ。  境木町の閑静な住宅街。誰かに見張られている気がして、ふりかえった。春の夕暮れの道には、誰もいない。病気の注察妄想のせいだ、と思った。ぼくは頭を振って、家路を急いだ。西へ。      ♂ 左折して左折して左折してみれど尾行してくる悪女はいない      ♂  雨。つぎに現れたとき、百瀬は楽器ケースと小型アンプを携えていた。黒い布ケースからとりだしたのはギター……じゃない。弦が四本しかなくて、(ネック)が長い。ベースだ。ぼくの前の席に横座りして、アンプを調整し、黄色いエレキベースをヴェンヴェケいじる。ぼくは無視して、本の続きを読んだ。 「あんた、ピアノ弾くの」  ぼくはじろりと睨んだ。百瀬はぼくのネクタイを指差す。真珠を挟んだピアノ型のタイタック。 「弾かない」 「楽器やったことは?」 「ない」 「ギター弾く気ある? あんたの手、きっと向いてるよ。おれ、軽音部入ろうかと思ってて。一緒にどう?」 「いやだ」 「あんた、やさしいね」 「は?」 「返事してくれるじゃん」  ぼくは舌打ち。完全無視すればよかった。百瀬はエイトで刻みながら、ヴェンヴェケヴェケヴェケとGreen Dayを奏でた。けっこう巧かった。ぼくは気になって本が読めなくなった。百瀬は笑う。 「メアド教えてよ」 「いやだ」 「おれの足の話、ききたくない?」 「知らなくてもいいことは、なるったけきかないようにしてる」 「えー」 「エーじゃねえよ」 「ほんとはききたいでしょ」 「なんだよ、そんなに話したいのかよ」 「うん」 「じゃ、勝手に話せ。きき流すから」  ぼくは両耳に人差指を突っこんだ。 「せめて耳の穴はあけといてよ」 「あけてください、だろ?」 「きこえてんならいいや。オフクロの彼氏がボーイスカウト出身でね、子守りが面倒だからってタンスの金具に足を縛っといたの、ひっぱると絞まるような縛りかたで。ばあちゃんが様子見に来てくれたときは、おれの右足は変色して、壊死してた。三歳のときだからよくおぼえてないけど」  百瀬はへらへらと笑ってた。ぼくは顔をしかめた。 「まあ、そういうわけで片足は不自由なんだけど、おかげで女には不自由しないんだ」 「どうして」 「女って同情すんの大すきだろ。泣いてあげちゃうアタシやさしー、みたいな? このあいだも、そのせいでフクロにされたんだ。やばい彼氏いるくせに、アタくんかわいそー、とかいってのしかかってくんだもん。べつに、おれがいい寄ったわけじゃないんだぜ。ま、せっかくだから、おいしくいただいちゃったんだけどさ」 「おまえは頭とチンコも不自由なんだな」  ぼくはせせら笑った。なぜか百瀬はうれしそう。 「あんた、ドS? おれとSMごっこしない?」 「何、おまえ、ホモなの?」  ぼくはひいた。百瀬は胸を張る。 「おれはバイです」 「バイ?」 「バイセクシャル。女も男もすきなの」  そうか、バイというカテゴリーもあるんだ、と思った。「あっそ」 「アッソって何よ」 「どうでもいい。とにかく、おれに迷惑かけないで。おれはおまえすきじゃないから。趣味のことはおまえの部屋でやってくれ」 「自分だって同類のくせに」  ぼくは困惑した。どういう意味だ? こいつはぼくの何を知ってるんだ? 百瀬は意味深に笑う。 「ねえ、一回さ、女装してみてよ。あんたの顔、めっちゃ化粧映えすると思うんだよ。こんど、メイクうまい女の子よんで、やってあげるからさぁ。なあ、いいでしょ」 「高いぞ」 「いくら」 「十億」 「せめて一万円にならない?」 「じゃ、この話はナシだ」  百瀬は唇を尖らせる。「おれがバイになったの、あんたのせいもあるよ」 「は?」 「あんたのアレ握ったとき、すげえときめいちゃって、気づいたの」  悪寒が走った。「それって、おれのせいなの? 葛󠄀城のせいじゃねえの」 「まあ、あの人の影響はでかいよね。あの人、自覚はなかったみたいだけど、ホモだよ。ションベン飲めとかいってきて」 「飲んだの?」 「飲めるわけないじゃん。吐いたよ。そしたらコンパスで太もも滅多刺しにされて。痕、残ってるよ。見る?」  ぼくは首を振った。百瀬は笑う。 