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二十九 愛と憎(後編)

 ガツン、という聞き覚えのある音が建物内に響いた。以前よりも若干重たい音だ。  猪瀬(いのせ)が短刀を落とし、前に倒れる。  その真後ろから、葡萄酒の瓶を握りしめた百夜(ももや)が現れた。  走ってきたのか、肩で息をしている。 「百夜!? なんで!?」 「正当防衛だ。怒るなよ」  暴力はやめろと説教したことに対する言い訳らしいが、それよりも訊きたいのはなぜここにいるのかだ。  葡萄酒は炊事場から持ってきたようだ。中身が満たされているため、前回の空き瓶よりも威力があがっている。  猪瀬は意識こそ失っていないが、うずくまって動かなかった。 「蝶子さん、早く!」  その隙に、蝶子が男の腕からすり抜けた。  志千(しち)は走ってきた少女を受け止め、抱きあげて桜蒔(おうじ)に預ける。  芙二子(ふじこ)は自分だけずらかるつもりらしく、菊の花壇がある部屋のほうへ去っていった。 「ちょっと待てや!」  桜蒔は蝶子を抱えたまま、その後を追っていった。 「ももや──」  こちらに呼ぼうとしたそのとき、顔をあげた猪瀬が、百夜の腹を拳で殴りつけた。  百夜はよろめき、後ろにいた仲間が両腕を拘束して無理やり地べたに座らせる。  同時に、奴らの一人が動きを止めた志千のところにやってきて羽交い締めにした。 「そいつを離せ!!」  今すぐ全員を殴り飛ばして助けたかったが、百夜の喉元に短刀が突きつけられているので下手に手出しができなくなった。 「動くなよ。顔に傷どころじゃ済まさねえぞ」  顎を乱暴に掴まれ、百夜が(うめ)き声を漏らす。  後ろの奴が髪を鷲掴(わしづか)みにし、上を向かせた。 「おい、なにする気だよ……」 「この薬、催淫効果もあるらしい。とくにヤられる側がイイんだってよ。このくらい綺麗な顔なら女の代わりになりそうだ」  猪瀬は無理やり百夜の口を開けさせ、『悲しみを忘れられる薬』を溶かしている葡萄酒を飲ませた。  唇から血の色をした液体が(あふ)れ、滴り落ちる。 「やめろぉ!!」 「残菊と同じ薬で、気持ちよくしてやるよ」  百夜の帯が切り裂かれた。藤色の着物に合わせて志千が買ったものだ。  胸元がはだけ、肌が露出する。  雫は(へそ)のあたりを伝い、赤い花畑にぽたぽたと落ちていく。 「頼む、やめてくれ……」  目の前で行われている狼藉(ろうぜき)に、視界が真っ暗になった。  百夜の白い体には、昨晩志千がつけた刻印が散らばっている。  その跡に指を滑らせ、猪瀬が笑った。 「ははっ、なんだ。活弁士、すでにおまえの手付きか。母親に似て尻が軽いな」  裾をずりあげ、(もも)に手を伸ばす。 「指を(くわ)えて見ていろ、低俗な活動屋ども。さて、後ろの具合はどうかな」  短刀の前に自分が飛び出せば、少なくとも百夜が斬られることはないだろうかと、志千は必死に考えた。  百夜との約束を破ることになるが、もう無理だ。耐えられない。  後ろの奴を振りほどこうとした瞬間──  無理に酒を呑まされて朦朧(もうろう)としていた百夜が、正面から覗き込むような体勢をしていた猪瀬の下顎を思いきり蹴りあげた。  短刀が宙を舞い、罌粟(けし)畑の中に落ちる。  その機を逃さず、志千は自分を拘束していた相手の胴体に肘鉄を食らわせた。  腕を振り払って、百夜のもとへ急ぐ。  猪瀬は仰向けに倒れた。だが、まだ仲間がいる。  激昂した鶴月座(かくげつざ)の連中がふたたび百夜に手を伸ばしたとき、威圧感のある声が響いた。 「動くな!!」  制服を着た複数人の男たちが、栽培所に踏み込んできた。 「……警察!?」  サーベルを下げた巡査たちである。  なぜ、という疑問は置いておき、百夜のそばへ駆け寄って、手を握る。 