47 / 54

【番外編】百夜と寿家㈠

 今までに嗅いだことのない、初めての匂い。  鼻腔の奥をつく香辛料の香りを味わいながら、百夜(ももや)は白いクロスのかけられた丸テーブルの向かい側にいる青年に声をかけた。 「美味いな、これ」 「めちゃくちゃ辛くね!?」  メニュー表によると、四川の麻婆豆腐という食べ物らしい。 「辛くて美味い」 「百夜って顔に似合わず、辛いもん好きだよなぁ」  辛さに降参した黒髪の青年は、杏仁豆腐とかいう白い甘味と、胡麻(ごま)をまぶした饅頭を目の前に並べていた。  ミルクホールでも濃い珈琲を好む百夜や桜蒔(おうじ)を横目に、蝶子と同じソーダ水なんかを注文している姿をよく見る。 「志千(しち)は顔に似合わず、甘党だな」  年上の恋人が垣間見せる子供っぽい一面に、思わず微笑んだ。  支那料理屋をでたあとは、香ばしい湯気を漂わせている屋台へ向かう。 「次はあそこの豚饅頭を買おうぜ。いつも行列ができてるんだけど、絶品だからさ」 「まだ食うのか……」 「南京町の醍醐味は食べ歩きなんだよ。あ、この服──」  志千は露店に並んでいる商品に反応し、足を止めた。 「百夜にすげえ似合いそう」  浅草でも軽業の見世物などで目にする、大陸の民族衣装だ。  つやつやとした体に張りつく生地で、足首から腰にかけて深い切り込みがはいっている。  男物と女物、どちらを想定しているのかは知らないが── 「今、いかがわしい想像をしたか?」 「……まあ、そりゃ」 「東京に帰るまではなにもできないだろう。我慢しろ」  そこらじゅうで耳慣れない言葉が飛び交っていた。  ここは南京町と呼ばれる、支那料理の店が立ち並ぶ観光地だ。  百夜たちは現在、志千の故郷である横濱にやってきているのである。  ***  事の発端は、志千の実家からの呼び出しだった。  休日に桜蒔の家に押しかけ、昼間から酒を呑んでくだを巻いている最中の出来事である。 「そんでさ、つい乱暴にしちまって、俺すげー反省したんだよ」 「要は、嫉妬をダシに激しく目合(まぐわ)いよった話な」 「もっと深刻な相談してんだけど!」 「はあ〜〜おどれの悩みはぜんぶただの惚気(のろけ)なんじゃ!! ハイ解散!!」  下戸である百夜は酔っ払いのふたりを尻目に、本棚の蔵書を漁ったり、読み書きの練習をしたりと勝手に過ごしていた。  そんな折、呼び鈴が鳴った。  家主が酔っているため、しかたなく百夜が玄関にでると、志千が主任弁士を務めている鳳館からの使いだった。  桜蒔の家も浅草六区にあるので、居場所はだいたい筒抜けなのだ。 「志千先生にご実家からお電話がありました。急ぎ折り返してほしいそうです」  実家からの連絡。  百夜と志千は以前それで長いあいだ離れ離れになってしまったため、少し身構える。 「なんだよもー、また兄貴からか? 親父はすでにピンピンしてんだろー」  電話を借りるため気が向かなそうにでていった志千は、戻ってきてからも困った表情をしていた。酔いがすっかり醒めてしまった顔だ。 「予想はしてたけど、次の休暇に戻ってこいって頼まれちまった。ちょっと実家でいざこざが起こってるらしくて、重い内容じゃなさそうだから心配はしなくいいんだけど」 「長くなるのか?」 「いいや。仕事もあるし、一週間くらいかな」 「じゃ、さっさと行ってこい」  そう返すと、不満そうに声をあげる。 「ええー、短期間でもおまえのこと置いていくのやだよ。こないだの俳優の件もあったし、また変なやつが寄ってくるかもしんねえじゃん」  心配性すぎるとは思うが、志千の独占欲の強さは理解している。  それに、好きな相手に溺愛されているのは百夜にとっても心地いいのである。  嫌がることはなるべく避けたい。  