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第3話

あれから今日一日は最悪だった。 家の片付けをしていても、買い物をしていても、夕食の間も、ずっとずっと胸の奥につかえた物が取れないまま。 喉に小骨が刺さったみたいに、もどかしさとわずかな痛みとが消えず、どうやっても自分の中からそれは消えてくれない。 ふとした瞬間に思い出す蜂蜜色と蒼穹。 昨日までの自分の記憶にはなかったはずの色。 多家良緋葉(たからひよう)。聞き覚えのないはずの名前。 「……すい、翡翠(ひすい)。どうしたの?」 不意に名前を呼ばれて我に返る。 湯船の中でものぼせる寸前まで物思いにふけってしまって、あわてて交代のために父さんに声をかけにきたはずなのに。 自室で案の定片付けを放り出して本に没頭してしまっていた父さんに声をかける前に、僕の方がまたぼんやりしてしまっていたらしい。 「っ、もしかして胸が痛むとか、」 「違うよ、ちょっとぼんやりしてただけ。大丈夫だから。」 心配そうに僕の顔を覗き込む父さんに苦手な笑顔を無理やり作ってみる。 「お風呂、入っておいでよ。……片付けは、今日はもう諦めてさ。」 隣人の事を考えていたなんてなんとなく父さんには知られたくなくて。誤魔化すように床に散乱している本の山に視線を巡らせれば、父さんは乾いた笑いを浮かべた。 予想通り、片付けは本日中に終わることはなさそうだ。 「あはは、……えっと、ご、ごめんなさい。あ、明日は頑張るからね。本当だからね。」 「はいはい。」 逃げるようにバスルームに向かうその背中を見送ってから、諦めのため息ひとつ。 さてと。やっぱりこうなったか。 僕は本の入ったダンボールと共に隅に置かれていた布団を抱え、自室の方に運び込んだ。 こっちは夕食前には全て片付け終えていたから、二人分の布団を敷くスペースも十分ある。 同じ部屋で眠るなんて多分子供扱いしないで欲しいと頼んだ小学生以来だ。あの当時、過保護すぎる父さんは成長を喜び僕に部屋を作ってはくれたけれど、非常に悲しそうな顔をしていたのを覚えている。だから、まぁたまにはこういうのも悪くないかもしれない。 僕はベッドの隣に並べるように布団を敷いてから、なんとなく窓の外へと目を向けた。 綺麗に半分欠けた上弦の月が、淡い光を放っている。 そういえば、ここからなら高層ビルに切り取られない広い夜空が見えるんだろうか。 長湯して火照った身体を冷ますのにもいいかもしれない。そう思った時には部屋の窓を開け、ベランダへと出ていた。 窓を開けた瞬間、春の暖かな夜風が頬を撫ぜていく。風呂上がりで火照った肌には心地よくて、思わず目を細めていた。 やっぱり空、綺麗だな。錆びた手すりに寄りかかってぼんやりと広い夜空を見上げれば、視界の隅に僅かに映った蜂蜜色。 「あ、」 思わずあげた声に、手すりにだらりと預けていた存在が身じろぎして、ベランダの隔壁越しにこちらを覗き込んできた。 「ん?……よっ。」 僕を目にした蒼い瞳は嬉しそうに細められ、挨拶がわりに彼の片手が軽く上げられる。 「あ、こ、こんばんは。」 どうしよう。 何か話した方がいいんだろうけど、いったい何を。 そもそも人とコミュニケーションを取るのは苦手な上に、相手は何もかもが謎すぎる隣人。 どうしていいのかわからず固まる僕に、ふ、と小さな笑みが向けられた。 「翡翠も聴きに来たのか?」 「え?」 思わず聞き返してしまっていた。 星空を見に来たでも、涼みに来たでもなく、聴く、とはいったい何の事だろう。 言葉の意味を図りかねて首を傾げていると、静かに、と彼は自らの口元に人差し指をあててみせた。 口を噤み、耳を澄ませてみる。 すると僕にもそれが聴こえてきた。 「……バイオリン?」 注意して聴いていなければわからないほどのわずかな音。 けれど、それは確かに夜風に乗って耳に届いてきた。 「上の人が弾いてんだよ。毎晩今ぐらいの時間から、きっかり夜の九時まで。」 上の階の人。今日菓子折を持って挨拶に行ったから覚えている。確か黒縁の大きな眼鏡をかけた小柄な男の人だった。 優しそうな人だなとは思ったけれど、そんな印象通りの穏やかで優しい音が耳に心地いい。 「クラシックなんて全然詳しくないんだけどさ、なんかこういうのいいよなって時々聴いてる。」 「……わかる。綺麗な音、だよね。」 思わず頷けば、彼はニカッと白い歯を見せて笑った。 「この曲なんだっけ。子犬のワルツ?」 「……愛の挨拶。」 「あー。……ベートーベ…」 「エルガーだよ。」 なるほど、この人本気で詳しくないな。 思わずじとっと見つめれば、彼はペロッと舌を出して逃げるように視線を泳がせたから、思わず笑ってしまった。 くすくす笑う僕に、隔壁越しに隣から聞こえるつられ笑い。 僕を見つめる蒼穹は、聴こえてくる音みたいに優しい色をしていた。

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