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第2話:龍への憎しみ
もはや虫の息になりつつあるアルを、青年は部屋の中央に配置してある椅子へと下ろした。ドサッと勢いをつけて椅子に座った途端、アルは目の前にあったテーブルへと顔を突っ伏す。
とにかく、空腹が辛くてたまらないのだ。
もはやここまで来たら土でも虫でも美味しく食えそうだと働かない頭でボーッと考えていると、ふとアルの鼻腔をブイヨンの仄かな香りが掠めた。
くんくんとそのまま匂いを嗅いでいると、数分してからテーブルに突っ伏したままのアルの顔の前に白い皿が置かれる。
これはなに、とでも言いたげにアルが皿を置いたであろう人物を見上げれば、件の美丈夫は眉尻を困ったかのように下げた複雑な表情を浮かべていた。
「あんまりいい材料が揃ってなかったから、質素な物で悪いんだけど。どうぞ」
青年のその言葉を皮切りにふと皿の中を覗き込めば、そこには野菜と鶏肉の入ったスープが注がれていた。人参やじゃがいもやブロッコリーに加え、乱切りにされた一口サイズの鶏肉がゴロッとたくさん入っているその光景に、アルの口端からは自然と涎が垂れる。
テーブルにはスープ以外にも、深い皿にてんこ盛りにされたパンや、ここの地域でしか採る事のできない珍しい野生動物の肉を使用したジビエのソテー、篭に山ほど積まれている林檎やぶどうなどの果物が食卓を彩っており、一見すると何も質素には見えない豪華な食事であった。
極限まで飢えていたアルは、家主の許可も取らずにさっそく料理にかぶりついた。スープから滲み出る仄かな野菜や鶏肉の旨味が舌の上に広がり、鼻から抜ける優しい香りがまさに極上であった。スープの絶品さに更に食欲に火がついたアルはその後も、ジビエ肉やパンを獣のように交互に食らい尽くし、果物は丸飲みの勢いですべて平らげる。
一方の青年は、アルのそのあまりの気持ちのよい食べっぷりに若干引きながらも、空っぽになった皿の綺麗さにほんのりと笑顔を浮かべた。腹をパンパンに膨らませ、何故か瞳に涙の粒を浮かべるアルに対しほかほかと心が温かくなるのをじわじわと感じる。
「……うまかった……うまかったよぉぉ……」
料理と、その作り手である青年の優しさに心打たれたのか。アルは瞳に溜めていた涙をついに一筋頬に伝わらせ、心からの賛美を口からうっとりと漏らし始める。
そんな大袈裟とも言えるであろうアルの姿に、青年は若干頬をひきつらせた。引いているのは明らかである。
「……そんな泣く程ではないと思うんだけど、まあ口に合ったんならよかった。一週間分の僕のご飯がなくなっちゃったけどね……」
ぽそりと青年がため息混じりに呟くも、アルの耳にはその言葉は入って来ない。パンパンになった腹をポンポンと軽く叩きながら、アルはうっとりとした瞳で目の前の美丈夫を見つめ出す。
「美人で優しくて、料理も上手くて部屋も綺麗、洗濯物もちゃんと皺を伸ばして干してるし、本当に言う事ありませんね……よし、やっぱり俺と結婚しましょう!」
「さっきからなんでそうなるの!?」
料理にしか目が行かない猪突猛進タイプかと思えば、食べている合間合間にさりげなくこの部屋の中や、広い窓から見える庭に干してある洗濯物などを観察していた事に、青年は少しばかり驚く。それも「結婚しましょう!」の言葉に突っ込みを入れざるを得ない事案で覆されてしまう事にはなったが。
出会ってからずっとマイペースを貫いているアルに、青年は呆れたかのようにはぁっとため息を溢した。
「あのねぇ君、いくら危ない所を助けてもらったからって、初対面で急に迫られてもたいがいの人間は気味悪がって終わる事を知った方がいいよ。しかも男同士だし、僕も君も互いに名前すら名乗ってないのに」
「それもそうっすね! じゃあ今ここで全部個人情報教えるので、結婚してください」
「なんでさっきから話が飛躍しちゃうの!? やっぱ君馬鹿でしょ!?」
どうにかして結婚をしようと鼻の穴を膨らませて嬉しそうな顔をするアルに、青年は心なしか頭が痛くなるような思いでいっぱいになった。
さっき、彼は意外と観察眼が優れていて冷静なタイプなのでは……と思っていた時間を返して欲しい。