「おれんちの隣があの人んちの酒屋でね、オフクロはいつも飲んだくれてたね。当然、小学校も同じでしょ。坂本小。オフクロはぜんぜん守ってくんないし、家でも学校でも逃げ場がなかったね。あの人がつきまとってるから友達もできないし。一番つらかったのが、あの人がウサギ小屋の子ウサギ持ってきて、窓から投げろ、さもなきゃおまえが飛び降りろっていってきたとき。おれ、投げちゃったんだ。四階の窓だから、死ぬよ。おれ、いまだに小動物みるのがつらいよ。そのくせ、あの人、おれたち友達だよなって、おれの手握って泣いたりするんだ。わけわかんなかったけど、あの人もかわいそうな人なんだよね。あの父親だからね。あの人が先に中学あがったときはホッとしたね。少なくとも学校にいるあいだは安全ってことだから。自分が中学にあがるときは、首吊ろうかと思ったよ。でも、なぜか吊らなかった。たぶん、こわかったんだね。でも、あの人があんたに執着しだしてから、おれは構われなくなって、地獄から解放されたんだ。あんたは恩人だよ」 「おまえの境遇は気の毒だったけど、おれには関係ない。SMごっこは女としろよ」 「でも、あんたもホモなんでしょ」  一瞬、返答に詰まる。「彼女いるけど」 「じゃ、バイか。おれと一緒」  百瀬は決めてかかる。ぼくは追いつめられるような息苦しさを覚えた。百瀬はベースをグリッサンドで弾いて、にっこりと笑う。 「数少ないお仲間なんだからさ、仲よくしよーよ」      ♂ ひゃらひゃらないいわけばかり口にする同級生の黄色いベース      ♂  百瀬はぼくの席に日参した。話しかけられると性分として無視することも難しくて、相手をした。雨の放課後、ベースを担いで百瀬はいう。 「うちのばあちゃん、松原商店街でラーメン屋やってんだ。食べ来てよ。割引きするから」 「十割引きなら行く」 「いいよ」  百瀬はあっさりといった。ぼくは意地悪をいう。 「先輩二人呼んでも?」 「うーん、まあ、今回だけね」  ぼくは遠慮なく目黒秀気と白鳥雄飛を呼んで、その店に押しかけた。らーめん孫悟空。四坪ほどの小ぢんまりした店内。男が四人ならんだら、カウンターがいっぱいだった。  百瀬のばあちゃんの麻子(あさこ)さんは、骨ばった夏木マリって感じの人だった。若いころは美人でとおったろう。 「うちのアラタは、女の子はしょっちゅう連れてくるけど、男の友達つれてきたのは初めてだね。仲よくしてやってね」  嫌です、ともいえず、ぼくは愛想笑いした。目黒が百瀬にきく。 「おまえって、もしかしてデザイン科?」 「そーなんすよ。クラスに男がおれだけなんで、日々虐げられてるんすよ」  目黒にはきちんと敬語なのがむかついた。目黒はいう。 「女、紹介しろよ」 「じゃ、メアド交換しましょ」  目黒はケータイを渡した。百瀬は慣れたふうに自分のアドレスを打ちこんで、空メールした。やめたほうがいいのに、とぼくは思った。  ラーメン丼が四つ置かれた。東京風の澄みきった醤油スープだった。ちぢれ麵をすすって、雄飛がいう。 「あっさりしてて、でもうまいっすね。鶏ガラですか」 「鶏もだけど、豚のゲンコツや背脂もね。ダシの配合は死んだじいさんの秘伝だよ」  ぼくもレンゲでスープをすくった。とびきりうまいってわけじゃないが、しみじみといい味だった。  ただでご馳走になるのが申しわけなくなって、ぼくらは丼を洗い、カウンターをふいた。ごちそうさまでした、と三人で頭をさげる。はい、ありがと、また来てね、と麻子さんは笑っていた。      ♂ 丼の雷文ちぢれ麵の渦ぼくらの日々は迷路のように      ♂  百瀬は放課後もつきまとうようになった。恒例のバッティングセンター。ぼくの後ろの百瀬を見て、目黒はうんざり顔。 「またそいつ呼んだのかよ」  ぼくは片手を振った。「呼んでません。勝手についてくるんですよ」 「ウラ先輩がすきなんで」  百瀬は臆面もなくいった。目黒は無い眉をしかめた。 「おまえ、ホモかよ。ホモ瀬だな」  雄飛がうけた。この人って笑い上戸だ。  二十一球、三〇〇円。ぼくと目黒と雄飛は百円ずつだしあって、交代でバットを振った。