34 / 41
二十六 追跡(前編)
違法芝居の『生ける菊人形』は密やかに、あくまでも風の噂によって広がっていった。
誰も表立っては口にしないが、当時の古参ファンはこれらの脚本を誰が書いているのか勘づいているようだ。
劇作家小山内 桜蒔 と大女優残菊。
黄金期だった頃の鶴月座 に熱狂していた芝居好きたちは、十年の時が経ってもこの組み合わせの復活を待ち望んでいたらしい。
観客は順調に増え、いまや客席が手狭になるほどだった。
そして──第七幕にして、獲物がかかった。
舞台が終わったあと、投げ入れられた花束や手紙はいつもどおり蝶子が回収してくれて、楽屋に持っていった。
志千 は上機嫌で楽屋の扉を開け、椅子に座っていた百夜 に絡んだ。
「百夜、どうだった? 俺の声色は。今夜も完璧だったろ?」
「ああ……。志千、舞台が終わった後はいつも浮足立っているな」
上演がうまくいった日は、精神が昂ぶる質だ。
反対に、重量のある衣装を着ていた百夜は疲れきっていて脱力している。
「だって、おまえとの演技って一体感すげえんだもん。普段の説明より興奮する」
「わかった、わかった。着替えるからはなれろ」
「なんだよー、昨日はあんなに可愛かったのに」
普段の態度に戻ると相変わらずそっけないが、あの嬌態を知っているのが自分だけだと思うと、誰に向けるでもない優越感が湧く。
「志千、それより、これを見ろ。例の脅迫状が届いた。ついに獲物がかかったようだ」
封を開けると、新聞の切り取りによるメッセージが入っていた。紙のあいだには手折 られた黄の狂い菊が挟まっている。
すべて二年前と同じ。百夜に聞いていたとおりだ。
『今度コソ 残菊ヲ殺ス』
近頃は観客が増え、警察に見つかる可能性も高まってきた。
とりあえず芝居小屋から退却しようと話し、髪を結ってやってから声をかけた。
「百夜、無理すんなよ」
まだ百夜には話していない、抽斗 に入っていた黒い器具のことを思いだす。
はたして、まともな状態で見つかるのだろうか。
真実を追えば、どれだけ残酷な結果が待ち受けていても逃げられないのだ。
「べつに、していない」
言葉とは裏腹に、指は志千の服の袖をきつく掴んでいた。
「おれが捜してあげないといけなかったのに、幼いままではなにもできなかった。でも、今は志千がいるから大丈夫だ。桜蒔先生と蝶子も」
「うん。ここにいるから」
指を絡めて手を握り、後ろから抱きしめる。
「この脅迫状の奴が書いているとおりなら、残菊はきっとどこかで生きている。まだ、希望は消えちゃいない」
撤収後、牡丹荘に帰って二人にも脅迫状が届いたことを報告した。
「……おかしいのう」
手紙一式をちゃぶ台に並べ、その前で桜蒔は腕組みをしている。
「もも、この手紙、前回との違いがわかるか?」
「文面以外は同じように思えるが」
「あ~、わからんかぁ。やっぱりわしじゃないとなぁ」
得意げな顔で焦らしはじめた劇作家に、蝶子がいった。
「でた、名探偵リトルプリンセス!」
「なんだそりゃ」
意味不明な単語が飛びだして、志千は片眉をあげた。
「王子様はね、こんなんでも帝大出で、頭がよくってね」
「こんなんでも帝大出なんだ。すげえ」
誰がこんなんじゃあ、と桜蒔が怒る。
「自分だけなにかわかったとき、一度はもったいぶるんだよ。探偵映画みたいに」
「めんどくせえな。さっさと話してくれよ」
「なんでわしだけ雑な扱いなんじゃ! ずるい、わしもお嬢やももみたいに甘やかされたい!」
「よしよし、大人なんだから落ち着いてくれ。で、なんだって?」
形だけ頭をぐりぐりすると、桜蒔は機嫌よく話を進めた。
「ではクイズじゃ。二代目残菊のデビューはいつだったでしょう!?」
「二年くらい前だろう」
と、百夜が答える。
「ざっくりじゃのう。じゃあ、シッチー」
「あれは忘れもしねえ大正七年の十一月、俺とファム・ファタル〈運命の女〉との出会いはまさに運命とも呼ぶべき衝撃とともに──」
「ちょ、うるさい。シッチーはやっぱり黙っとって。鬱陶 しい」
「んだよ。なんか関係あんの?」
「じゃけえ、あのときの脅迫状や嫌がらせが始まったんはデビューしてすぐなんよ」
「それで?」
しゃあないのう、と桜蒔は鼻で笑っていった。
「特別にもう一つヒント。今日も舞台に花束が投げられとったじゃろ。その中に、菊はあったか?」
「菊?」
急に話が飛んだように感じて、志千は言葉を繰り返した。