では、どうしたものかと考えていると── 「ほいじゃ、いっしょに連れてったら?」  食卓に突っ伏し、酒のせいで元から細い糸目をさらに閉じて、今にも寝てしまいそうになっている桜蒔が言った。 「ああ、それもそうか。休み取れる?」 「もうすぐ撮影も終わるし、次が始まるまでももの予定は空けといちゃるわ」 「んじゃ、せっかくだしゆっくりしていきてえなー」  当人を差し置いて進んでいく話に、思わず口を挟んだ。 「待て。勝手に決めるな」 「え、嫌か? 前に横濱行こうって約束したし」 「嫌じゃないが……」  社交性は皆無だと自分でも自覚がある。志千の家族とどんな顔して会えばいいのかわからない。 「あまり構えなくても、そういう紹介はもっと家が落ち着いてるときにするからさ。とりあえず同じ下宿の友人として連れてくよ」 「それなら、まあ……」  その発言に、すかさず桜蒔が突っ込んできた。 「いつかはちゃんと紹介する気あるんかい」 「しないと見合いの話が止まらねえじゃん。名前が売れだしてから、ひっきりなしにきてるみたいなんだよな」 「したところで、お稚児さんを囲ってもええけど世間体のために正妻は(めと)れとか説得されるじゃろ。フツーの親はそういうもんじゃ」 「俺は気楽な次男坊だし、跡取りでもないからまあ大丈夫じゃねえかな。もし言われたら絶縁するからいいよ」  家族を大事にしているくせに、笑いながらあっさり言うものだから百夜のほうが驚いてしまった。 「待った。早まるな」 「もっと先の話だよ。今回は旅行のつもりで行こうぜ。百夜、まだ東京からでたことないだろ?」  そう言って手を伸ばしてきて、百夜の髪を撫でる。  本当は、百夜にとってもずっと行きたい場所だった。志千の育った土地、家族を、この目で見てみたかった。 「……わかった。行こう」  こうして、急な横濱行きが決まったのだった。  *** 「志千、あれはなんだ?」 「船だよ。でけえだろ」 「船? 屋形船とぜんぜん違うぞ」 「異国からきた貿易船だからな。舶来品の売込とか、日本の生糸の引取をやってんだ」 「それで異人がたくさんいるのか」  横濱港では、百夜の亜麻色の髪の毛もさほど目立たない。金毛や赤毛の異国人がそこらを歩いているからだ。  帝都でも見かけることはあるが、やはりめずらしくて恐れる者が多い。道を通ったあとに塩を撒くことすらある。  母の千代見も、幼いころは髪と瞳のせいでさんざんいじめられたらしい。  蝶子が大事に持っていた宝箱のなかに、ぼろぼろの西洋人形がはいっているのを見たことがある。古さからしておそらく千代見の物を譲り受けたのではないだろうかと思ったが、蝶子には尋ねずそっとしておいた。  それを見てからというもの、もしかすると自分たちには異国の血が流れているのではないかと考えていた。  だが、千代見はもういない。たとえ生きていたとしても、本人さえ出自を知らない可能性のほうが高い。考えても判明することはないだろうし、無意味である。  それに、真実を知りたいわけでもなかった。今はもう桜蒔のことを父であり、兄でもある親だと思っているからだ。決して本人には言わないが。  自分の出生については、どうでもいい。  ただ── 「……百夜? どした、ぼうっとして」 「船を眺めていただけだ」 「蒸気機関車に乗ったときも、表情にはでねえけどけっこう興奮してただろ。船とか汽車とか見て、おまえがふつうの男児みたいに喜んでるのが意外で可愛い」 「でかい物は、なぜだか心躍るな」 「うちの小学生の弟といっしょだ」 「子供じゃないんだが。というか、実際に来てみてわかったが、東京から横濱まで汽車ですぐじゃないか。やっぱり心配しすぎだ」  ただ、こうして志千の隣で、外の世界を見ることができるようになって。  