「百夜、大丈夫か!?」 「……どうだ。志千ばかりを危ない目に遭わせなくても、自分でなんとかできただろう」 「馬鹿。ボロボロのくせに強がんな」  微笑んでから、警官の目を盗んで猪瀬を一発蹴りつける。 「暴力反対じゃなかったのか……」 「おまえに触られて、ただで済ますわけねえだろ」  今度こそ失神した若い男をその場に放置し、咳込みだした百夜の上半身を抱き起こした。 「シッチー、無事か!?」  正妻を追いかけていった桜蒔が、蝶子を連れて戻ってきた。 「俺は無事だけど、百夜が……」  地面に転がった葡萄酒を見つけて、すぐに察したようだ。 「ももの体質的にアルコホルのほうがまずいな。無理に吐かせずに水を飲ませえ」 「わかった。あの奥さんは?」 「あっちで捕まったわ。見世物の地方巡業を隠れ(みの)にして、各地で薬を売り(さば)いとったみたいじゃけえの」  水やり用の水道から蝶子が()んできてくれた水を、飲めるだけ飲ませる。  酩酊(めいてい)した状態になっているが、今のところ幻覚などのおかしな症状は出ていないようで安堵した。 「警察なんていつのまに呼んでたんだ?」 「今朝ももを連れてこんかった理由はな、わしらが殴り込みにきとるあいだにこの周辺で様子を見て、罌粟の栽培がビンゴじゃったら派出所までいって巡査を呼べって伝えとったんじゃ」 「教えろよ! 俺にも!」 「近くにおるって知っとったら気ぃ散るじゃろ。過保護め」  なにも言い返せない。  百夜に危険が及ぶかもしれないと思うと、気が気でなかったと思う。 「お嬢を助けたんはももじゃ。わしは信頼して薬のこともぜんぶ話した。こやつももうガキじゃないけえ、ちったぁ任したれ」 「そうだな……。でも、毎度こんな状態になられたら、俺の心臓がいくつあっても足りねえ。無茶はもう少し控えてくれよ」  わかっているのかいないのか、志千の訴えを聞いた百夜はどこか満足そうだった。  さて、と桜蒔はまっすぐにこちらを見た。  その視線は志千を通り抜け、後方に向けられている。 「警察が来たからには自由に動けんようなるし、今のうちに話を聞いとかんといけんなぁ。のう、萩尾(はぎお)」  いつからそこにいたのか、老人は能面みたいなぬらりとした表情で、菊の花壇に立っていた。 「われ、知っとるんじゃろ。千代見(ちよみ)の居場所」 「はい」  あっさりとした自白に、志千は驚いて萩尾のほうを見た。 「どこじゃ。口を割らんままで(おり)の中に逃げられると思うなよ」  桜蒔は罌粟畑から拾いだしたらしい短刀を、萩尾に突きつけた。 「残菊さんは、この栽培所におります」 「なに……!?」  桜蒔は一瞬不意を食らったような顔をしていたが、すぐに羽織を(ひるがえ)して駆けだした。  今日唯一立ち入っていない場所、菊人形と撮影セットが置いてある部屋に向かっている。  蝶子に百夜をまかせ、志千も走って桜蒔のあとを追った。  ***  がらんとした広い部屋のあちこちに、映画のワンシーンを模した小さな空間が作られている。演じているのは菊人形たちだ。  前に来たときは見事だと思ったが、今はなぜかたくさんの視線の囲まれているような息苦しい気分になった。  時の動かない、閉じ込められた人形たちだ。  一つだけ、以前と違っている場所がある。  ショーウインドウに入れられて立っていた人形が、箱ごと横たえられていた。  上部が開き、狂い菊が敷き詰められた硝子(がらす)の箱は──まるで、透明な棺桶(かんおけ)のようだった。  その前で立ち尽くす桜蒔の瞳は、完全に光を失っている。  絵本を読み聞かせるような、どこまでも穏やかな声が背後から聴こえてきた。 「これでも薬品には詳しいんです。