まあそれはおいといて、とマイペースに前置きの言葉を呟いたアルは、青年の前でダラッと座っていた姿勢をピシッと正したかと思えば、急にお辞儀のお手本のような綺麗な直角姿勢で頭を下げた。
無論、目の前にはテーブルがあるので、額をテーブルに思い切り打ち付けることとはなったが。
アルは頭をテーブルにつけたまま、おもむろに口を開き出す。
「俺はアルチュール、だいたいの奴らはアルって呼んできます。先日二十歳になったばっかで、十歳の時まではこの村で育ちました」
アルのその自己紹介に、青年の目が驚きで少しばかり大きく見開かれた。
「へぇ、君ここの村の子だったんだね。僕はずっとここに住んでるけど、君みたいな子と会った事なんてあったかな……」
「俺、昔はめちゃくちゃチビで童顔だったんで、もしかしたらわかんないかもしんないっすね」
小さい村とはいえ、それなりに人は住んでいる。村人全員を覚えるのは至難の技のため、互いに知らなくて当然なのかもしれない。
手元にある水の入ったコップを両手に持ち、ゆるゆるとその水面を見つめつつ、アルはポツリと語りだした。
「小さい時は両親の元でごく普通に育ってきたんですけど、十年前に両親が死んでから、この村を出て旅を続けてきました」
そこからアルは、何か堰が外れたかのように少しずつ自身の過去を目の前の青年に打ち明け始めた。
――――アルチュールは、ごく普通の両親の元で、ごく普通の村人として育ってきた。
この世界には、魔力を持つ神々や魔物、そしてごく稀に生まれながらにして魔力を携えた人間が存在する。それが故に、その魔力を使用して悪事を働こうとする輩が後を絶えない。
そんな物騒な世の中に住む人々を救うために奔走するのが、剣士や魔道師などの職に付く者たちなのだ。アルの父親は大剣使いの剣士であり、各地を放浪とし魔物討伐や罪人の捕獲等のクエストを受けては銭を稼ぐ生活をしていたが、ほんのたまにアルたち家族の元へと帰宅した際には、それはもう息子を目に入れても痛くないとでも言うほどに可愛がっていた。また、剣士としての実力を買われ、帰郷した際には気高き職と吟われる水の龍の番人を勤めるほど、誇らしい父親であった。
母親も、家を守りつつほぼ一人で子育てをし、咜ってくる事も多いが毎日のようにアルを抱き締め、慈愛に満ちた笑顔を浮かべる愛情深い女性だった。
ごく普通の、そして最大級の愛情に包まれた家族であった。
しかし、その家族も、後に崩壊への道を辿る事となる。
ある日、十歳になったばかりのアルが友達と日が暮れるまで遊び、うきうきとした気持ちで帰宅した時。
どうした事か、家の周りには村中の大人たちがざわざわと何やら深刻そうな顔で立ち尽くしているのが見えた。
両親に何かあったのでは。そう思い立ったアルは、密集する人の間を必死に小さい身体で掻き分けながら家の中へと足を踏み入れる。
その瞬間アルの瞳に映った光景は、まさにこの世の地獄と言ってもいいほどに凄惨な物であった。
全身を鋭利な刃物のような物でズタズタに引き裂かれ、血濡れとなった両親の亡骸が、そこにはあった。
身体中に穴が空き、さらに父親の遺体の右腕は、肩から下がすっかりとなくなり、その身体の一部は部屋の角に転がっている。ご丁寧にも指の一本いっぽんもすべて根こそぎもぎ取られ、そこかしこに散らばっていた。目玉はくり貫かれ床に転がっており、温もりをなくした黒目がこちらに訴えるような視線を送ってくる錯覚に陥る。
母親の遺体に至っては、思い出すだけでも胃液が込み上げて来そうになる。まず、何者かに凌辱された痕がそこかしこにあったのだ。幼いアルはその時ばかりはその事を理解する事はできなかったが、今思えばあれは加害者が地獄に墜ちて最上級の拷問を受ける事になっても償えないほどに酷い有り様であった。さらに美しかった髪はすべて刈り取られ、舌は引っこ抜かれたのか半開きの口から血を溢れさせていた。
あまりにも残酷な光景を前にして、アルはただただ絶望に打ちひしがれた。驚愕と恐怖、悲嘆の気持ちが溢れ返り、言葉を発する事も、涙を流す事もできやしない。
そんな、ただ棒立ちを続けるアルの元へこの村の長である妙齢の男がやってきた。目元の皺が特徴的な優しげな風貌だが、その目には何か靄がかかっているようで濁った色を宿しているのが少し妖しげな印象を抱かせる。
