──つめたい 　ぼんやりとした意識の中、僅かに感じたのは、それ。 　手の先か足の先か。それとも全身か。なんだか記憶が混濁していて、意識もはっきりしない。 　ゆっくりと眼を瞬かせてみる。起きようと思っても体に力が入らない。 　──そうだ。俺、滑り落ちたんだっけ。 　趣味のトレッキング。不意に飛び立った鳥に驚いて足を滑らせたのは数時間前──だと思うが、時計を見ていないから、正確な時間は分からない。 　ツアーの参加者の悲鳴と添乗員が何か叫んでいた記憶はあるが、自分の身体はまだ地面に転がったままだ。救助しづらい場所に転げ落ちたのか、それとも── 　手足が動かない今、考える以外の事が出来ず、うつらうつらと考え続けていると、水の流れる音が聞こえた。 　──川？……近くにそんなのあったっけ……？ 　上から見た時はわからなかっただけ？それとも、自分が思うより長い距離を転がり落ちた？ 　ぼんやりした意識のままで考える。浮遊感というか、身体が浮いている気がする。落ちた時に頭を強く打ったのだろうか。 　そんなことを考えている間もずっと手足が冷たいままで。リュックサックの中には防寒用のアルミ毛布もあったが、この状態では取り出せない。 「……つめた」 　思わず声に出た。どうせ誰も聞いていない── 「もう少しだけ我慢してくれ。すぐにつく」 　頭上から響く声に肩が跳ねた。声の主を探そうと思いはするが、意識は相変わらずはっきりしないし、身体も動かない。 「俺、滑り落ちて……助けて下さい」 　相手の姿は分からない。でも、自分以外に誰かいる──なら、助けて欲しい。 　考えるより先に出て来た言葉。先程よりも瞼が重い。意識を失いたくなくて、縋る物をさがそうとした指をそっと握られる。 「承知している。だから眠れ」 　握られた指は冷たいまま。だが、不思議な温かさを感じて体の力を抜いた。 　　　　　　　　◇◇◇◇◇◇◇ 　───転落した大学生、奇跡の生還 　そんな見出しが新聞やテレビを騒がせてから数か月。大物俳優の熱愛が発覚するまではそこそこに騒がれてはいたが、今はすっかり忘れられた……と思いたい。 「は～～……美味い」 　学食で日替わりを食べながら満足げに眼を細める。今でもたまに「あの山の人？」なんて声をかけられたりはするが、こうしてのんびり昼食を食べられるようになった事は喜ばしいことだ。 　願わくば、このまま掘り返されたりされませんように。 　そんなささやかな願いをしながら、穂積遠夜(ほづみとおや)は昼食を終えた。 　ほんの少し名前の画数が多い以外はいたって普通の一般人の自分にとって、知らない人に質問攻めされたり、写真を撮られたりするのはかなりのストレス。 　学校で落ち着いて勉強することも出来ず、相談して特別に休暇を貰って引きこもったくらいだ。 　これでようやく、学業に専念できる── 　のと、もう一つ。 　あの時、自分の声にこたえてくれた人を探すこと。 　自分が意識を取り戻した時は病院のベッドの上だった。 「捜査隊と一緒に山を登ろうとしたら、宿の入り口近くに倒れていた」 　と、添乗員が話してくれた。 　眠っている間に医者が体を調べたが、擦り傷がいくつかあった以外は目立った外傷もなく、まさに奇跡と呼べるほどの軽傷だったとのこと。 　念のため数日は入院するように言われ、その手続きや何やらはもう少し落ち着いてから──とかなんとか。色々な話を聞く合間に、自分を助けてくれた──謎の人物のことを尋ねてみた。 　倒れていた自分の周囲には人影はなかったが、雨でもないのに地面が濡れていた、と添乗員の言葉。 　地元の人曰く 「山神様のご加護」 　だと興奮した様子で話してくれたが、方言のせいでしっかり聞き取れなかった。横で看護師が通訳というか、標準語で説明してくれたのを要約すると ・何か困った事があると、山の奥にある滝のある方向に向かって拝みながら願いを口にすれば、山の神様の使いが助けてくれる。 ・助けて貰ったら、お礼として野菜や肉などを滝に供えに行くこと。 ・お礼をしないと、神様の使いが来て「大事なもの」を持って行ってしまうこと。 　よくある昔話ですけどね、なんて笑って言われたが、実際に不可思議な出来事にあった自分としては単なる昔話にも出来ず。 　退院した後、道の駅で購入した野菜をもって、山の神様──と言われている滝へとお参りに向かった。案内してくれた地元の人には 「野菜をそのまま放置すると、野生動物に食い散らかされるから持って帰ってくれ」 と言われたので、滝の水につけた後、持ち帰った。料理して食べる時に神様も一緒に食べましょう、と声をかければいいと言われたのでそうしたのだが── 　実際問題。「神様の使いが助けてくれた」なんて思っている訳ではない。多分、通りすがった誰かが運んでくれたのだとは思ってはいるのだが、こちらに戻ってくるまでの間に地元の人に尋ねてみたが、誰かは分からないままだった。 　テレビや雑誌を見て、あの時助けた者です──と名乗り出る人もいたが、どれも本物ではなかった。高額な礼金などは難しいが、せめて、どこの誰が助けてくれたのかだけは知りたいし、お礼も言いたい。 　あまり考えたくはないが、もしかしたら、山に隠れ住んだ犯罪者が気まぐれに助けてくれた──とかなら、恩人とは言え会いたくはないかも知れない。 　我知らず溜息が出てしまう。食べ終えた食器を返却するため、トレイをもって立ち上がった。