初めて、この世に生んでくれたことを母親に感謝したい気分になっていた。  帝都とは違う空気、強い潮の香り、初めて見る食べ物。  知らないものを、知るのが楽しい。  目と鼻と先にある凌雲閣ですら怖かった頃とは、視界がまったく違っていた。  蒸気機関車があれほど速いことを知っていれば、離れるのを無闇に怖れる必要もないのである。  あちこちを観光しながら歩いて、夕方になる前にようやく志千の実家近くまでやってきた。 「ここが俺の通ってた中学校。放課後は野球やって、帰り道にあそこの甘味屋で汁粉を食ってた」 「よくあんな細い棒に球を当てられるな。できる気がしない」 「百夜は桜蒔先生に似てどんくせえからなぁ……」 「血は繋がってないぞ」  学校から少し歩くと、見慣れた雰囲気の興行街にはいった。  志千が生まれ育ち、活動弁士として成長した横濱伊勢佐木町である。  芝居や活動写真の(のぼり)がずらりと並んでいるのは浅草六区と同じだ。 「あ、寿志千だ!」 「寿八の倅か。戻ってきてるんだな」  地元の弁士だけあって、あちこちに寿八、そして志千の写真が掲げられており、道行く人々の反応も好意的だ。近所に住んでいる息子のような気安さで話しかけてくる。  帽子を目深に被っている百夜に対しては、ちらちらと見られることはあれど、声をかけてくる者はいない。 「角にあるのが、兄貴が継いだ祖父の店」 「『ことぶきごふくてん』……? 呉服屋だったのか」 「そー、俺は仕事のとき洋装ばっかだけど、親父はいつも紋付袴だからうちで仕立ててる」 「志千もたまに袴を穿いているよな。時代物の活弁のとき」 「送られてくるんだよ。宣伝になるから着ろってさ。昔から芝居関係の客が多くて、その伝手を繋いでるおかげで店を継がなくても文句は言われてねえんだ。親父は長男だったからひと悶着あったらしいけど、兄貴が商人向きで優秀なおかげで丸く収まった」  もし呉服屋の若旦那になっていたとしても、志千なら様になりそうだ。大雑把なところがあるので金勘定は不得手な気もするが。  もちろんそうなっていれば百夜と出会うことも、こうやって百夜の隣にいることもなく、商家にふさわしい妻を娶っていたのだろう。  そんなことをとりとめもなく想像していると、突然軟派な男の声が響き渡った。 「なんだ、騒がしい」  眉をひそめてそちらを見ると、通りの端のほうで男たちが女学生に絡んでいるのを見つけた。  興行街だけあって、治安の悪さは浅草とそう変わらないようだ。  男のほうは大学生か、若い役者だろうか。  矢絣の着物に海老茶袴、そして頭にリボンをつけた、いかにも女学生らしい服装のふたり組を数人で囲み、無理にどこかへ誘っている。 「なあ、いいじゃん。すぐそこだから。ちょっと観にきてよ」 「どいてください! もう帰らなきゃいけないの」    その光景を見た志千は、無言でつかつかと彼らのほうへ歩いていった。  女学生たちのあいだに割り込むようにしてはいり、両手でふたりの少女の肩を抱き寄せる。まるで遊女や芸者を侍らせているような恰好だ。  そして、不敵に笑って言った。 「なに、俺の妹たちになんか用?」  志千の顔を確認した男たちはたじろぎ、慌てふためいている。 「こ、寿志千……!?」 「寿志千の身内!? まずいぞ、揉めて館長に知られたらクビになっちまう」 「ああ、おまえら新米の活動弁士か? 今引いてくれりゃ、べつに騒ぎにしたりしねーよ」  その言葉を聞いた若者たちは、逃げるように去っていった。  肩を抱かれた女学生たちはおどろいて振り返り、自分たちより頭ひとつ分以上も背丈の高い、背後の青年を見あげる。 「しっ……」 「志千兄~~~!!」  頬を紅潮させ、きらきらと瞳を輝かせて、黄色い声で叫んだ。

ともだちにシェアしよう!