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十一 菊人形(前編)

 広い庭には、菊らしき植物が群生していた。  志千(しち)は案内してくれた蝶子に尋ねる。 「まだ咲いてねえじゃん」 「庭のは野菊だからね。秋が深まれば咲きはじめるよ」  建物は工場のように飾り気のない造りで、大きな窓が並んでいる  雨風に晒されて古びており、本来の目的にはもう使われていなさそうだ。  もとはなんのための建物だったのかわからないが、どことなく馴染み深い雰囲気である。  壁に切りだした文字が残っているのに気づいて、ようやく合点がいった。  縁以外の色はすっかり消えているが、『鶴月(かくげつ)キネマ撮影所』と書かれている。 「活動写真の撮影所? 鶴月って、あの鶴月座だよな」 「そう」  鶴月座とは、初代残菊が所属していた劇団である。  当時は帝都でも屈指の人気を誇っており、飛ぶ鳥を落とす勢いで公演を重ねていた。  しかし、初代がいなくなった影響は大きかったようで、明治から大正に移り変わるにつれ、かつての盛りは少しずつ衰えていった。  現在は女優養成所の運営や、西洋の翻訳劇中心の上演をおこなっている。  以前ほどの規模ではないものの、芸術志向の由緒ある劇団といった印象だ。 「あそこは舞台演劇だけと思っていたが、活動も撮ってたのか」 「それが、この撮影所をつくったはいいけれど、すぐ撤退したみたい。看板女優の残菊が活動嫌いだったしね。座長がいまだ取り壊さずに置いてるだけで」  屋内撮影専用のようで、撮影所としてはそれほど広くないため再利用されているようだ。  蝶子は正面玄関には向かわず、庭の裏手に進んでいく。 「ちなみに、ももちゃんがいる松柏(しょうはく)キネマの社長はもともと鶴月座の出身なんだよ。これからは活動の時代だって、脚本家と一緒に何人か引き抜いて独立したんだって。だから今も芝居関係の集まりなんかで顔を合わすと、火花を散らしてるらしいよ」 「へー」  業界の裏話にさほど関心があったわけではないが、そんな因縁があるにもかかわらず、松柏キネマは残菊の名を利用して百夜(ももや)をデビューさせたということだ。  さぞ心証が悪かろうと志千は思った。  当人であるはずの百夜は、話を聞いているのかいないのか、まったく興味がなさそうに後ろからついてきている。  庭の奥に管理人室がひっそり建っていた。  巡査派出所を思わせる、事務的でちいさな小屋だ。 「おーい。萩尾(はぎお)のじいさん、いるかい?」  蝶子が錆びた青い金属の扉を叩くと、こもった声で返事があり、小柄な老人がでてきた。 「はい、はい。蝶子ちゃんですね。今日は百夜くんも一緒ですか」 「こんにちは。菊をわけてくださいな」 「すぐに鍵を用意します。おや、そちらは?」 「あたらしい下宿人のしちちゃん。活動弁士なんだよ」  志千の姿を認めると、嬉しそうに相好を崩した。  下駄を履いていても志千の肩に届かないほど背が低く、皺だらけの顔で笑う。 「そうですか。私は活動というのを観たことはありませんが、百夜くんが一緒に出歩くくらいですから信頼できる人なのでしょうね」 「べつに、まだ信頼はしていないが?」  食い気味に百夜が答える。 「こんなときだけ喋りだすなって」  ずっと黙っていたくせに失礼な男である。 「人と歩いただけでめずらしがられるって相当だぜ。もっとお友達つくったら?」 「ほっとけ。余計な世話だ」  相変わらず無愛想ではあったが、『まだ』というからには今後進展する余地くらいはあるのだろう。 「なんだよ、今のは俺がいるって答えるとこだろ?」 「うるさい。友達じゃない。貴様、そういうところだぞ」  もう一度肩に腕をまわしてみると鬱陶しそうに振り払われたが、怒りはしなかった。  萩尾に正面玄関の鍵を開けてもらう。  内部は壁の大部分が取り払われた構造で、倉庫みたいにがらんとして広い。  足を踏み入れると、すぐにおびただしい数の色彩が視界に飛び込んできた。  見渡すかぎり花。それも、すべて菊だ。  あらゆる色が揃っており、異国産のめずらしい品種まである。  もとが撮影所だけあって採光を考慮した造りになっており、天窓から日光が射し込んでいた。 「花もすげえけど、なんでこんなに涼しいんだ? 外は真夏日なのに、肌寒いくらいだぜ」 「調整しているんですよ」  と、萩尾がいった。 