1 / 3

第1話 隣人さん、はじめまして?

「ひ、すい、翡翠(ひすい)!」 「え、あの……」 涙に滲む空色の瞳。肩口に埋められた蜂蜜色の髪。耳元で聞こえる震えた声。 会いたかった、ずっと探していたと僕を抱きしめるその人は、僕の記憶の中にはいない人だった。 幼い頃の記憶。物心ついた僕の記憶の始まりは一冊の本だ。 何の話だったのかは思い出せないのだけれど、記憶の中の僕は絵本の文字を必至に追いかけている。どうやら自分の本好きは物心つく前からの筋金入りらしい。 文字の羅列の先に広がる世界に入り込んで、意識が深く深く沈み込んでいく。 視界はいつだって本の上の文字達。それ以外に何も見えない、記憶の中の自分は他に視線を移すつもりもないらしい。 でもわかる、知ってる。自分の隣には安心できる存在があるってこと。 もう戻ってこれないんじゃないかってくらいに没頭しているはずなのに、けれど常に隣にある温もりを無意識のうちに感じていた。 あれはいったい、誰だっただろう。 わからない。だけど、これだけ心安らげるのだから、それはきっと―― 「父さん、いい加減にしないと日が暮れるよ?」 「え?……あ。」 父である奏川温人(かながわはると)が、ダンボールから出したのであろう本を手にしたまま動きを止める。 引越しのダンボールに囲まれる中、黙々と本を読む父さんに声をかけるのはじつにこれが三度目だ。大学が春休みに入ったタイミングで、いい加減都心より大学近い隣県に引っ越そうと提案してきたのはたしか父さんの方だったはずなのに。こちらがキッチンとリビングに荷物を収めている間に進められた荷解きは、隅に畳み置かれたダンボールを見る限り、まだ二箱分だけらしい。 「ああ、ごめん、ごめん。つい、ね。」 「いい加減なんとかしないと、今日は本の上で寝るつもり?」 「じゃあ、今日は翡翠(ひすい)の部屋にお邪魔しようかなぁ。」 あははと冗談めかしてはいるけれど、現実になりそうな気がして思わずため息が漏れた。 僕の通う大学で准教授をしている父温人は、人文学を専門としているだけあって無類の本好きだ。 齢四十一。ずっと本一筋。母は自分が生まれてすぐに事故で亡くなっているのだけれど、それから約二十年の間浮いた話のひとつもない。切りに行く時間がもったいないという理由で伸びてしまっている髪は、遂には肩を超えて背中にまで伸びようとしている。顔の造形は整っている方だと思うのだけれど、本人は自分に無頓着な人だった。 食事と寝る時以外は常に何かしらの本を手にしている、いわゆる活字中毒者。……まぁ、それについては自分も人のことは言えないのだけれど。 本棚の横に置かれていた姿見に映る自分の髪も、同じく切りに行くのが面倒で無造作に伸びてしまっている。まぁ、こちらは父さんより幾分か器用なのである程度短く切りそろえてはいるのだけれど。前髪だけはいつまでたっても上手く切れなくて切り揃ってしまうのが難点だ。 似た者親子と言われることもあるけれど、目尻の下がった温和な父さんとは違ってつり目がちでわりと神経質な僕は、こうしていつもどこかワンテンポズレている父さんを諭し急かす役割を担っている。 まったく、どっちが親なんだか。 「一度読んだことのある本を読みふけってどうするの。他にもやることはたくさんあるんだよ?」 間違いない、このままじゃ一生終わらない。 昼過ぎには荷解きを終わらせて、近くのスーパーに買い出しに行く予定だったのに。 「おや、これは大変だ。」 マイペースな父さん時間を把握してもらう為にと真っ先に壁に取り付けた時計を指させば、さすがののんびり屋さんも少しだけ困った様子で眉をしかめた。 よし、これで少しは真剣に作業に取り掛かってくれ…… 「早くお隣さんにご挨拶に行かないと日が暮れたらご迷惑になっちゃうね。」 「…………ソウダネ。」 今日はどうやら僕の部屋で親子そろって眠ることになりそうだ。 ご挨拶の品どの箱にしまったっけ、などと慌てる父さんの背を見ながら、僕は十九年の人生で何度となくこぼしてきた諦めのため息を吐き出した。 