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29 この二度目の人生は

  「は……はぁ!? いや、ちょっと、待て、それはおかしいぞ!」 「おかしくなんかないわ。だって、初めて温室で話したときにフィルバート様に『一目惚れした』って言ってたじゃない」  四年も前の黒歴史を持ち出されて、ニアは唇をぱくぱくと上下させた。 「あれは、違うんだ。あれはただの言葉のあやというか、うっかり間違ってしまったというか……」  うつむいたまま、モゴモゴと言い訳を口にする。すると、ダイアナは大きなため息を漏らした。 「うっかりだろうが何だろうが、頭の中でまったく考えてもいないことは口に出てこないのよ」  当然とばかりにダイアナが答える。ニアは困惑を浮かべたまま、弱々しい声を漏らした。 「いや、そもそも俺は男だから、結婚はできないし……」 「確かに跡継ぎとか外聞とかそんな問題はあると思うけど、その辺りはフィルバート様が上手くやるでしょう。あの人、そういう外堀を埋めていくような回りくどくて陰湿なことが本当に得意だから」  サラッとフィルバートに対する悪口が混ざっていたような気がする。  ニアが呆気に取られていると、ダイアナは怪訝そうに顔を歪めて問い掛けてきた。 「それにお兄さま……もしかして、自分で気付いてないの?」  その問い掛けに、ニアは思わず目を瞬かせた。ニアの顔をビシッと人差し指でさしながら、ダイアナが言う。 「お兄さまって、ものすごい面食いよ」 「え」 「他の令嬢なんて目もくれず、フィルバート様の顔にばかり見とれてるじゃない。いつも気付いたら、フィルバート様のことをじっと見てるんだもの」  まぁ、私のこの美貌を見て育ったから面食いになるのも仕方ないけど。とさり気なく自分を持ち上げつつ、ダイアナが言う。  ダイアナの指摘に、ニアは呆然とした。確かにフィルバートやダイアナの顔が綺麗だとは思っていたが、自分が面食いなどという自覚はまったくなかった。  ニアが言葉を失っていると、ダイアナがうんざりとした口調で続ける。 「フィルバート様もお兄さまが面食いだって気付いてるから、それを利用してる節があるけどね。お兄さまの前でだけ笑顔を見せるし、露骨に顔を近付けたりして……あぁ、ヤダヤダ、あの人って本当にやることがネチっこいっていうか、陰険っていうか……」  ぶるりと身体を小さく震わせながら、ダイアナが言葉を選ばず悪態をつく。それからダイアナは大きなため息をつくと、仕方なさそうな口調で呟いた。 「お兄さまが何を心配しているのか解るけど安心して。私はフィルバート様を何とも思ってないから。むしろ、正直に言うと全然好きじゃないわ」  キッパリとしたダイアナの物言いに、ニアは目を剥いた。前の人生では、あんなにもフィルバートのことを素敵だとか、私の運命の人だと騒いでいたのに、この変わりようは何なのか。 「す、好きじゃないのか?」 「当たり前じゃない! あんな腹黒くて底意地の悪い人!」  ダイアナのあんまりな言いように、ニアはぐにゃりと眉尻を下げた。ニアの悲しげな表情を見て、ダイアナが迂闊(うかつ)だったと言わんばかりに自身の唇を手のひらで覆う。  バツが悪そうに視線を逸らすダイアナを見て、ニアは空気が抜けるような声を漏らした。 「でも、昨夜はお前からダンスに誘っていたし、フィル様もお前の前で笑っていたから、俺はてっきり……」  ぽつりと呟かれたニアの言葉に、ダイアナは嫌な記憶を思い出したように眉根を寄せた。 「あれは全然好きとかそんなのじゃなくて、ただお互いに釘を刺してたの」 「釘を刺した?」  ニアが繰り返すと、ダイアナは一瞬視線を伏せた。テーブルを見つめたまま、その唇に薄っすらと笑みを浮かべる。 「ニアお兄さまを泣かせたら貴方を地獄に落とす、ってお伝えしたの」 「じっ……地獄っ?」  ダイアナの爆弾発言に、引き攣った声が漏れる。挙動不審なニアに対して、ダイアナはティーカップを持ち上げながら長閑(のどか)な声をあげた。 「流石に私の力じゃあの人に傷ひとつ付けられないだろうけど、精神的に殺すことはできるわ。ニアお兄さまを連れて、国外逃亡でもすればいいんだもの」 「国外逃亡って……」  先ほどから予想だにしていない話ばかり聞かされて、頭がまともに働かない。オウムのように同じ言葉を繰り返すニアを見つめて、ダイアナが優しく微笑む。 「お父さまやお母さまにもあらかじめ了承は貰ってるから安心して。もしお兄さまが本当に逃げたいと思ったときは、家族全員でこの国から出て行くって決めてるから」  まさか両親にまで承諾を取っているとは思ってもいなかった。もしかして、先ほど帰ってきたニアを見て、父がひどく慌てていたのもこの話が要因だろうか。  