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一 寿志千

 時はひと月前にさかのぼり── 「ついにきたな……」  寿(ことぶき)志千(しち)は浅草公園第六区の興行街に足を踏み入れた。  八月も中旬を過ぎたというのに暑気が衰える気配はなく、薄物にパナマ帽という軽装だ。  今年の夏は酷暑である。  七月からすでに猛威をふるっていた熱気はいまだ色濃く、じりじりと地面を焼いている。  活気に満ちた街は人の往来が多いせいか、よけいに蒸し暑く感じられる。歩いていると喧騒で息苦しくなるほどだった。  にぎやかな通りの両端に、興行のための建物が所せましと立ち並んでいた。  映画、歌舞伎、軽業、化物屋敷、寄席、見世物、新劇、オペラ──新旧の娯楽をすべてごった返し、まぜこぜにしたような有様だ。  斜めに突きだした(のぼり)がはためき、染め抜かれた文字が躍っていた。  はるか高くにそびえる日本一高い展望塔、凌雲閣(りょううんかく)──通称・浅草十二階を見あげ、志千は胸を高鳴らせた。  ──この浅草に自分の名が刻まれた幟を立てて、大勢の客を呼び込んでやる。  青年は野望を抱き、生まれ育った横浜を離れ、帝都でもっとも大衆娯楽の盛んな浅草にやってきたのだった。  ***  十二階のふもと付近までやってくると、お祭り騒ぎのようににぎやかだった空気が突然鳴りをひそめ、街はがらりと形相を変える。  縦横に伸びる細い路地の奥は妙に暗く感じられ、空までもが灰色になったかのようだった。  塔の下では、銘酒屋(めいしや)と呼ばれる売春宿が軒並みに暖簾(のれん)をおろしている。  数千ともいわれる女たちが身を寄せる、帝都最大の私娼窟(ししょうくつ)である。  男一人で道を歩いていれば、数歩ごとに声をかけられる。  紅い唇と白い胸元を見せびらかして、窓の向こうで焦らすように顔を隠した娼婦が手招きをしている。  志千が帝都でもとくに治安が悪いといわれる十二階下の下宿屋を選んだのは、単純に家賃が安いからであった。  小路が交差する土地に迷い、店先に立っていた娼婦に道を尋ねた。 「悪い、姐さん。この住所の場所を教えてくれねえか」 「どれどれ……」  紹介状に書かれた住所を読みあげると、娼婦はおかしそうに噴きだした。 「なんだ、化物屋敷じゃないか」 「化物屋敷?」 「異人の幽霊がでるんだってさ。金色の長い髪をした女が窓辺にぼやっと現れるんだとか」 「そりゃ、ただの異人じゃねえのか?」 「家の外では見かけないんだよ。どちらにしても恐ろしいのは同じだろ。あんた結構いい男だからさ、女の霊に憑かれても知らないよ」  礼をいい、教えられたとおりの道を進む。  やがて、離れた場所にぽつんと佇んでいる家にたどり着いた。  門柱に『牡丹荘(ぼたんそう)』という真新しい表札がかかっている。控えめにいって、ただの古びた木造二階建てだ。名前負けもいいところである。  建物自体は古いのだが、窓にステンドグラスがはまっていたり、レエスの掛け布を飾っていたりと、精一杯の遊び心が垣間みえる。花壇で囲われた庭も手入れが行き届いていた。  このちぐはくな異国情緒が、妙な噂を呼んでいるのだろうか。  なんにせよ志千は幽霊の類を信じない質だ。安くて仕事場に近ければなんでも構わない。  紹介状に書かれた名を見るかぎり、下宿屋を営んでいるのは女主人のはずだ。少女趣味の未亡人、または老婦人が思い浮かんだ。  玄関の戸は半分ひらかれ、日除けの(すだれ)が吊るされている。 「ごめんください」  隙間から呼びかけると、薄暗い廊下の奥から人のでてくる気配がした。 「はあい。紹介の方かねえ。ちょっとお待ちよ」  床に落ちた小さい影からして、非常に背丈の低い年配の婦人のようだ。  意外にも機敏な動作であらわれた家主は、その年代にはめずらしく洋装を着こなしている。  割烹着ではなくフリルをあしらった前掛けに、足元まで隠れるドレス、頭を覆うひらひらしたキャップから垂れたおさげ。  まるで異国の絵本に登場する上品な老婆みたいだった。 「あらまぁ、おにいさん。いい男っぷりだね。それに、声がいいよ。女好きのする甘い声だね」  服装に似合わず、口調が軽妙なのは下町の人間らしい。  しかし、印象の不一致はそれどころではなかった。 「はは、ありがとよ。おかみさん──」  玄関先に差し込む陽光に照らされた女主人は、どこからどう見ても、せいぜい十歳前後の子どもだった。 「って、ガキじゃねえかよ」  つい不躾な言葉がでる。  少女はやれやれといわんばかりに、頬に手をあててため息をついた。  息子にあきれたときの母親を彷彿とさせる所作だ。 「はあ。せっかくの美声に似合わず柄が悪いねえ。悪漢みたいな喋りかたをして。そういうの、ちょっとがっかりするねえ」 「そりゃ、すんませんでしたね」  見かけによらないのはどっちだと言い返しそうになって、なんとか思いとどまる。  