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エピローグ

 百夜(ももや)は蝶子、桜蒔(おうじ)とともに、見送りのため新橋の停車場にやってきていた。  発車の汽笛を鳴らし、蒸気機関車が横浜に向かって走りだす。 「ももちゃん、ほんとは寂しいんだろ? もし止めていたら、しちちゃんは行かなかったと思うけれど……」 「いてくれたかもしれないが、困らせただろう。そんな志千(しち)は見たくない。置いていかれたわけじゃないし、もう昔とは違うから大丈夫だ」  黒煙で染まっていた空が青色を取り戻したあと、百夜はようやく線路に背を向けた。 「それに……おれにも、やりたいことができたから」  ふざけて汽車に向かって白いハンケチを振っていた桜蒔に呼びかけた。 「先生、おれは花村百夜として役者がやりたい。他の誰でもない、自分の名と姿で、堂々と日の下を歩けるように」  桜蒔は驚いていたが、すぐに大はしゃぎで百夜の手を握ってきた。 「ちょうど書きあげた脚本でのう、老紳士に見初められる蠱惑的な美青年役を探しとったんよ! 雰囲気に合う役者が見つからんでどうしようかと思っとったんじゃけど、ももならぴったりじゃ! さっそく監督に推薦しにいくで!」  立ち去る前、百夜はもう一度線路の向こう側を眺めた。  そして流れる雲を見あげ、つぶやいた。 「──さようなら、残菊」  ***  近頃はすっかり歩き慣れた六区の興行街。  帽子を被っているだけでとくに顔を隠してはいない。  そのせいで、街ゆく人々に見つかってしまった。 「ぎゃーー!! 花村百夜!! 美しーー!!」 「花村百夜!? どこ!?」  黄色い声援にも慣れ、愛想がいいとはいえないものの、話しかけられたら多少は応じることができるようになった。  いつもと違うのは、隣を歩いている青年の存在だ。 「いつのまにやら、すっげえ人気者になってんだもんなぁ。女優の頃より二枚目俳優としてのほうがむしろ売れてねえ? おまえが表紙の雑誌、地方の本屋でも積まれてたぜ」 「初主演作が大ヒットしたのは、桜蒔先生の脚本の功績が大きい。運が良かったな」 「デビュー初日にプロマイドを三千枚売った男がなに謙遜してんだよ」 「志千も、今回の代役でかなり名が知られただろう」  そう話しているそばから、通りすがりの男たちに声をかけられる。 「おっ、弁士の寿志千だ」 「先月地方で説明を聴いたが、苦手そうだった男役もよかったぞ。とくに花村百夜の声色は大はまりだったよ」  志千は愛想よく礼をいいながら、百夜のほうに視線を移して得意げに笑った。 「おまえの声を演じさせたら、俺が一番だからな」  久しぶりに会ったせいで、なんとなく照れくさくい。  つい(うつむ)くと、自分より背の高い青年に顎を持ちあげられ、無理やり見あげさせられた。 「……往来なんだが」 「だって、八ヶ月ぶりなのに全然二人になれねえんだもん」 「家まで待て。帰れば嫌でも二人きりだ」  蝶子は現在桜蒔の家に移り住み、浅草の小学校に通っている。  牡丹荘はまだ一応下宿屋の看板を掲げてはいるが、幽霊がでるという噂のボロ屋に住みたがる物好きなどそう現れないだろう。 「ちなみにだが──発つ前におれの一年分を摂取していったから、あと四ヶ月は権利がないぞ」 「はっ!? なんだよそれ、散々我慢してたんだぜ。まだ焦らす気か!?」  真剣に抗議してくる志千に、百夜は笑って訂正した。 「冗談だ。安心しろ。おれも辛抱できそうにない」  日本一の高さを誇る凌雲閣。煉瓦造りの塔が近づいてくる。  ふもとに広がる私娼街を歩き、牡丹荘の表札がかかる古い戸建てに到着した。  先に玄関へとあがり、百夜は重たそうな革鞄を下げている青年に声をかける。 「志千、おかえり」 「ただいま、百夜」  一緒にいると自然にでてくる柔らかい笑顔で、恋人を出迎えた。                  了

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