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【番外編】百夜と寿家㈢

 玄関に迎えにでてきた母親に、志千(しち)が尋ねた。 「チビは?」 「朝からずっとそわそわして、志千さんのこと待っていたわよ。ほら、もうきた」  木板を踏む軽快な音がして、廊下の奥から子供が走ってくる。 「志千兄ちゃん!!」 「おー、またちょっとでかくなったんじゃねえの」  しゃがんで迎えた兄の懐にぼすっと飛び込んだ男児は、まさに志千をそのまま幼くしたような外見である。 「ちいさい志千だ……」  百夜(ももや)は思わず横から手をだし、頭を撫でていた。  真っ黒で硬めの髪質も同じ。弟は子犬みたいに笑っていた。 「おお? おまえがなにかを愛でるの初めて見た」 「つい……」  たしかに、なにかを可愛いと思うのは初めての経験かもしれない。  妹である蝶子に抱いている感情とはまた違う、例えは悪いが、小動物を眺めているときわずかに湧き起こる気持ちと似ている。 「チビ、こっちは兄ちゃんの客なんだ。自己紹介できるか?」 「はい! 寿一二三(ひふみ)、尋常小学校四年生です!」 「ひふみ……。巻いてきたな」 「そー、四は縁起の関係で飛ばして、五人目で急に巻いてんの。親を超えろって最初の主旨はもう諦めてるし、いかにも大雑把な親父の名づけだよなぁ」  数字繋がりのきょうだいたちの名は、一応末っ子で完結しているらしい。 「もし六人目がいたとしたら……まだ零があるか」 「それが、偶然にもお袋の名前が零子(れいこ)なんだよ。面白いだろ」  正面から百夜と向き合った弟は、きょとんとして無邪気に言った。 「志千兄ちゃんのお嫁さん?」 「ぶは、よく見ろ、男だけどな。チビの憧れてる俳優だぞ」 「俳優になりたいのか?」  弟は少しもじもじとして、言いにくそうに口を開く。 「一番は、活動写真弁士になりたい。俳優は二番目。二番目の夢も持っとけって、お父さんと志千兄ちゃんが言うから」 「なぜ弁士だけじゃだめなんだ?」  百夜の疑問に、志千が答えた。 「今は空前の活弁ブームだけどよ。演劇みてえにずっと昔からあるもんとは違って、いつまで続くかわかんねえじゃん? 近頃は外国を真似して字幕にしようって業界の動きもあるし、そのうち映写機が発達して活動写真にも声がつくかもしんねえ。どうしたって時代の流れはあるんだ。チビが大きくなったとき、選択肢そのものがなくなってたんじゃ可哀想だろ?」  活動写真弁士という仕事に誇りとこだわりを持ち、ひたむきに芸を磨いてきた志千が、そんな未来図を予想をしていたのは意外だった。  いや、見据えているからこそ後悔しないよう、脇目も振らずに全力で駆け抜けているのかもしれない。 「将来か……」  ずっと、現在だけで精一杯だった。  女優のときは無理にやらされていたと思い込んでいたが、今は自分の意志で俳優をやっている。  志千と一緒にいる選択が生まれたとき、霧が晴れるように、初めて自分の将来が見えた気がする。 「おれも、もっといい俳優になりたい。顔売りだと評価されるのは腹が立つしな」 「あー、すげーわかる。そういうこと書く映画評論家ほど、見てくれで判断してやがんだよ。代わりに言い返してえ」 「まあ、書かれないようにせいぜい演技を磨くとするか」  その会話を聞いていた一二三は、百夜の着物の袖を引っ張って言った。 「修行中? いっしょに頑張ろう?」 「ああ、そうだな。数日のあいだ厄介になるから、よろしく頼む」  思わず、口の端に微笑みが漏れた。  志千と身内以外の人間に向けて、自然に笑えるようになる日がくるとは思わなかった。  ***  客室に通され、風呂をもらっているあいだに食事の準備が整い、広間に案内された。  長兄はまだ仕事中らしいが、その妻子はこの家で同居している。父親の寿八と祖父母も揃い、総勢十人以上の膳が並んだ。宴のように女中が料理を運んでくる。  上座は遠慮して志千の隣に座ると、向かいの妹たちがまた色めき立った。 「百夜さん、座ってるだけで美しすぎ。ほんとに人間!? もはやお人形!? 何事!?」 「まさに美の暴虐……。男の人にも|美人《シャン》っているのねえ」 「こら、あなたたち。年頃の娘が殿方に騒いで、はしたない」 「お母さんだってプロマイドにサインもらってたでしょ! ミーハーは遺伝だもーん」  そして、母娘の会話になぜか志千が対抗しはじめた。 