他に下宿先のあてもない。追い返されて困るのは自分だ。 「御前(おまえ)さん、いい声をしているんだから、もっと紳士に喋りなさいな」  べつに悪漢でもなんでもないのだが、志千がいる界隈は紳士とはほど遠く、見せかけの華やかさに反して醜聞も多い。幼いころから出入りしているうち自然と口は悪くなった。  肩まで伸びた散切り頭に半端な無精ひげ、暑さゆえの着流しという身なりも、初対面の挨拶にふさわしいとはいえない。 「……肝に銘じとくよ」  ここは譲ることにして、早く話を進めたい。  汗のにじんだパナマ帽を脱ぎ、多少は整えるつもりで髪を後ろに掻きあげた。  記憶をたどり、手紙に書かれていた名を思いだす。 「あー、蝶子(ちょうこ)さん? だっけか。どこかに親がいるわけじゃなくて、本当にこの下宿屋の主人?」 「うん、そうだよ」 「蝶子でいいか?」 「いいわけないよ。淑女に対して失礼な」  ちいさな鼻を鳴らして、猛然と抗議してくる。  子どもだという事実は一旦脇に置いて、相手が初対面のご婦人だと考えれば無礼といわれるのは当然である。 「……蝶子さん。ここに住まわせてくれねえか。紹介状は持ってきた」 「話は通ってるよ。今住んでるのはウチの他に一人しかいなくね。部屋は空いてるんだ。(まかな)い三食付きでひと月十五円。洗濯掃除繕いものは希望がありゃ別料金でうけたまわるよ」 「じゃあ、遠慮なく世話になる。俺は横浜からきた──」 「伊勢佐木(いせざき)の新星、寿志千だろ」 「知ってんのか?」 「もちろん。横浜には行ったことないけれどね。なんてったって、物心ついた頃から興行を観てるんだよ」  だとしてもせいぜい数年ではないのか、とは口にしなかった。 「ウチはなんでね。才ある若手を応援したいんだ」  ひっひっひという怪しい含み笑いで、少女は志千を見あげた。  狐っぽい目元をしているものだから、なおさら化かされているのではないかという気分になる。  馬車道に寄って買ってきた手土産の菓子ビスカウトを渡すと、このときばかりは年相応に瞳を大きくして喜んでいた。 「さっそく御前さんの部屋に案内しようかね。ついておいで」 「はいよ……」  ちょこちょこと階段をあがるうしろ姿も、やはり幼い子どもだ。  話は問題なくまとまったものの、何度も首をかしげてしまう。何者かに図られているのだろうかという疑いの気持ちは晴れなかった。  一階には台所と居間があり、下宿人の部屋は二階となっている。  奥の一室は空き部屋。短い廊下で隔てられた向かい側に先住人がいるらしい。  志千に与えられたのは通りに面した四畳間で、あらかじめきちんと片付けられていた。家具も箪笥(たんす)、文机、布団一式が揃っている。  男一人が暮らすには十分すぎるほどである。  窓をあけると十二階が見えた。空はあいかわらず灰色に思えるが、塔を跳ね返ってくるのか、気持ちのいい風が吹いている。  とうとう憧れの地にやってきたのだと実感が湧いてきた。 「地元じゃ多少知られていても、天下の浅草じゃ俺は新参だ。裸一貫からはじめるつもりで気合いをいれねえとな。ここで名をあげりゃ、いつかはあの人に会えるかもしれないし──」 「ももちゃん、ももちゃんや!」  せっかく浸っていた感傷は、家主の間延びした声にかき消された。 「お隣さんが増えたんだよ。家賃が入ったから、今晩は奮発してライスカレーだからね。煙草ばっかり喫んでないで、ちゃんと食べにおりといでよ!」  向かいの襖をちいさな手でばしばしと叩いている。  大きさは違えど、本当に母親みたいだ。  一つ屋根の下で暮らす隣人の姿くらいは見ておこうかと、好奇心で廊下をのぞいた。  だが、部屋からは物音ひとつ聴こえてこない。結局、蝶子が根負けした。 「ちっとも起きやしない。もう、何時だと思ってるんだい」 「隣のももちゃんとやら、どんな奴なんだ?」 「んー」  少し考えて、困ったように顔をほころばせた。 「しようのない子だよ」  どうやら隣人はあまり素行のいい人物ではなさそうだ。  怪しい家主に、怪しい隣人。賃料が安いだけのことはある。 「……もしかして、おかしな家にきちまったか」  幽霊は平気だが、生きた危険人物となれば別の話だ。  暮らしが落ち着いたら、早々に転居を考える必要があるかもしれない。  意を決した門出のはずが、出鼻をくじかれた気分になった。  だが、その夜──  志千は、あっというまに掌を返した。 「いやぁ、人ってのは第一印象じゃわかんねえもんだぜ」 「いきなりなんの話だい」 「なんでもねえ。ライスカレー、もう一杯おかわりしていい?」 「たくさん作ってあるよ。いっぱいお食べ」  蝶子の作ってくれる飯が、べらぼうに美味かったからである。

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