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21 結婚相手

   吐き気にも似た焦燥と懊悩(おうのう)が込み上げて、じくじくと腹の底が痛む。片手で下腹を押さえたとき、階段を一段飛ばしで登ってくる小さな影が見えた。 「ニアッ」  元気のいい声で呼んできたのはロキだ。フィルバートと同じデザインの礼服を着ている。 「ロキ様」 「こっち来て」  ロキがニアの手を掴んでぐいぐいと引っ張ってくる。ロキは今年で十二歳になるはずだが、その顔立ちも行動もまだ幼い。四年前よりかは多少性格も落ち着いたので、こういったパーティーには出して貰えるようになったようだが。  ロキに引っ張られるままに階段を降りながら、ニアは戸惑った声をあげた。 「どうなさったんですか? どこに行くんですか?」 「母さまが、ニアを呼んできてって言ったんだ」  その言葉に、ニアはギクリと肩を強張らせた。王妃がニアを呼んでいるというのは、決して良い話とは思えない。それでも小さな手を振り払うことができず、ニアはダンスホールに見とれる貴族たちの間を突っ切っていった。  ロキに連れて行かれたのは、パーティー会場から少し離れた位置にある来賓室だった。室内に入るなり、ニアは小さく息を呑んだ。  広いソファに優雅に腰掛ける王妃の後ろには、ハイランド公爵家の三人が並んでいる。当主であるハリー・ハイランドは胡散臭い笑みを浮かべており、ヘンリーは相変わらず憎々しげな目でニアを睨みつけ、クリスタルはどこか不貞腐れた表情でそっぽを向いていた。だが、その中にハイランド家の夫人の姿は見当たらない。  王が倒れてからハイランド公爵家は王妃派閥についたと聞いていたが、実際こうして王妃と一緒にいるのを目にしたのは初めてだった。 「母さまっ、ニアを呼んできたよ!」  得意げな声で言いながら、ロキがソファに飛び込むようにして王妃に抱きつく。王妃はロキの頭をゆったりと撫でながら、柔らかな声をあげた。 「ありがとう、ロキ。とても助かったわ」  単純な褒め言葉でも嬉しかったのか、ロキが、へへへ、と小さく笑い声を漏らす。ロキの頭を撫でたまま、王妃がニアへ視線を向ける。その眼差しに、ニアはとっさに胸に手を当てて敬礼を返した。 「王妃殿下にご挨拶を。ニア・ブラウン、参りました」  硬い声で告げると、王妃は花開くような艶やかな笑みを浮かべた。 「来てくれて嬉しいわ。以前から貴方とは一度きちんとお話をしたいと思っていたの。でも、フィルバートが貴方を離してくれなくって」  ちょっと困ったような口調で言いながら、王妃がやんわりと首を傾げる。 「あの子ったらちょっと怖いくらい貴方を束縛しているから。迷惑になっていないかしら?」  心配しているフリをしながら、人の腹に無遠慮に手を突っ込んで、暗いものを引っ張り出そうとしている声音だった。とっさに歪みそうになる顔を引き締めて、形式的に頭を垂れる。 「いいえ、決して迷惑などとは思いません」  思わず強い口調でそう返すと、王妃は、あら、と言わんばかりに片手で口元を覆った。 「ごめんなさいね、嫌な気持ちにさせてしまったかしら。ただ、私は母親としてあの子のことが心配なの。『お気に入り』を傍に置くのは構わないけど、そのせいで他の人間を頑(かたく)なに寄せ付けないのは良くないことでしょう?」  優しい物言いだが、平然とニアのことを『お気に入り』と物扱いしてくる辺り、やはり怖い人だと思う。それにフィルバートのことを本当に母親として心配しているのなら、貴族たちを二つに分断させるような真似はしないだろう。  頬に掌を当てながら、王妃が困ったように呟く。 「あの子の結婚相手もなかなか決まらないし……それに何よりも私が心配しているのは貴方のことなのよ」 「私、のことですか」  ニアが強張った声を返すと、王妃はにっこりと笑みを浮かべた。 「そうよ。貴方ももう二十歳でしょう? そろそろ夫人を迎えた方が良い年頃じゃないかしら?」  確かに貴族であれば、二十歳になれば夫人を迎えていてもおかしくはない。高位貴族であれば、二十代のうちに本妻だけでなく愛人を二、三人ほど迎えている人間もいるほどだ。 「私は――」 「それで貴方にお似合いのお嬢さんがいらっしゃったので、是非私から紹介したいと思って、こちらに呼んだのよ」  ニアが言い淀んだ瞬間、遮るように王妃が言った。王妃がゆっくりと振り返って、クリスタルを見つめる。その仕草を見て、ニアは思わず唇を引き攣らせそうになった。  一歩前に進み出たクリスタルが、パステルブルーのふわふわとしたスカートを摘んで会釈を向けてくる。四年ぶりに見る姿だが、相変わらず触れると折れそうなぐらい華奢な体格をしており、その顔立ちは儚げで可憐だった。 「……クリスタル・ハイランドと申します」  可愛らしい見た目に反して、その声音は露骨に不満そうだった。ニアとの縁談をまったく歓迎していない反応だ。  だが、クリスタルの反応を気にする様子もなく、王妃は和やかな声をあげた。 「クリスタルのことは知っているわよね。