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第94話 匠
習慣になっていたコーヒースタンドを通り過ぎた、社会人になって初めての事だ。今日は自分でコーヒーを落とし、持ってきた。朝食を一緒に摂る相手がいるというだけで、生活に張りが出る。
上原と一緒の新しい習慣がこれから生まれていく。デスクでメールをチェックすると、アズマ商事 紺野睦夫と表記されたメールがあった。
荷物の受領のお礼のメールだった。何かあったら訪ねてきなさいと携帯の番号とアドレスも添えてあった。返信不要と書かれていたそのメールの「荷物は受領した」とは送り返した紺野の荷物を指しているのか、暗に紺野自身の事を指しているのか。
とりあえず一件落着したようだ。
「上原くん、おはよう」
振り返ると入り口のそばで例の女子が上原に声をかけた。今、名前を呼んだ時語尾が上がった。どうして、女の色のかけ方はこうも分かりやすいんだろう。そちらを見ないふりして全身耳にして会話を聞く。
「えー、そうなの?じゃあ今週末は?」
「まだ予定が分からないんだけど、多分出かけるかなあと思うんだよね」
上原の答えに苛々する、週末は空けておくもんだろう、阿呆が!
上原が正気に戻って別れたいと言ったら手放すって?無理だ。覚悟できない。溺れさせて何も見えないように目隠ししてやろう。
デスクから二人に向かって声をかける。
「上原、丸山電機のアポ今週どっか入れて。ああ、山中さん、おはよう。コーヒーをお願いできるかな?ありがとう」
満面の笑みで話しかける。赤くなって下を向く女性を見て、やはり可愛いとは思えないなと考えた。
「はい、主任はブラックですよね。あ、上原くんはミルクに砂糖2つだよね」
給湯室に向かうその子を見送る。
上原がデスクにやってきた。上原の頭をポンと叩いて小声で言う。
「週末は俺のために空けとけ」
横で「すみません」と赤くなる上原を見て満足して仕事に戻る。そして、いつもの倍の笑顔でコーヒーを受け取った。
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