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破牢の情人 破牢の情人 | 北月ゆりの小説 - BL小説・漫画投稿サイトfujossy[フジョッシー]
目次
破牢の情人
破牢の情人
作者:
北月ゆり
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破牢の情人
藤堂景清
(
とうどう かげきよ
)
は男爵家の一人息子である。それなりの年齢に成長した彼には、親の意向で婚約者があてがわれた。婚約相手である
沖津葉子
(
おきつ ようこ
)
は血筋こそ平凡なものの、数代で急成長し街一番の富豪になった材木商、沖津屋の長女。彼女が女学校を卒業したらすぐに藤堂家に嫁入りする予定となっていた。金目当てと血筋目当て、ありふれた動機により親同士が定めた婚約だったが、景清は一目見たときより、葉子の長い黒髪が気に入っていた。 「なぁ、おまえ。縁を結んだ自分の父親に、感謝するんだな。藤堂家の妻となれるのだから」 景清は葉子と逢う毎に、そんなことを言う。しかし葉子は、喜ぶどころかその表情をぴくりとも動かすことは無かった。彼女の漆黒の艶やかな長い髪は一つに編まれ、いわゆる英吉利結びにされていた。切れ長の涼しげな目は何の感情もたたえていない。すっと通った白い鼻筋に、色素の薄い唇は、見る者に氷のような印象を与える。景清は気に食わない。最初は緊張してるがゆえの行動だと思い、何度も話しかけてみたものの、やはり返事はなかった。 「――この、愛想無しの醜女が! お前を貰い受けてくれるような男は、俺しかいないのだからな」 満足のいかない葉子の反応にしびれを切らした景清は捨て台詞を吐き、ステッキをかき鳴らしながら訪れていた彼女の家の庭から立ち去った。これは一度や二度の話ではない。気の短い景清は家に戻ってもなお苛立ちを抑えられず、そのたびに家従の男・
入江
(
いりえ
)
に八つ当たりをするのだった。 「どうしてあの女は笑わない! 成り上がりの、商人の娘が!」 「左様にございます、景清さま」 「分かったようなことを!」 傅く入江の胴を手に持ったステッキで殴ると、彼はよろけた。 「い、え。私は、ただ……」 「口答えをするな! ――躾が足りていないようだな」 か細い声で言い募ろうとする入江を遮って、その首根っこを掴んだ。そのまま引き摺るようにして、自分の部屋に引っ張り込む。こうして景清が入江に乱暴をするのもまた、一度や二度の話ではなかった。 そんな景清の日常が覆ったのは、結婚の日取りまであと数ヶ月という頃だった。藤堂家が、没落したのである。景清は知らなかったものの、祖父の代から各方面に多大な借金をしており、彼の父親は負債を増やすことしか出来なかったのだという。首が回らなくなった藤堂家は爵位の返還を迫られた。当然、沖津家との婚約は破棄となる。藤堂家は夜逃げのようにして散り散りになり、景清はこれまで一度として足を踏み入れたことのない、常に見下していた、労働階級の仲間入りを果たしたのだった。 景清は父親から、てっとり早く高い給金が貰えるとして、土木の仕事に放り投げられた。なぜ自分があくせくと労働しなければならないのか。心底嫌だったが、文句を言おうにも生きていくための金がなかった。渋々長屋に入ったが、世間の厳しさなど知らなかったような坊ちゃん、しかも没落した元華族ともなれば、同僚から好奇の目で見られるのは必至だった。 住み込みで働き始めて三日目、新入りを夜の相手にと襲いかかって来た上長を、持ち前の矜持と手の速さで思い切り殴り倒した。伊達に長年家従に暴力を振り続けていたわけではない。そこまでは良かったものの、次の朝には十数人から追い回され、危うく殺されかけたため、ほうほうのていで逃げ出したのだった。 住む場所を失った景清は、元家従である入江の家に押しかけた。親とは連絡がつかなくなっていたし、学生時代の友人に情けを乞うのも景清の矜持が許さなかったからだ。使用人としての勤め先を失った彼は、すでに新聞配達で職を得ていた。彼はまた尊大な態度でこう言った。 