「言っとくが俺はただのミーハーじゃなくて、デビュー前からの百夜ファンだから」 「張り合うな」  そこに猛然と抗議の声が飛んでくる。 「なによぉ、志千兄なんて、前は二代目残菊の熱狂的ファンだったくせに! 引退してからあっさり鞍替えしちゃって」 「百夜さんって男性なのに、なんとなく二代目と雰囲気が似てるもんね。志千兄、こういうお顔が好みなんでしょ。面食ーい」 「おまえらに言われたくねえ。お互い様だ」 「面食いもうちの血筋〜」    世間的には二代目残菊もまた、初代と同じようにある日突然消えていなくなったとされている。だが、初代のときのように騒がれることはなかった。  残菊という花を模した夢幻の如き存在だったのだと、誰しもが感じていたのかもしれない。  そのあとにデビューした花村百夜と二代目残菊が同一人物だという事実は、業界内の人間であれば知っている者もいるといった程度だ。  配膳が終わり、志千を挟んで向こう隣にいた寿八が、百夜の盃に酒を注いでくれた。 「……いただきます」  一応口をつけようとすると、横から手を伸ばしてきた志千にひょいと盃を奪われた。 「親父、百夜はまだ未成年だからさ。小山内(おさない)桜蒔(おうじ)先生から預かってる身だし、俺が呑むよ」 「劇作家の小山内君? 血縁かね?」 「義兄です」  簡単にそう説明すると、寿八は「ああ……」となにかを察したように苦笑いを漏らした。 「鶴月(かくげつ)の座長とは古い付き合いだったんだが……彼は遊びが過ぎる人だったからな」  鶴月座の座長は女好きで、桜蒔と蝶子は本妻の子ではなく婚外子だ。  蝶子を挟んで桜蒔と義兄弟にあたる百夜は座長と無関係なのだが、食事の場で詳しく話すことでもないので詳細は控えた。  あのゴタゴタが終わった当時、桜蒔は血の繋がりがない百夜も引き取る気だったらしく、せめて成人の満二十歳になるまでは弟として自分の戸籍に入るかと訊いてきた。  しかし、俳優の仕事で食い扶持は稼げているし、唯一残った母との接点である『花村』の苗字を消したくなかったため断ったのである。今は後見人として親代わりになってくれている。  百夜が酒を注ぎ返すと、寿八は飲み干してから言った。 「花村君、きみの主演作はすべて観ているよ。小山内君の脚本も優れているが、どれもきみの存在感で成り立っている作品ばかりだ」 「ありがとうございます」 「母親に似て、いい役者だ。いや、母親の演技に寄せるのをやめて、もっとよくなった。今のようにきみらしいほうがいい。彼女が透明感の下に隠していたのが『毒』なら、きみは『華』だな」  この人は、二代目残菊の正体に気づいている。  志千も初代と二代目の区別が完璧についていたように、活動写真弁士は台本を書くために何度も映像に向き合うからだろう。  それを聞いた志千が会話に割って入ってきた。 「親父はなんで百夜の作品の活弁やらねえの? 桜蒔先生の脚本は昔から好きだし、気に入ってんだろ」 「私の語り口とは合わなくてなぁ。だから台本だけ書いて、説明は女性弁士か若手に任せている。悔しいが、花村君の声色は志千が誰より上手い」 「ほんとか!?」  がたっと膳が動くほど体を起こし、志千が前のめりになる。 「他はまだまだだ。調子に乗るんじゃない」  と、父親が諌めた。 「だが、おまえもようやく自分らしい活弁をするようになった。浅草に行ってよかったか」 「ああ。地元にいたままじゃ伸び悩んでたと思う。初めて見たこととか、知ったことがたくさんあったし……」  志千がそのまま食事に手をつけたので、話はそこで終わったのかと思ったが、随分あとになって百夜にしか聞こえない小声でささやいた。 「行ってよかったに決まってる。一生の宝物みたいなもんを見つけたしな」 「……気障(きざ)弁士め」  兄の顔、息子の顔、いろんな志千を見ることができて、残っているのは弟の顔だ。 「あと会ってないのは兄貴だけか。閉店してからも帳簿やら仕入れをまとめたり、毎日遅くまで忙しいんだとさ。商家の旦那も大変だよなー。俺、絶対向いてねえや」 「志千は細かいことが苦手だからな……」 「まだ寝ないだろ? 食い終わったら俺の部屋いく?」 「ああ」 「兄ちゃんの部屋で遊ぶの? ぼくもー」  百夜が見るかぎり、家族はいたって平穏だ。  帰省の目的である『いざこざ』とはいったいなんだろうと思いつつ、食事を終えたあと、小さい弟を連れて志千の部屋に向かった。

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