僕達親子の越してきたここ「青葉荘(あおばそう)」は都心から離れた隣県にある築三十年をこえるらしいなかなかにボロ……趣のあるアパートだ。 一階がファミリー層向けの2LDKのタイプが三部屋。錆びた手すりを登った先の二階は単身者向け1LDKが四部屋。 101号室に越してきた僕達はとりあえず真上と隣の部屋にはご挨拶に行こうとここに越してくる前に都内の百貨店で菓子折を買ってきていた。今どきそんなことをしなくてもと思うのだけれど、そこは礼節を重んじる父さんだ。ご近所付き合いは大事だよと言われては、荷解きも買い出しも諦めて付き合うしかない。 というか、ぽんやりした父さんを一人でご挨拶に行かせるなんて危険なこと出来るはずもない。 犯罪目的で部屋の中に連れ込まれても、犯罪者とのんびりお茶しかねない人だ。ご在宅だといいねぇなんてのんきに102号室の呼び鈴を押す父の背後で、まともな人でありますようにとひっそりと身構える。 人付き合いなんて面倒だ。いっそ不在ならいいのに。なんて僕の願いは叶わず、ピンポンと若干音の外れた呼び鈴の後、直ぐに扉の向こうからはい、と低めの男性の声が聞こえてきた。 ゆっくりと開いた扉の隙間から姿を現したのは、Tシャツにスウェットというラフな姿の、父さんと歳の変わらないであろう四十代位の男性だった。 170cmの自分が見あげなければならない位の長身、彫刻のように彫りの深い整った顔立ち、金糸に近い明るい蜂蜜色の髪。訝しげに僕たちを見つめてくるその瞳は今日の空のように青く澄んでいる。 その蒼が眉をひそめてじ、と僕達親子に向けられた。 「……ウチに何か?」 明らかに純血の日本人ではないのだろうが、彼の口から出てきたのは流暢な日本語だった。 低くハスキーな声は威圧感を超えて畏怖すら感じたけれど、父さんは全く物怖じせずににこりと温和な笑みを浮かべて一礼する。 「こんにちは、本日こちらに越してきました奏川(かながわ)と申します。僕は温人(はると)で、こちらは息子の翡翠(ひすい)です。」 「……ああ、隣の。」 にこにこと愛想よく笑う父さんの笑顔に毒気の無いことは伝わったのだろう。無表情は相変わらずだが、眉間の皺が少しだけ取れた気がした。 名乗るつもりはないらしいけれど。 「ええっと、多家良(たから)さん、とお読みしていいのでしょうか。」 父さんが表にかかっているネームプレートで名前を確認すれば、目の前の男はこくりと頷く。 無愛想、というより口下手なんだろうか。 どちらにせよ無害ではありそうだなと冷静に見ていれば、蒼穹の瞳はにこにこと笑みを浮かべる父さんから僕へ。思わず身を固くしてしまったが、興味なさげに視線は直ぐに父さんへと戻された。 「……私は少しばかりここに居候しているだけで、家主は息子の方だ。……緋葉(ひよう)!」 多家良さんが背後を振り返り声をかければ、中からあ?という声がした。 「んだよ、客か?」 面倒くさそうに奥から顔を出したのは、多家良さんとよく似た特徴を持った人だった。 無造作に伸びた金糸に近い蜂蜜色の髪、健康的に日に焼けた肌、昼寝でもしていたのか眠そうに擦っている瞳はどこまでも澄んだ蒼。 なんか、ライオンみたいだな。 なんとなくそう思った。 「なに、親父の知り合い?」 「いや。引越してきて、挨拶だそうだ。」 「ああ、お隣さんか。」 こんちわ、とぺこりと頭が下げられて、蜂蜜色が揺れる。 歳の頃は僕と同じくらいだろう、彼の父親より数十倍人好きのしそうな笑みが父さんに向けられる。 「わざわざどうも、多家良(たから)です。えっと、」 「奏川(かながわ)と申します。私が温人(はると)でこっちが息子の…」 父さんが半歩身をひいて、蒼穹が僕を見つめる。 その瞬間、彼は身体を強ばらせ、その瞳は大きく見開かれた。 「ひ、すい……」 わななく唇が、名乗る前に僕の名前を呼んだ。 「え、なんで……」 「翡翠!」 わけもわからぬまま、裸足で玄関を飛び出した男は、その手でいきなり僕を思いっきり抱きしめてきた。

ともだちにシェアしよう!