驚愕に目を見開いた後、ニアは自分の顔がクシャクシャに歪むのを感じた。ダイアナは国外逃亡と簡単に言うが、そんなことができるわけがない。ロードナイトの任を放り出して逃亡するなんて、それこそ捕まれば一家全員が処刑されてしまう。 「そんなの、できないだろう」 「できるわ」 「捕まれば家族全員が処罰を受ける」 「覚悟の上よ」 「ダイアナッ」  とっさに押さえられず、感情的な声が溢れた。硬く握り締めた両拳をテーブルの上に置いたまま、自分を落ち着かせるように震える息を吐き出す。まっすぐダイアナを見据えて、ニアは強張った声で言った。 「俺は、お前や両親を不幸にしたくない」  そう告げると、ダイアナは無表情のままニアを見つめた。 「私たちが幸せなら、自分は不幸でもいいってこと?」 「お前たちの幸せが、俺の幸せなんだ」  そう自分に言い聞かせるように口に出した瞬間、ダイアナの顔が怒りに歪んだ。まざまざと憤怒を浮かべたダイアナの表情は、一瞬息を呑むほどに美しく、そして震えが走るほどに恐ろしかった。 「いい加減にしてよッ! もう我慢しないでッ!」  ダイアナが勢いよく椅子から立ち上がって、甲高い声で叫ぶ。その姿に、ニアは唖然とした。 「ニアお兄さまは、いつもいつも周りのことばかり考えて、自分の気持ちは全部後回しにして! そうやって自分をないがしろにする姿を見て、周りがどんな気持ちになるか、お兄さまはちっとも解ってない! もっと我が侭になっていいし、イヤなことはイヤって、欲しいものは欲しいって言ってもいい! ずっと自分の気持ちを押し殺しているから、だからお兄さまは、ずっと、ずっと……何かに怯えてるのよ……」  叫んでいた言葉が、徐々に悲しげに掠れていく。ニアを睨みつけるダイアナの目が、涙で潤んで揺れている。その揺らぎを見つめて、ニアは言葉を失った。  鼻をぐずっと鳴らしながら、ダイアナが手の甲で自身の目元を乱暴に拭う。 「私はもう我が侭なだけの弱い女の子なんかじゃない。自分の幸せは、自分で守れる。だから、お兄さまは自分の幸せを守ってあげて。誰かのために、自分の気持ちをねじ曲げたりしないで」  ダイアナがゆっくりと近付いてくる。そのまま隣にしゃがみ込むと、ダイアナはニアの手を両手でゆっくりと包み込んできた。その手を見下ろして、ふと気付く。いつまでも紅葉のような小さな手だと思っていたのに、いつの間にこんなにしっかりとした女性の手になったのだろう。  ニアの手の甲を掴んだまま、ダイアナがそっと続ける。 「お兄さまが私を愛してくれてるように、私もお兄さまを愛してるの。お兄さまの幸せを、誰よりも一番に祈ってるの。だから、もう自分のために生きて」  そう告げられたとき、ニアは自分の思い違いに気付いた。  自分はずっと、この二度目の人生は、家族を救うために与えられたチャンスだと思っていた。だが、本当はそれだけではなく、ニア自身が自分の人生を生きるためだったのかもしれない。  一度目の人生に囚われるのではなく、もう自分の思うがままに生きてもいいのかもしれない。そう思った瞬間、胸の奥に巣食っていた恐怖の塊がふっと溶けて消えていくのを感じた。  手を握り締めるダイアナの手のひらを、ニアはゆっくりと握り返した。 「ありがとう、ダイアナ」  そう静かに囁くと、涙で潤んだエメラルド色の瞳がニアを見上げた。ダイアナが、泣き笑うような微笑みを浮かべる。 「大丈夫よ、ニアお兄さま。フィルバート様がイヤになったり、何もかもが耐えられなくなったら、家族みんなで遠くへ逃げればいいの。私たちは最強のブラウン家よ。どこでだって生きていけるわ」 「うん、そうだな。みんな一緒なら、きっと大丈夫だな」  柔らかな声で肯定を返すと、ダイアナは椅子に座ったニアの腰にしがみつくようにして抱き付いてきた。ダイアナの小さな頭を、手のひらで優しく撫でる。 「私もっと強くなるわ」 「もう十分に強くなったよ」 「まだまだ全然足りない。もっともっと、誰にも負けないぐらい強くなりたいの」  どこか執念を感じさせるダイアナの言葉に、ニアは苦笑いを漏らした。 「これ以上強くなったら、身体がゴリゴリマッチョになるぞ」 「別にいいもん」 「でも、それだと可愛いドレスが着れなくなるぞ」  悪戯めかした口調で言うと、途端ダイアナは顔をバッとあげた。泣き出しそうな顔をして、子供みたいな声で叫ぶ。 「それはイヤぁ!」 「首が太くなったらネックレスだってつけられなくなるし」 「やだやだっ! 宝石いっぱいついたネックレスはしたいもん!」  駄々っ子みたいに叫ぶダイアナを見て、ニアは大きな声をあげて笑った。笑いながら、どうしてだか目尻にかすかに涙が滲んで、笑い声が震えそうになった。

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