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1. 日常
「ほら、起きてください」
スマホのアラーム音と共に頭上から聞き覚えのある声が降りかかる。僕は布団に潜り、ううんと唸る。
「はぁ……どうしたものか」
やがて人気が無くなり、やっと行ったかとぼんやりとした頭で考える。目を薄らと開けてスマホに手を伸ばそうとした瞬間だ。
「ほら、早く起きないと襲ってしまいますよ?」
「う、うわぁぁぁ!」
耳元でそう囁かれ思わず飛び起きた。囁かれた耳が徐々に赤く染まり、次第に頬を熱らせる。僕は耳と頬を懸命に隠しながら、目の前の彼に言い放つ。
「もう、猿喰! そうやって起こすはやめろっていつも言ってるじゃないか!」
「おや残念。あと少しで手出し成功でしたのに」
一体何が残念なんだ。全く。
彼の整った顔が台無しになるのは心が痛むが、それ以上に僕の心臓が保たない。
「漸くお目覚めのようですね。おはようございます。墨怜坊」
「お、おはよう……。猿喰」
僕は井戸口 墨怜 。極道井戸口組の息子だ。
それで、この美形は猿喰 綺人 。井戸口組の組員で僕の世話係でもある。
「朝食は既に出来上がっていますので、準備が終わり次第来てください」
「……うん」
未だ覚醒しない意識で頷く。明らかに生半可な返事に、猿喰は再び僕に顔を近づける。
「あぁそれとも、制服に着替えるのを手伝いましょうか?」
「じ、自分で出来るから!」
僕は猿喰を押し除け、急いで部屋を出た。後ろから「おやおや」と愉快げな独り言が聞こえたが知らないふりをした。
身支度を整え、スクールバッグを手に取り一階へと下りる。襖を開けると組員の伏見 ケラトが茶碗としゃもじを持っている。
「あ、坊! おはようごさいますー」
「おはようケラト。相変わらず朝から元気だね……」
ケラトは僕と二歳差で井戸口組メンバーの中では猿喰を除いてダントツで仲が良い。
「そりゃ、朝はエネルギーの源ですから! ほら、お日様も眩しい!」
窓から差し込む陽の光に思わず瞼を閉じる。ケラトは天真爛漫な笑顔を向けた。彼を見ていると本当にヤクザなのかと疑ってしまう程だ。
「あ、坊。ここに可愛い寝癖がついてますよ」
「え? どこどこ……?」
「ちょっと待っててくださいねー」
ケラトは僕に近付き髪の毛を触ろうと手を伸ばす。その途端、
「俺以外の男と仲睦まじい事で何よりですね。坊」
「うわ?!」
「ちょ、猿喰さん!」
ケラトと一緒に猿喰の姿に驚き、渋い顔をする彼の姿を見上げる。僕は胸の高鳴りに耐える。
「急に近距離で話さないでよ」
「ほぉ? 伏見とは顔を近づけ合う程の仲ですのに、俺はダメなんですか。俺、これでも坊のことは幼い頃から面倒を見ている筈なんですが」
「顔を近づける程って……、坊の寝癖を取ろうとしてたんすよ! だから猿喰さんが想像する関係じゃないんで! てか、銃しまってください! 組内乱闘は御法度だって組長が言ってたでしょ!!」
どこから出したのか、猿喰は拳銃の銃口をケラトの額に付ける。猿喰の瞳に生気が失われ、徐々に細くなる。しかし、「組長」という言葉に反応し、渋々銃を下ろした。
「っち」
「あ、この人今舌打ちをした!! 全く、坊のことになると暴走気味になるのはやめてくださいよ」
呆れ気味に猿喰を見て、ケラトは茶碗の方へ視線を戻す。当の本人はその言葉など気にせず済ました顔をする。
ふいに猿喰に髪の毛を触られ肩を揺らす。
「さ、猿喰……?」
「ふふ、随分と可愛い寝癖ですね。俺がドライヤーでセットし直しましょうか?」
「じ、自分で直せる!」
「そうですか。それは残念。ですが、こう言った可愛い姿が見れるのは俺だけの特権ですので、あまり他の人に見せびらかさないように」