「初代残菊といえば黄の狂い菊じゃ。当時のご贔屓 から贈られる花も、時期になったら狂い菊ばっかりじゃった」
最も花に詳しい蝶子が代わりに答えた。
「今日は菊の花束はなかったねえ。あ、ウチは答えがわかったよ!」
「お嬢はほんまに賢いのう~。いいこいいこ。おどれら二人は?」
百夜と視線を交わして、互いに首をかしげる。
「さっぱりわかんねえ」
憎たらしいほど勝ち誇った表情で肩をすくめ、桜蒔はいった。
「お嬢、次回の映写係はまかせてええか。この犯人、今度こそわしが捕まえちゃるわ」
結局、答えは教えてもらえずじまいであった。
***
それから第七幕の上演までの数日間、桜蒔は志千たちの前に顔をださなかった。
自分ならば捕まえられると豪語し、狙いは当たっていたものの──結果的に、失敗してしまった。
しかも、取り逃がした理由は、完全に体力のなさのせいである。
閉演してすぐに舞台から下りた志千は、忙しなく観客を小屋から追い立てた。
今までは蝶子の役目だったが、今回は桜蒔に変わって映写を担当している。
急かされた客たちは一応文句をいいながらもおとなしく解散していく。
最後の客がでて、入り口を閉ざす。
いつもであれば百夜が衣装を脱ぐのを手伝うのだが、今回はすぐに扉から外へでた。
顔を見れば犯人がわかると桜蒔がいうので、一つしかない出入り口の外で観客がでてくるのを見張っているのだ。
「あれじゃ! 黒い帽子とマスク!」
深夜の路地に出た途端、桜蒔の叫び声が響く。
相手は見つかったことに気がつき、ぱらぱらと歩いていた観客の合間をかいくぐって逃げだした。
そして、追いかけようとしていたもやしっ子の劇作家は、あっさりとへばってしまった。
志千が駆け寄ると、たいした距離を走ってもいないのに肩で大きく息をしている。
「先生、ひ弱かよ」
「は、シッチー、あいつ、捕まえろ。ハァ、わしにばれたけん、もう小屋には来んぞ。ぜえ、ぜえ」
自分で取り逃がしておいて、といいたかったがそれどころではなさそうだ。
どうしてあいつが手紙の差出人だとわかったのか、いろいろと訊きたいことはあるが、捕まえるのが先だ。
前方を駆けていく人影が、一瞬だけちらりとこちらを振り返る。感冒 が流行していたときのようなマスクをつけており、顔までは確認できない。
話しているあいだにすっかり引き離されて、志千は軽く舌打ちし、追跡するため桜蒔をその場に置いて走りだした。
相手もそれなりに身軽で速い。おそらく、若い男だ。
だが、志千も体力には自信がある。
徐々に追いつきそうになったところで、人に紛れるつもりか、犯人は十二階下でもっとも賑やかな町内に入っていった。
こんな時間にこんな場所にいるのは、娼婦、ごろつき、あるいは遊び帰りの学生たちくらいのものだが、深夜だというのに通りにはまだ人が多い。
角を先に曲がられたせいで見失ってしまった。
「くそっ、どこに行った──」
そのとき、よく知る声が犯人の逃げた方角から聴こえてきた。
「こっちだ!」
百夜の声だった。
打掛 を脱いで袖頭巾 を被った姿で、転んでしまったらしく路上に膝をついている。
女性用の着物と下駄が走りにくいせいで、鼻緒が切れたらしい。
このあたりは蝶子の庭みたいなものだから、犯人の逃げる進路を予想して、百夜が抜け道から先回りしてきたのだろう。
おかげでふたたび犯人を視界に捕らえることができた。
「おい、止まれ!」
犯人に向かって叫びながら、急いで百夜のほうに向かった。
あちこちから「なんだ、喧嘩か?」などの声が上がっている。
しかし、揉め事に慣れているこの土地の人々は、にやにやと煙草を咥えて遠巻きに眺めているか、無関心に通り過ぎるだけだ。
マスクの犯人が、百夜の姿を見つけて目を見開いた。
「残菊……!?」
さらに周囲を見渡している。
さきほど男の低い声がしたため、敵の援軍がどこにいるのかと探しているのだろう。
目の前の百夜から発せられたものだとは結びつかなかったようだ。
「そいつから離れろ!」
志千は二人のいるほうへ走った。
犯人はいくらか迷った末に、帯から懐刀を取りだした。
百夜を見おろし、おそらくは顔面に狙いを定めている。
「おい、本気かよ。やめてくれ──」
ぎらついた刃が、真夜中の私娼街の風景を反射していた。
まるでゆっくりと映写機をまわしているみたいに、世界が細切れに見えた。
ともだちにシェアしよう!