「重要なのは、大女優残菊がもっとも愛していた黄の『狂い菊』を絶やさないことです。本来は晩秋に開花しますが、ここでは一年中咲くように育てているんです」  狂い菊は江戸の頃から帝都で栽培されている、中輪の品種だ。  黄金色の細く繊細な花弁は開花後にねじれ、何度も姿を変えながら狂い咲く。  まるで舞台に立って舞う女優のように。  百夜の部屋に飾られていたのはすべてこの花だった。  花壇を天井まである仕切りで季節ごとの四ヶ所に分け、室温と日照時間を調整することで開花時期をずらす。  そのようにして一年中、四つの花壇のうちいずれかで菊が咲くように育てているのだという。 「そろそろ一の花壇以外は天窓を閉める時間ですね。菊は短日植物で、夜長を好みます。この時期は早めに暗くしなければなりません」 「窓は閉めりゃいいだろうが、この涼しさはどうやって?」  萩尾のかわりに、蝶子が得意げな声で教えてくれた。 「奥の機械室に、舶来品のどでかい製氷機械があるのさ。潰れた工場から買いとったのを運んできたんだよね」 「はい。通風口をとおして各部屋に冷気を運び、開閉の頻度や風の強弱によって四季の気温を再現しています。そういった細かな管理をするのが私の主な役目です。稼働中の機械は危険ですので、残念ながらお見せはできないのですが」  絶えず氷をつくって建物全体の空気を調整しているとは、とんでもない維持費がかかりそうだ。 「菊のために、なんでそこまで……」 「商売の一つなんですよ。鶴月座の座長は劇団を結成するまで、見世物の興行を打っていました。いまも細々と続けておりましてね。使用する花はすべてここから出荷しています。別室に人形の一部が保管されていますので、ぜひご覧ください。手塩にかけた自信作なんです」  萩尾のあとについて、小道のように整備された花壇の中を歩く。  これだけ大量に咲いているのだから当然だが、むせ返るような花の香が充満していた。  そこに、ほんのわずかな刺激臭が混じっている。 「なんか、妙なにおいがしねえか。線香というか、薬品みたいな」 「農薬か肥料でしょうね」  得意なにおいではなかったため、なるべく吸い込まないようにしてあとをついていった。  案内された別室には、撮影所だった頃に使われていたのであろう背景美術や道具などが置かれていた。  ただの物置ではなく、今もカメラがまわっているかのようにきっちりとセットが整っている。  それぞれちいさな箱庭のような空間ができあがって、広い部屋の中に様々な映画のワンシーンが点在していた。  一瞬、各セットの中で役者が演じているように見えたが、立っているのは人間ではなかった。菊の花を身に纏った等身大の人形である。  それも、すべて初代残菊をかたどった生人形(いきにんぎょう)であった。 「菊人形の展示か。こりゃすげえ」 「ええ。綺麗でしょう。鶴月座は日本の各地で菊人形の見世物を打っています。儲けはさほどないのでしょうが、座長がお好きでね。私も元は菊師なもので」  残菊は『生ける菊人形』とまで呼ばれていた美貌の人。  失踪して十年が過ぎ、すでに『伝説』となってしまった残菊の見世物は、大正の現代こそ需要があるのだという。 「興行が終われば人形は解体してしまうことが多いのですが、名立たる生人形師たちが制作した逸品はここで特別に保管してあるんですよ」  萩尾が誇らしげに解説してくれた人形師たちの名は、志千でも知っているほどの錚々(そうそう)たる面々ばかりだった。  遠目にも壮麗だったが、近くに寄るとなおさら見事だ。  髪といい、肌の質感といい、本当に生きているようだった。こめかみや頬にうっすらと青い血管すら浮いているのである。  毛の一本、歯の一本ずつさえも丹念に埋め込んでつくると聞くが、まさに魂を吹き込んでいく作業に等しい。  職人の執念めいたこだわりがあるからこそ、これほど生々しい出来栄えになるのだろう。  体の部分は木組みの空洞となっており、根付きの花束をい草で縛って固定する。  小菊を使って隙間を埋め、ひとまわり大きな狂い菊を要所にのみ飾ることで、かえって目立たせている。  こうして人形に菊を飾るのが菊師の仕事だ。  萩尾が自信作といっていただけあり、花壇に植えられているときと同じように瑞々しく開花していた。   どんな着物よりも残菊に似合う。  見る者にそう思わせる絢爛(けんらん)さであった。

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