義足の百瀬は見ているばかり。でも、なんとなくそこにいるだけで面倒くさかった。それはぼくら三人に共通の感覚だったと思う。  全額奢らせるぞと脅したのに、百瀬はガスト保土ヶ谷駅前店にもついてきた。ぼくらは遠慮なくステーキやハンバーグを頼んだ。百瀬は水だけだった。ぼくはなんだかいらいらした。 「おまえ、もうついてくんなよ」  目黒がいうと、百瀬は悲しげな顔。 「紹介した子、だめでした?」 「そういうことじゃねんだよ。なんつうか、こう、もっと気の合うやつと遊べよ」 「あのな、なんかさ、おれらがおまえいじめてるみたいで、いやなんだよ」  雄飛がぼくのいらだちの正体をいい当てた。百瀬が急にぼろぼろと泣きだす。ぼくらはぎょっとした。 「だって、先輩たちは人間あつかいしてくれるじゃないすか。おれ、家でも学校でもずっとイヌ以下だったんす。帰ればオフクロは飲んだくれて男つれこんでるし、学校いけばあの人に使いっ走りにされて一緒くたで鼻つまみ者だし。女は同情はしてくれるけど、それはペットと同じなんすよ。おれ、やっと人間になれたのに」  しゃくりあげる百瀬に、店内の衆目が集まっていた。非常に居心地が悪かった。目黒がいう。 「キ印、なんとかしろよ。こいつはおめえを慕ってんだぞ」 「おれだって友だち選ぶ権利はあんすよ。いやですよ、こんなキモいの」 「キモいはひどいだろ」 「こいつ、女装してくれとかいってくんですよ。キモいですよ」 「それはキモいな」 「でしょ」 「ホモ瀬、それはキモいぞ」  目黒は諭す感じにいった。 「ウラ先輩、女装するとすんげえかわいいんすよ。ほら」  百瀬は(はな)をすすって、財布から何かをだした。ブロマイドのようにパウチされた写真、中二の文化祭のときの女装でステージで踊ってるぼくだった。ぼくは百瀬の頭をはたいた。 「なんでそんなもん持ち歩いてんだ。キモっ」 「だって、かわいいでしょ?」  雄飛が写真を手にした。「あー、なるほど」 「納得しないでくださいよっ」  ぼくは叫んだ。目黒は困ったようにいう。 「とにかくだな、キ印は女装は無理だっつってっからな。そこはわかってやれよ。な?」  百瀬は両目をごしごしとこすった。「女装はあきらめます。でも、ウラ先輩はすきなんで」  ぼくはため息をついた。面倒くさい。途轍もなく面倒くさい。      ♂  ぼくは交換条件をだした。軽音部につきあう代わりに、ぼくの前に現れるのを二日に一回にしろ、と。 「やっぱ、あんた、やさしいね。十日に一回とかいわないもんね」  百瀬はへらへらと笑った。せめて三日に一回にすればよかった。  軽音楽部の活動場所は、二階の視聴覚室だった。部長のスキンヘッドの三年生いわく、先輩のいうことは絶対。いわく、先輩より先にステージにあがってはいけない。いわく、先輩がコピーしてるバンドは演奏NG。いわく、いわく、いわく……。ルールが細かくてうるさい。雰囲気が悪い。  ステージでの練習の持ち時間は、各バンド十五分だった。おくれに遅れて、一番最後に回ってきたキーボード。妙に軽いプラスチックの鍵盤で、ぼくはJ.S.バッハを奏でた。《イギリス組曲》第二番。流麗なプレリュードに、部の連中はぽかんとしていた。百瀬がアドリブでベースラインを添える。古典とロックの融合。  あれっ、なんか楽しいぞ?      ♂ フライングで夏みたいな日 後輩の肘のガーゼの光まぶしい      ♂  中学のころ百瀬は右足を引きずっていたが、今は普通に歩いていた。よくよく注意して見ていると、右足を着くときだけ肩がややかしいで、かつんと小さく音がする。義足だと知らなければ、気にも留めなかったろう。こいつが片足だと知らないやつのほうが多いはずだ。 「いい義足つくってもらったからね」  百瀬は笑った。義足ながら百瀬は自転車通学だった。左足でペダルを踏むのだ。ぼくはママチャリの荷台でベースを担いだ。五月晴れの風。百瀬んちのラーメン屋まで五分だった。 「ウラ先輩って、どんなAV観んの」 「見ない」 「うっそぉ、またまたぁ~」 「雑誌派なんだよ」 「ラーメンのあと、観賞会しない?」  どんなもんだろうか。