「おまえは俺に、返しきれない恩があるだろう」 寝る時間になると、唯一の布団から彼を蹴り出し、自分がくるまった。凍えるような冬だというのに入江は文句の一つも言わず、次の日の昼は景清用の布団を買って運び入れる。入江は以前のように景清を主人扱いし、家での家事の一切を担ったのだった。 * 次は出自を伏せることにした景清は、料亭で働き始めた。入江の知り合いの紹介だった。出勤のたび朝昼晩は賄いが食えるし、間違いなく前の仕事よりましだった。今度はさほど問題はなく、とはいっても生まれてこの方家事などしたことも無かった景清にとっては何事も困難なものだったが、とにかく虐められることも、首になることもなく二ヶ月が過ぎた。しかし、彼の悪運は終わらない。ある日、元婚約者の沖津葉子がこの料亭にやってきたのだった。いまだ嫌悪感の拭えない厠掃除に繰り出された景清は、廊下で葉子と偶然に遭遇した。 「葉子……? 葉子じゃあ、ないか」 葉子は一瞬驚いた顔をしたあと、露骨に侮蔑の視線を向けた。 「どなた? 労働階級が、勝手にわたくしに話しかけて良いと思って?」 皮肉にもこれが、二人の間での最初のまともな会話だった。 「お前……何を……」 「散々蔑んでいた身分になるのはどうかしら? 言っておくけどわたくし、良い気味よ。貴方と結婚するだなんて、死んだほうがましだと思っていたわ」 婚約者だったあの時からは考えられないほどよく喋る葉子を前に、景清は呆気に取られていた。ここまで嫌われているとは露知らず、当時は単に無愛想で無口な性格の女なだけであると思っていたのだ。 「さようなら、もう一生会うことはないでしょうね。わたくしもう、とっても素敵な方と結婚したのよ」 彼女は踵を返すと、席で待っていた景清とそう変わらない年の男の腕を取り、何も食べないまま料亭から出ていった。下働きにやっと慣れ始めてきていた景清は、彼女に侮辱されてもすぐに動けなかった。葉子が店の扉を閉めた瞬間、黙って聞いていたことへの悔しさが溢れ出てくる。爪の先から頭の先まで、震えが止まらなかった。 「あの、女……!」 「景清さん? 一体何をしているの?」 通りかかった同僚の女給が怪訝そうに、景清に声をかけてくる。「いいえ、何でも」と絞り出すのが精一杯だった。なんとか仕事を再開したが、怒りは収まるどころか増幅するばかりで、以後の仕事の一切の記憶がないほどだった。 入江の待つ家の引き戸を乱暴に開けて入った景清は、履いていた草履を玄関に叩きつける。 「景清さま……?」 「あの女、所詮平民のくせに、偉ぶりやがって!」 何とか鍵を閉めると、声を聞いて迎え出てきた入江の首根っこを掴んだ。入江は困惑した表情を見せる。 「どなたの、話で、しょう」 「葉子だ! もう新しい男と結婚しただと! 俺と婚約している頃から、姦通していたに違いない! 尻軽女め!」 藤堂家が没落し、入江のもとで居候を始めて以来ずっと、彼に暴力を振るったことはなかった。しかし景清は、久しぶりに彼を殴った。思い切り腹を蹴り、両頬を張った。平穏が打ち破られた瞬間だった。 「……おい、入江、命令だ。葉子の旦那と、住んでいる住居を調べろ」 透明な胃液を口からぽたぽたと床に垂らしながら、彼は黙って頷く。次の日、仕事を終えた景清はその小さな長屋の一室で、腕組みをして入江の帰りを待っていた。彼が帰ってきたのは夜も更けたころで、全て調べがついたと話した。新聞配達員として町中を駆け回って働いている入江にとっては、その程度の情報収集など容易いことだった。 葉子の結婚相手は業績を上げている反物屋の息子で、籍を入れたのは藤堂家が没落して一月を過ぎたころだったという。入江が彼らの家の場所を紙に書き出すと、そこは景清も知っている通りにあった。 「入江。俺は、報復をするぞ」 「そんなことをすれば、捕まってしまいます……どうか、お考え直しください」 宥めるように縋り付く入江を、景清は突き飛ばした。 「うるさい、こんな生活はもう、うんざりだ! あの女を殺し、せいせいしながら牢屋に入る方がどんなに良いか!」 「景清さま、どうか……」 「黙れ!」 