貴方の妹と同い年だもの」 「知ってはいますが……」  あまりにも衝撃的な提案に、言葉が詰まる。まさか自分とクリスタルの縁談が持ち上がるなどとは欠片も想像していなかった。 「歳も二十歳と十五歳でちょうど良いですし、とてもお似合いな二人だと思うのよ」  同意を求めるように王妃がハリーへと視線を送る。すると、ハリーはその酷薄な顔立ちに満面の笑みを浮かべてうなずいた。 「そうですね。私もとてもお似合いだと思います」  絶対に嘘だ。こんなに心が篭もっていない言葉があるのかと、逆に感心しそうになる。  ハリーがヘンリーに視線を向けると、ヘンリーは口角をピクピクと引き攣らせながら声をあげた。 「こんなに可愛いうちの妹を夫人にできるなんて、お前には勿体な……羨ましいぞ!」  途中で本音が漏れていたが、無理やり軌道修正させたな。  ヘンリーが、なだめるようにクリスタルの肩を撫でる。すると、クリスタルは顔を引き締めて、覚悟を決めた声を漏らした。 「ニア・ブラウン様、どうか私を妻としてお迎えくださいませ」  その言葉に、ニアは途方に暮れそうになった。つい先ほどまでこんなこと想像もしていなかったのに、なぜ突然結婚を迫られているのか。しかも、これは確実にクリスタルも望んでいない結婚だ。間違いなく王妃に強要されたものだろう。  ニアは鈍く咽喉を上下させると、わざと事務的な声を返した。 「申し訳ございませんが、私はまだ若輩者で、夫人を迎え入れられるような器量を持っておりません。それにこういった事は、私だけの判断だけでは決められませんので」  そう告げて、ニアは頭を下げた。一歩後退しようとしたとき、独りごちるような王妃の声が聞こえた。 「ニア、私はとても悲しいの」  ニアが足を止めると、王妃はその柳眉を切なげに歪めて続けた。 「貴方も気付いているでしょう? 今、国の貴族たちは二つに分断されています。フィルバートも私の可愛い息子なのに、まるで私があの子を追いやろうと、王座を奪い取ろうとしているように思われているわ。私はそれが悲しくてたまらないの」  か細い声は、聞く者の同情心を誘うものだろう。だが、ニアの心はピクリとも動かなかった。それは、この言葉に一つの真実もないと頭のどこかで確信しているからだ。 「ですから、私はこの国を一つにしたいの。そのためにはハイランド公爵家とブラウン伯爵家が固く手を結ぶ必要があります。その象徴として、貴方とクリスタルが結ばれるのが一番良いと思うのよ」  訥々と続けられる王妃の言葉に、ニアはゆっくりと自分の体温が下がっていくのを感じた。  確かに第一王子派閥であるブラウン家と、王妃派閥であるハイランド家の者たちが結婚すれば、貴族たちの分断も緩和される可能性はある。だが、王妃がそんな平和的なことを望んでいるとは思えなかった。むしろ、クリスタルとの婚姻を理由にして、このままニアを王妃派閥に引き摺り込もうとしているのだと考えなくても解る。  握り締めた拳にゆっくりと力を込める。掌の内側に食い込む爪を感じながら、ニアは低い声を漏らした。 「何度も申し訳ございません。ですから、私一人の判断で決められることではありません」 「ダイアナ・ブラウン」  ニアがそう返した直後、王妃の口からダイアナの名前が零された。その声音の抑揚のなさに、ぞわりと背筋に寒気が走る。  ニアが黙ったのを見ると、王妃は再び穏やかな笑顔を浮かべた。 「貴方の妹も良い年頃よね。フィルバートの結婚相手としてどうかしら?」 「どうかしら、と言われましても……」 「貴方がクリスタルを迎えないのなら、ダイアナをフィルバートの婚約者にしましょう。王妃を迎えれば、あの子の地位も盤石になって貴族たちも一つにまとまるでしょうし。ねぇ、とても良い考えじゃないかしら?」  明るい声で言いながら、王妃がハリーを振り返る。 「とても素晴らしい考えだと思います」  肯定を返しながら、ハリーが両手を大きく打ち鳴らす。それにあわせてヘンリーとクリスタルも釈然としない表情ながらも拍手をする。  パチパチと聞こえてくる虚しい拍手の音を聞きながら、ニアは呆然とした。ダイアナがフィルバートの婚約者になるという運命から上手く逃れられたと思っていたのに、まさかこんなところで足下を掬われることになるのか。  ぐらぐらと眩暈を覚えながらも、ニアは掠れた声をあげた。 「申し訳ございませんが、私は何もお答えできませんので、これで失礼いたします」  毅然とした態度を取りたいのに、声音は苛められた子供みたいに弱々しかった。その声に、自分で自分を殴りたくなる。こんな風に簡単に揺さぶられて、平然としていられない自分が情けなくて堪らない。  会釈をした後、扉に手をかける。立ち去ろうとするニアに向かって、王妃が小さな子を慰めるような優しい声で言う。 「大丈夫よ。ゆっくり考えてみて」  でも、どちらも断るなんてことはないわよね? そう続けられた言葉に、ニアは振り返ることもできず、ぎこちなく咽喉を上下させた。

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