自称バイセクシャルの男への警戒心に、エロビデオへの好奇心が勝った。  ラーメン屋の二階、雑多な物とゴミが散乱した六畳間。ビデオデッキと一体型のテレビで百瀬が再生したのは、ニューハーフ物だった。女の格好なのに、股間が男のままだった。かわいいでしょ? と百瀬にきかれて、ぼくは感想に困った。こいつのカワイイの基準が謎だ。帰りてえ、と思った。  興奮してきたのか、百瀬は万年床でトランクス一丁になり、義足をはずした。ビデオよりも、やつの右足が気になった。右の膝下が約十センチ、先細りになってる。その脚の断面はケロイドにはなっていない。元からこういうふうだった自然のものに見えた。葛󠄀城に刺されたというコンパスの針の痕も、よくわからなかった。 「おまえの脚、ルパンだな」 「ルパン?」 「細すぎ。あと、毛ぇ濃すぎ」  百瀬は投げキッス。「不ぅ二子ちゃーん♡」 「キモい」 「ひっど~い~」  げんなりした。「そのギャルっぽいしゃべりかた、やめろ。男がやると、うぜえ」 「まわりがギャルばっかだからさ、うつっちゃうんだよ」 「チャラ男が」 「うん、そのとおり」百瀬はぼくを上目づかいに見つめて、大きな薄い唇の両端をひきあげて笑う。「さわってみる?」  こいつは、いつもこうやって女を誘うんだろうな、と思った。右足の先細りを、ぼくはそろりと撫でた。中心の骨の硬さ。 「いてっ」  顔をしかめる百瀬。ぼくは動揺して手をひっこめた。やつは笑う。 「なーんちゃって。あんた、女と同じリアクションだね」  この野郎。ぼくは力のかぎりひっぱたく。脚の皮膚が高らかに鳴った。 「いってえぇーっ!」百瀬は涙目。「何すんだよっ。マジでいてえじゃんかよっ」 「てめえがおちょくるからだろうが。クソボケ。いっぺん死ね」 「もうドSぅ~」  みずからの肩を抱いて身悶える百瀬。ぼくは急激に疲労感を覚えた。 「あんた、顔面騎乗位とか得意そうだよね」  百瀬の赤茶の目に、おかしな光が揺れていた。襲われるかもしれない。ぼくは体じゅうから憎悪と軽蔑をかき集めてきて、睨んだ。面長の顔をこわばらせ、百瀬はうつむいた。萎えてしまったみたいだった。ぼくは立ちあがった。 「帰るわ」  百瀬がワイシャツの裾をひいた。潤んだ赤茶の目。 「あの、でちゃった」 「は?」 「ザーメン。あんたに睨まれたら、でちゃった」  ぼくの脳の血流が凍った。ぞわぁっと総身に鳥肌。 「おまえ、Mか? ドMか? 百瀬のMはドMのMか?」 「うん、そのとおり」涙の破顔一笑。「ねえ、おれのこと、もっといじめてよぉ」  ぼくは控えめに罵倒してやる。「気色わりいことぬかすなっ。その頭、脳味噌じゃなくて期限切れの豆腐でも詰まってんじゃねえの。この場でカチ割って確かめてやろうか」  とろけそうな目をする百瀬。しまった、逆効果だ。ぼくはあとずさった。百瀬は犬のように這い寄ってくる。ぼくは砂壁をじりじりと伝って、襖を叩きあけて階段を駆けおりた。      ♂ 色盲の(さか)しい犬のまなざしで進入禁止の赤を無視する      ♂ 「どうかしたの」  金曜の宵。ぼくのベッド、竹宮はぼくの髪を撫でた。ぼくは裸の胸の谷間に顔をうずめて、深呼吸した。 「おっぱい最高だなって」  ぼくはスピッツ《おっぱい》を口ずさんだ。竹宮は笑った。ぼくの大すきなCカップのおっぱい。大きすぎない、小さすぎない、最高のおっぱいだ。  ぼくはあちこちにキスして、竹宮のなかにもぐった。ゴムごしの感覚はぬるく、竹宮の反応は慎ましかった。ぼくらの性愛は真水のように淡かった。ものたりない。繰りかえすほどに、その思いが強くなった。ぼくが欲しいのは、もっと強い腕だった。  でも、ぼくはどうする気もなかった。芝賢治が最初で最後の男だと決めていた。      ♂ ラズベリーの茂みで愛しあったこと忘れてくれてかまわないのに      ♂  百瀬のなかで、あのレイプ未遂(?)の一件はなかったことにされたようだった。二日に一回の約束も忘れて、いつもどおりのへらへらした笑顔でぼくについてまわった。ぼくもいつもどおりの冷淡な態度を貫いた。  放課後は視聴覚室でセッションした。