激昂した景清は、入江を畳に引き倒し、犯した。これもまた随分久方ぶりのことであった。何度も何度も行われたそれは、朝日が昇ろうとするまで続いた。 次の日、出勤の予定を丸々無視した景清は、昼過ぎに起床した。こんなに日が高い時間に起きるのは、藤堂家が没落して以降初めてのことだった。入江を抱き潰し、睡眠をとってもなお、葉子への怒りは収まってはいなかった。昨日彼が書いた地図を懐にしまう。その反物屋の前を見張っていればいつか、葉子も相手の男も、やってくるだろう。張り込んで数刻が経ったころ、見知った黒髪の女が一人、遠くから歩いてくるのが見えた。葉子だ。途端、ひときわ強く黒い憎悪が、景清の脳を焼いた。 「葉子……」 人影を利用してゆっくりと回りこんだ景清は、彼女の首を腕に掛けるようにして、すぐ近くの細道に葉子を引き摺り込んだ。 「な、何を――」 声をあげた葉子は、自分を襲おうとする男が何者か気づき、口をはくはくさせる。 「か、景清さん……どうして」 「は……俺の名前を呼んだの、これが初めてだな」 そう呟いた景清は、葉子の左頬を思い切り叩いた。苦悶の表情で倒れ込んだ葉子の腹を、草履の足でぐりぐりと踏む。上等な絹の着物が土で汚れた。そのまま胸元を力づくではだけさせると、彼女の白い肌がのぞいた。よく見ると、その肌には赤い跡がついているではないか。例の反物屋の男がつけたのだろうか。 「い、いや! 誰か!」 「黙れ!」 引き攣った叫びをあげた葉子の、先ほど叩いた左頬を、右の拳で殴る。恐怖と痛みで大人しくなった葉子の着物の裾を引きちぎらんばかりに開き、その細い脚を持ち上げた。葉子の下履きをずり下ろした瞬間、景清の後頭部に衝撃が走る。振り向くと今度は、前頭部に追撃を受ける。路地裏の異変に気づいた者がいたのだ。遠のく意識の中、啜り泣く葉子の声と、ステッキを振りかぶった見知らぬ男と、騒ぎに気付いて集まってきた民衆の声が聞こえた。 目を覚ますと、景清は独房の中にいた。上裸に下履き一枚の状態で、後ろ手が縄で縛られていたのだった。 「は……」 「起きたか」 身じろぎをし、かすかに声をあげた景清の檻の前に、制服を着た中年の男が寄ってきた。 「卑劣な野郎だ」 中年の男は吐き捨てる。景清はすぐに理解した。葉子を襲撃したあと、自分は捕えられたのだ。そうなっても構わないと思いながら犯行に臨んだが、なんだか現実味がなかった。看守が薄ら笑いながら、近づいてくる。 「お前に襲われた女性と、その旦那に頼まれたんだ。出来るだけ苦しめてやってくれと」 「……看守のくせに。法も、知らないのか」 「罪人が、いけしゃあしゃあと。自分の立場が分かってないようだな。おまえもあいつら以上の金さえあれば、苦しまずに済んだのに」 看守は片眉をあげてににたにたと意地汚い表情を浮かべた。おそらくこの看守は葉子かその旦那に金を掴まされ、私刑を与えようとしているといったところだろう。 「腐ってやがる。何をするつもりだ」 「別に、てめえを犯そうってんじゃねえよ。男の趣味はない。ただ……てめえみたいな欲に支配された屑には、こういうのがお似合いだってだけだ」 看守は、注射器を取り出した。そして鍵を取り出して檻の中に入り、太い針を景清の腕に刺した。指の圧とともに、注射器の中の液体が景清の体内に入っていく。 「ぐっ……ああっ……!」 景清は苦痛に喘ぐ。縛られたせいでまともに身動きが取れず、ただ蓑虫のように床をのたうち回ることしかできなかった。 「西洋では、切り落とす以外にも野郎のブツを壊す方法が発見されたらしくてな。しかも、打たれてしばらくは、激しい痛みを伴うらしい」 見てるだけでここが縮み上がるぜ、と身体を捩らせて笑うと、看守は檻から出て、わざと音を立てながら鍵をかけた。鋼鉄の縦線越しに見える看守の目は、興奮で爛々と輝いていた。 収監されて以来、景清は死体のように昼と夜を繰り返した。薬の副作用なのか小刻みに気絶と覚醒を繰り返すせいで、もう何日目かも分からない。三日程度のような気もするし、一週間は経ったような気もする。看守に殴られたり、彼の刺す注射針の痛みで起きることもあった。 