男は、一族が代々この村の長を継いできた由緒ある血筋の持ち主だ。それゆえ、村人は皆村長に多大なる信頼を寄せており、「この方に任せれば大丈夫」だと誰もがそう思っている。それは、幼いながらに凄惨な経験をしてしまったアルにとってもそうだった。
村長は、未だ呆然とするアルを悲しみの籠った表情でそっと優しく抱き締めてやると、耳元で独り言のように呟く。
「……可哀想になぁ。全部、お前の両親のせいなのに……」
「……え?」
村長のその言葉に、アルは思わず呆けたかのような声を漏らした。
両親を愛しているアルからしたら、「お前の両親のせい」などと言われるなぞ思ってもみなかったのだ。
あんなに優しくて、自身を愛で包んでくれた人たちの|せ《・》|い《・》とは、いったい――。
ぽかんとこちらを見上げてくるアルに対し、村長は顔に柔和な笑みを浮かべると、再び囁くように語り出した。
「――――詳しくは機密事項で語る事はできないが、お前の両親は村の掟を破り、水の龍神様に許されるはずのない残忍な事をしでかそうとした。その結果、アイツらは龍神様の怒りを買い、罪を償うために殺されたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、アルは内から込み上げてくる怒りの炎に頭の中を焼かれる。
あの優しい両親が、水の龍にそんな酷い事をするはずがない。もし本当にこの遺体の傷がすべて水の龍によってつけられたと言うのであれば、それは龍が有りもしない因縁をつけてただ理不尽に両親を殺したからに決まっている。
アルは顔を真っ赤に染め上げながら「嘘だそんなの!」と耳が裂けんばかりの金切り声を上げつつ村長に飛びかかろうとするが、いかんせん子供と大人の力の差は歴然。あっという間に床に頭を打ち付けられながら取り押さえられつつ、耳元で「私に逆らったら、反逆罪とみなして牢にぶち込まれる事になるぞ」と囁かれてしまう。
その一言で一気に脱力し、アルは口を閉ざす他なかった。
そこからのアルの記憶は曖昧だった。
子供で喪主はできないだろうからと、村長を筆頭に村人総出での豪勢な葬式が行われた。その後は誰がこの子供を引き取るのかと議論になり、毎日のように家に大人が出入りするのを冷めた目で見つめていたアルだったが、気がつけば父親の大剣と家にあったありったけの金をバッグに詰めて家を飛び出していた。
龍と戦える力を身に付け、両親の死の真相を暴き、そして復讐を成し遂げるために剣士となってまたこの村に戻って来るその日に備えて、修行の旅に出たのであった。
シーン、と部屋の中が静まり変える。
気まずい空気が流れ、どういう反応をすれば正解なのか検討にあぐねている様子の青年には気づかず、アルは静かに話を続けた。
「……俺は、俺の父ちゃんと母ちゃんを殺した龍を絶対に許さない。父ちゃんと母ちゃんは優しい人たちだった。だから絶対に龍に理不尽な殺され方をされたんだ。アイツを殺すためだけに俺は過酷な旅を続けて、死ぬほど辛い修行にも耐えてきた。今やっとそれだけの力をつけてここに戻って来られたんだ」
「……そう、か。君はとても頑張ってきたんだね」
アルの瞳の奥に宿る、黒い炎がその本気さを物語っているように感じた。
メラメラと燻る黒い炎は、やがて復讐相手の龍をも燃やしつくしてしまうのではないかというほどに圧力をかけてくる。
その迫力に圧され気味になりつつも、やっとの思いで紡いだ青年の称賛の言葉を耳にし、アルは先ほどまでの威圧感をすっかりとなくした。
「あ、すんません。なんか俺の話ばっかになっちゃって」
「ううん、色々と聞かせてくれてありがとう。でもね、アルくん」
「アルでいいっすよ」
「じゃあ、アル……」
途端にフランクな態度へと戻るアルに若干引きつつも、青年はコホンと咳払いを一つしたかと思えば、スッと真剣な表情を浮かべ、静かに語り出した。
「……この国の自然の均衡が保たれているのは、全部龍のおかげだ。龍を殺せば、自然の源が死ぬ事になる。自然の源が死ねば、僕たち人間や家畜、作物も餓えて死ぬ事になる。未来ある尊い命を、自分の復讐のために絶つ事のリスクを考えた方がいい。それに……」
話の途中で、青年はなぜか言い淀んだかのように言葉を詰まらせた。ほんの少しの静寂が二人を包み込むが、幾ばくかの時の後、青年が再び口を開き出した。
「……龍は、本当は……」