薬草や農薬の扱いにも慣れておりますし、最初は奥様からの依頼で『苦しみを忘れられる薬』も私がつくりました」  いったいなんの話をしているのだろう、と志千は妙に静かな気持ちで考えていた。  萩尾の声には現実感がなく、遠い場所から囁いているみたいだ。 「う…………うぇっ……」  茫然と立っていた桜蒔が、片手で自分の口を押さえた。  志千は我に返り、急いでそばに駆け寄る。  地面に手をついて吐きはじめた桜蒔の背をさすりながら、声をかけた。 「先生、大丈夫か……」 「ち、千代見……。本物の千代見じゃ。こんなところにおったんか」  嘔吐はとまらないが、もう珈琲の混じった胃液しか残っていない。  志千はその肩を抱きながら、おそるおそる硝子の中を見た。  ただの古びて色褪せた人形だと思っていた。  肌の色は黄ばんでいるが、質感は(ろう)みたいに滑らかで、安らかな表情も美しい。  萩尾の声が不快な機械音のように耳に響いて、それでも体が動かなかった。 「日本で見たことがないこの技術を確立するのはとても難しかったです。あらゆる薬品を使って、気温、湿度、実験による繰り返し──研究に七年もかかってしまいました。そのあいだ、残菊さんは薬のおかげでじつにおとなしく待っていてくださいましたよ」 「屍蝋(しろう)か……」 「さすが、坊っちゃんはご存知でしたか。あの人の望みどおり、大女優残菊は永遠に美しいままです。残念ながら、あなたとともに歳を取る選択はしなかった。正気であれば血迷っていたかもしれませんがね。二人目の子ができたとき、あろうことか人間に戻ろうとしていました。ですが、最終的に──残菊さんはあらゆる苦しみを忘れ、永遠に女優でいることを望んだのです」  場違いかとは思いつつも、聞かずにはいられなかった。 「なあ、なんだよそれ。残菊はどうなったんだ?」 「……西洋でいう木乃伊(みいら)じゃ。腐敗せず、生前の形を保ったままの。日本なら即身仏に近いか」  志千が絶句していると、後ろから足音がした。  蝶子と手を繋ぎ、よろめきながら歩いてきた百夜だ。 「母さん……?」  硝子の(ひつぎ)の前に膝をつき、残菊の頬に触れた。 「そうか……。気づかなくて、見つけるのが遅くなって、ごめん」  じっと唇を噛んでその様子を見ていた少女に、青年が尋ねる。 「蝶子は、知っていたんだな」 「何度もここに来て眺めていたから、なんとなく、この人形には残菊の魂が宿ってるんじゃないかって気がしてた。でも、そうだとしたら、すでに残菊は……。そんな恐ろしいこと口にできなかったんだよ。ごめんねえ」 「謝らなくていい。母さんを一人きりにしないでくれて、ありがとう」  なにかが焦げるにおいと、視界を薄く覆う煙に気がついた。 「百夜、離れろ!」  棺の周りの地面が、燃えている。 「おい、最初からこのつもりで……!」 「私の最高傑作です。渡すわけにはいきません。それに、これほど美しく完成した残菊さんが衆目(しゅうもく)に晒されて、下世話な三流記事に面白おかしく書きたてられるのは許せませんから」  だから、すべてを終わらせるつもりなのだ。  炎の線が、残菊と硝子の棺桶を囲んでいる。  萩尾は懐から薬瓶を取りだし、高く掲げた。 「早く逃げたほうがいいですよ。この薬品を撒けば一気に燃えあがります」 「……くそっ」  死んで逃げ切られるのは許しがたいが、こんな奴の心中に巻き添えを食うわけにはいかない。 「蝶子さん、走れるか!?」 「うん!!」  微動だにしない桜蒔を肩に担ぎ、反対側で百夜を支える。  硝子の棺に目をやり、志千はいった。 「百夜、ごめんな。連れて行けそうにない」 「ああ。わかっている。もう、いい……。もういいんだ。大女優残菊は伝説のまま消えた。人々の記憶に残る、美しい姿で」

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