目を薄く開けて覚醒と眠りの狭間にいた景清の耳に、ずりずりと床を擦るような足音が近づいてきた。一瞬また看守が来たのかと思ったが、奴の足音はもっと重たい洋靴の音だったはず。天井から視線を外さないまま、ぼんやりと思考をしていると、よく知った声が聞こえた。 「景清さま、私です……入江です」 ぴしゃりと雷に打たれたように、景清は顔を檻の柵の方に向けた。急に体を動かしたせいで、首の筋がぴりぴりと痛んだ。 「いり、え……」 まともに声を発するのも久々で、喉の奥が軋む。上手く声が出ない。景清は掠れた音をあげた。入江は檻に両手をつき、上から小声で囁いた。 「お静かに。私が、景清さまを逃がしてみせますとも。きっと、そう、一年以内には……」 「な――」 「怪しまれたくなければ、口をお閉じになってください。そうして今から私がすることを、許してくださいね」 「おいそこ、何を話している」 矢継ぎ早に告げた入江の後ろから、看守の鋭い声が飛ぶ。怪しい接近を見咎められたようだ。 「……いいえ、何も。ただ、惨めな彼の姿を間近で見ていただけです」 入江は振り返って、看守に向けてふわりと微笑んだ。懲役場に似つかわしくないほどに柔らかな笑みを浮かべる入江に、看守は目を奪われる。 「そ、そうか。君は昔、この男に仕えていたんだな?」 「ええ、最悪の日々でした……手を上げられたことだって、何度も」 おどおどし始めた看守の問いに是を答え、入江は悲しそうに呟いた。それを聞いた看守は、ひときわ侮蔑のこもった目を景清に向ける。 「いり……おま、え……ふざ……」 景清は掠れた声で言葉を紡ごうとするが、まだ上手く音が出ない。入江が外から、身体ごと檻にぶつかるようにして大きな音を立てて吐き捨てた。 「この、人間の屑が! そこで苦しみながら、己の罪の報いを受けるが良い!」 「ふ……巫山戯る、なよ……! この、薄汚い、使用人風情、が!」 景清は喉を痛め掠れさせながらも、怒りに声を荒げた。家が無くなってなお、彼は自分の使用人だ。主人に無礼を働くなど、許してはならない。そもそも先程、助けに来たと言ったではないか! 景清の怒声を聞いた看守が、檻に掴みかからんばかりに鬼のような形相を浮かべた。 「お前こそ――!」 「ねぇ、看守さま! なんだか、気分が優れないのです。出口まで……私を連れて行ってはくれませんか」 激昂した看守を止めるように、彼の胸に入江がもたれ掛かった。思わず両手で受け止めた看守は、入江の吐息混じりの甘えたような声に、視線を行ったり来たりさせた。 「そ、それは、勿論……」 「ええ、早く行きましょう」 入江は景清を一瞥もせず、看守を伴って遠ざかっていった。看守の怒り具合は相当なもので、帰ってきたら殴られるのだろうなと景清は思った。しかしその予想に反して、看守はその日、そのまま景清のもとに戻ることはなかった。 ひと月に数回か、あるいは数ヶ月に一回か、時間感覚のあやふやな景清には分からなかったが、兎に角そんな頻度で入江は面会にやって来た。そして彼が去るときは決まって看守と連れ立っていき、そのあと看守は大抵戻ってこなかった。彼が来てから、看守は浮き足立っているようだ。業務中にも関わらず、たまに鼻歌まで聞こえる始末だった。景清は相変わらず注射を受けていたが、その頻度は減った。おそらくこの注射は看守の趣味であり、自分の金で薬液を購入しているせいで、そう毎日持つものではないのだろう。看守は下品な笑みを隠さない。 「どうだ、お前のブツの調子は。これでもまだ男だと、言えるか?」 あの注射は単に注入後に激痛をもたらすだけのものだと思っていたが、言われてみれば確かに、欲の減退を明確に自覚できた。しばらく何も出していないにも関わらず、一向にそれが昂ることもなければ、欲に身を焦がすようなこともなかった。処理をする気にすらならず、忘れたころに朝起きて下履きが汚れていることに気づく、そのような始末であった。 「婦女暴行犯が不能。ざまあ無いことだ」 今の景清は、煽れれば怒り自体は湧くが、反抗する気力を完全に失っていた。景清は元より短絡的かつ短気な人間であり、入江や葉子に暴力を働いたのも、その気質が背を押していたのは間違いなかった。