「特権って……、本当、訳の分からない事言わないで」
猿喰は時々意味不明なことを呟くから気になってしまう。
「所で、今日は何時にお帰りで?」
「きょ、今日は空手部の手伝いをしにいくから少し遅くなるかも」
「へぇ、空手部。ですか……」
途端に猿喰は真顔に戻る。何か気に触るようなことでも言っただろうか。
「しょ、しょうがないじゃん。仲の良い友達のためだもん。応援するのは当然!」
「ですが、俺以外の人間に熱い視線を向けるのは如何なものかと」
「ど、どこが「如何なもの」なの?!」
「ほらほら坊、ご飯が冷めちゃうから食べてくださいねー。あと猿喰さんも、兄貴から呼ばれているんでしょー? そろそろ行かないと殺されちゃいますよ」
僕と猿喰のやりとりを慣れた態度で入り込むケラト。しかし、猿喰の方は食い下がって止まらない。
「俺は、坊は可愛いから心配で言ってるんです。仮に、変な虫が付いちまったらどうするんです?」
「む、虫なんて付かないよ!」
「いいや、付きますね。いっそのこと、坊に近付く危ない輩を排除してしまえば坊も安全か……」
「危ない輩は猿喰さんの方でしょーが。ほら、兄貴にしばかれる前に早く行ってください。坊も、早く食べないと遅刻しちゃいますよー」
「あっ、う、うん」
ケラトに促され、テーブルに用意された朝食に手を伸ばした。猿喰は終始恨めしそうにケラトを見つめるが渋々離れていった。
ケラトは本当にお母さんみたいだなぁ。
「それにしても、猿喰さんはどうして坊をいじめたがるんですかねー」
「え?」
「だって猿喰さん、いつも坊にベッタリじゃないですか。そんなことしてたら女に逃げられちゃいますって」
「お、女……?」
その瞬間心臓の鼓動が止まりかける。嫌な予感が頭の中を過ったが、ケラトの言葉でそれは的中した。
「あ、そう言えば言ってなかったですね。猿喰さん、噂によると愛人がいるらしいんですよ」
「あ、愛人……」
「組の人たちがそう言ってただけなので本当かは分かりませんが、猿喰さんが電話しているのを見た人たちがいたっぽくて。そりゃあ、分かりますよねー。猿喰さん、顔面偏差値東大並の美形じゃないですか。スタイルだって良いのに、どうしてヤクザなんかになったんですかねー」
悔しげな顔で「イケメン羨ましい」と嘆くケラトに僕は苦笑する。対象に僕は口には出せない思いが募るばかりだ。
何となくそんな予感はしていた。
だって、あんなイケメンを他の女性たちが放っておく訳がない。猿喰に女性の影がないのはあり得ない。
女性の一人や二人……。いやいや、考えたくない。
兎にも角にも僕の想いはバレないようにしなくては。
朝食を終え、時計を見ると既に8時を過ぎようとしている。僕は鞄を持ち玄関へと向かった。
「はい、これはお弁当。今日は坊の大好きな卵焼きを入れました! 甘さマシマシなんで!」
「わぁ、ケラトありがとう」
「良いってことですよ。俺、坊の役に立ちたいですし。困ったことがあればいつでも言ってください」
ケラトお手製の弁当を鞄の中に仕舞う。玄関扉が開き、外から猿喰が帰ってきた。
「おっ、猿喰さんちょうど良いところに。ちゃんと坊のこと送ってってくださいねー」
「お前に言われるまでありませんよ。本当なら、学校なんて行かなくても良いでしょうに。人間が群がる動物園と同じでしょう?」
「全くそんな暴論言ってないで行ってくださーい。ほらほら!」
ケラトは再び愚痴る猿喰を玄関外へ押し除ける。
「ケラト、行ってきます」
「はい! 今日も頑張って行ってらっしゃい!」
僕が手を振ると彼も満面の笑みに変わった。
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