パッヘルベル《カノン》と《千と千尋の神隠し》のエンディングテーマをフュージョンする。一緒に楽器を弾くだけなら、百瀬は楽しい相手だった。  ステージ下でベースをいじりつつ百瀬はきく。「ウラ先輩の彼女、かわいい?」 「ふつうだよ」  彼女について誰かに尋ねられると、いつもそう答えることにしていた。かわいいなんて答えたら、会わせろといわれるに決まってる。ライバルは少ないに越したことはない。 「写真ある?」 「おまえには見せない。穢れるから」 「ひっど~い~」 「だから、そのギャルっぽいしゃべりかたやめろって」 「きっと、かわいいんだね。だから見せたくないんだ」  すねたような口調。妬いてんだろうか。悪いけど、うれしくなかった。  百瀬んちのラーメン屋には行かなかった。先約があったので。五月雨の夕風、宿場通りの喫茶店アルキバ。ぼくがドアベルを鳴らすと、めずらしく竹宮は先に席についていた。ぼくは笑いかけたけど、あの子は笑わなかった。ぼくは覚悟した。もしかしたら別れ話かもしれない。  ぼくはデカフェ/竹宮はキーマン。竹宮はストレートで飲んでから、シロップを一つ入れた。 「ねえ、ほんとのこといってね。タツヤ、留年したの?」  頭んなかが白くなった。ぼくはうつむいて、小さくうなずいた。「うん」 「ほんとなの?」竹宮はため息をついた。「ねえ、わたし、留年したこと自体を怒ってんじゃないんだよ。そんな大事なこと、どうして今のいままでいってくれなかったの」 「ごめん。いわなきゃって思ってた。でも、いいそびれたら、いえなくなって」 「ごめん。わたしも謝んなきゃいけないの。パパが探偵に依頼して、タツヤのこと調べさせたんだって。別れなさいっていわれた。大っきらいっていってやった。わたし、別れたくないよ。でもね」竹宮はアーモンドアイを潤ませた。「タツヤ、ほかに隠してることない?」  ぼくはうつむいた。母親の不倫、父親の病歴と二度の自殺未遂、ぼくの病名、芝賢治とのこと。竹宮にいってないことが、いくつもあった。 「モヨだって、おれにいってないことだってあるよね」 「なんなら、タツヤも探偵雇う? わたしは知られて困ることなんてないよ」  腹が立った。「そりゃそうだろ。おれとモヨじゃ住む世界がちがうんだから」 「何それ、逆ギレ?」 「客観的事実だよ。おれはきれいな人間じゃない。それが気に食わないなら、他の相手を探したほうがいい」 「何それ。もう信じらんない」  泣きだしそうな顔。もう、だめだ。ぼくはコーヒーを一息に飲みほして、千円札を置いて無言で席を立った。竹宮が呼んだ。ぼくはドアベルを鳴らし、傘をひらく。宿場通りの丸い街灯の下を、うつむき加減に歩く。いつかこうなることはわかってた。もともと身分ちがいの恋だったのだ。かぐや姫には、清潔な月世界がふさわしい。  後ろから黒いワゴン車がゆっくりと並んだ。いきなりスライドドアの音。目出し帽の男たち、覆面A・覆面B・覆面C。ぼくを囲んで、肩や腕をつかんだ。傘が道に転がる。 「タツヤ!」  道のむこうで、竹宮が叫んだ。ぼくを追ってきたのか。 「来んな!」  覆面Cが竹宮へ近づいた。竹宮の前へ誰かが飛びだす。百瀬だった。やつは重さ四キロのエレキベースをふりまわした。ゴッ。頭に食らって、覆面がよろめいた。百瀬が叫ぶ。 「先輩!」 「行け! 頼む」  百瀬はためらって、でも竹宮の肩を抱いて逃げだした。覆面Cは頭を押さえつつ戻ってくる。覆面Aと覆面Bにかかえられ、ぼくは車内へとひきずりこまれた。スライドドアがとじた。カーステレオから大音量のレゲエ。三人がかりでぼくはカーゴルームの床に転がされた。  運転手が急ハンドルを切った。どんっ。鈍い音と、車体に衝撃。くそっ、あのアマ、と運転席から悪態。ぼくは青ざめた。竹宮だ。まさか竹宮が轢かれたんじゃ。ワゴンは方向転換し、発進する。顔に当てられるビニール袋。有機溶剤のようなニオイが鼻腔を刺した。      ♂ 黄昏に拍車をかける金曜の暴走族のゴッドファーザー

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