しかし、ここでまたもや口を噤んでしまった。よほど言いにくい事なのか、青年は迷ったかのように紫暗の瞳をうろうろとさせていたが、今度は諦めたかのようにふぅっと息を小さく吐き、首をやわやわと横に振った。
「……いや、何でもない。ごめんね、余計なお世話だったね」
その言葉を皮切りに、アルは伏せていた顔を上げた。
何かに迷っている青年の様子には敢えて触れず、静かに自分の思いを明かし出す。
「いや……アンタの言う事もよくわかってます。龍を殺せば、水が枯れちまうかもしれない事も、それのせいで自然が崩れちまう事もわかってます。だから、今すぐには殺しません」
ギラっと、再び瞳に鋭い光が灯される。
胸の奥が絞り取られるような苦しさを誤魔化すために、眉間に皺を寄せて堪え忍んだ。
「水の龍の魔力の代替案を探すために、俺は今日この村に戻ってきた。俺は馬鹿だから、それが何かなんて何もわかんないし、手がかり一つすら見つけるのだってめちゃくちゃしんどい事なんだろうなって言うのもわかってます。それでも、俺は絶対にこの復讐をやり遂げてみせる」
アルのその思いに、青年もこれ以上彼の言葉を責める事はやめた。
理解し難いほどに苦しみ、耐えてきた者の決意を揺るがす事なんて、できるはずがなかった。
それでも、青年はこの未来ある若者が暗い道を辿る事のないように、精一杯の想いを込めて小さく呟く。
「……自分を一番大切にするんだよ」
「……? はい……」
ぽつりと呟かれたその言葉の真相を理解できずに首を傾げるアルだったが、話が終わった途端今度は太陽が照りつけるかのような満面の笑みを浮かべて青年の白い両手を自身の大きな手で包み込んだ。
その豹変さとあまりの勢いに、青年は思わず椅子から転げ落ちそうになるが、両手をしっかりと捕まれて支えられたため結果としては助かった事にホッとする。
対して、アルは興奮したかのように顔をずいっと青年の端正な顔に近づけた。
「じゃあ次はアンタの事について教えてくださいよ! 俺の将来のお嫁さんになる人なんだし!」
「君のお嫁さんになるつもりは全然ないよ……まあ別に教える分にはいいけど」
顔が近すぎて反り腰になりつつある青年だったが、ぼそっと呟いた言葉で「やったー!」と万歳をしながらアルが自身から離れた事でホッと息をつく。
変わり身の激しいアルに対し、「この子情緒大丈夫かな?」と思ってしまった事は心の中に留めておく事にした。
気を取り直して椅子に座り直した二人。
青年は改まった態度をとりつつ、コホンと咳払いを一つしてからゆっくりと語り出した。
「僕はレオ。歳は今年で二十三。さっきも言ったとおり生まれた時からずっとこの村に住んでる」
「へぇ、レオさんか! 三歳年上! 姉さん女房ぐへへへ……」
「その下品な笑い方、今すぐ止めないと追い出すよ」
「すんません」
レオと名乗った青年は、あからさまに邪な目を向けてくるアルに対し、釘を刺すかのように渋い視線を突き刺す。件のアルはそんな視線もご褒美だと言ってへらへら受け止めているのが何だか癪に障るが。
再びため息を一つついた後、レオは話を続けた。
「……若くて有望な癖して、僕なんかに気持ちを向けてくれる君のために、一つ嫌な事を教えてあげる」
そう言いつつ、レオは先ほどまでの濁りのない澄んだ暗紫の瞳から一変、スッと瞼を細め、妖艶な色を瞳に携えてアルを舐めるように見つめた。
妖しげな色を宿したアメジストの瞳は、どんな娼婦や美しい女性たちなんかよりも圧倒的に色香を振り撒き、手を伸ばそうとする男たちを捉えて離さないとでも言うかのように絡み付いてくる。
まるで、巣に引っ掛かった蝶を補食する女郎蜘蛛のようだ。
凄まじい色香に当てられ、思わずゴクッと唾を飲み込むアルのその様子をくつくつと笑いながら見つめていたレオは、さらに爆弾的発言をアルの上へと落としていった。
「僕のお仕事だけどね、男娼なんだ。さっき村の連中が言ってた通り。男相手に身体を売ってお金を稼いでるの」
「……へ?」
アルの間抜けな声が部屋中に静かに木霊する。
それに重ねるように、レオはどこか寂しげに呟いた。
「だからね、この時間が終わったら僕とはもう会わない方がいいよ」
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