しかし、そうか。この薬のせいで欲が消え失せ、気性の荒さもどこかへ行ってしまった。自分が最初からこのように無気力であれば、とっ捕まることもなかったのだろうな、と平坦な思考がよぎる。 反応の薄い景清がつまらなかったのだろう、看守はすぐに別の牢の巡回に向かった。薬の注入は相変わらず酷い気分になるものだったが、何度も打たれていれば苦痛にも、また頭に靄がかかるみたいな感覚にも、慣れてくる。 もうどのくらい時間が過ぎたか具体的には分からないが、自分が捕えられたのは春先だったはずだ。からからに暑くて牢の中に虫の湧く、汗がじっとり気持ちの悪い季節を乗り越え、涼しくなってきたかと思えば最近は凍えるような隙間風が肌を震わせる。冬が始まろうとしているのだろう。 入江が最初に言った「きっと一年以内には」という言葉が本当なら、そろそろ逃亡できるころだろうと思っていたが、一向にその気配は無かった。それどころか入江との面会を重ねるにつれ、対面する時間は段々と減っていき、最近では一目みたらすぐに帰ってしまうばかりであった。変わらないのは、あの看守を引き連れて帰っていき、そこから数日は看守の機嫌がいいということだけだった。 景清の胸中には疑念が湧き上がる。本当に入江は、自分を助ける気はあるのだろうか。藤堂家で暮らしていた景清にとって使用人とは主人の所有物であり、どう扱おうが主人の勝手であった。自分がそのように振る舞っても誰一人それを咎めなかったし、そもそも父も母もよく使用人に手を上げていたのだ。雇ってやっている使用人は自分たちに感謝するべきであり、それが当然のことだと思っていた。 しかし、どうだろう。看守に殴られるたび、景清はずっと憤懣やるかたない気持ちを募らせていた。反抗する元気はなくとも、内心ふつふつと滾り静かに燃えているものがあった。入江も同じだったのではないだろうか。 葉子と婚約していた間だって、景清なりに好意を示していたつもりだったが、実際には蛇蝎ごとく嫌われていたのだ。入江は藤堂家が没落した後も、献身的に景清に仕えてくれていた。そのことに今までは何の疑いも無かったが、もしかしたら彼こそ、景清への報復の機会を長きに渡り狙っていたのかもしれない。謀られた可能性を考えた景清の視界は、真っ赤に染まった。どうにも苛立ちが抑えられず、久方ぶりに壁に身体を打ちつける。鈍い音を立てて暴れる景清の様子を、看守が見に来た。 「おい、お前、一体どうした。珍しいな」 怪訝そうな顔をしたこの看守も、おそらく入江と寝ているのだろう。入江を拾い、使用人としても捌け口としても、躾けたのは景清だった。この男はいつだったか妻子持ちだと話していたが、職場で他の男としけ込むとは。男の趣味はないなどとほざいてたくせに。 「この……西洋かぶれの、異常性癖野郎……!」 久方ぶりの景清の罵倒を聞いて、看守は目をぎらつかせながら、拳を振り上げた。 * 「入江……遅かったな」 「時間がかかってしまい、申し訳ございません」 そろそろ春も始まろうかという頃、漸く入江は現れた。片手に鈍色の鍵を掲げて。眉を八の字に下げたかれは頭を下げ、手に持った鍵で牢を開けた。遅いと文句を言ってやりたかったが、凍える冬をなんとか乗り越えた景清はその元気もなかった。 「兎に角、これにお着替えください。見張りは眠らせましたが、早く逃げるに越したことはないでしょう」 牢の中に入ってきた入江は景清に着物を手渡す。没落する前に着ていたような豪奢な洋服では無かったが、囚人に着せられる長衣以外なら、もはや何だって良かった。長らく動かしていなかった手足では、服を着ることすらもたついてしまう。 景清が着替えている間、入江は看守室へ油を撒きに行った。景清が着替えるのに十分な時間を見計らって火のついたマッチを床に落とすと、独房で待っていた景清の手を引き、あっという間も与えず駆け出す。 迷いのない足取りで懲役場を進む中で途中、いくつかの牢屋の前を通る。囚人らは手を繋ぐ二人を見て「脱獄か!」「看守のくそったれ!」「おい、俺も出してくれ!」などと喚いていたが、入江は一瞥もしなかった。こうして二人は五分とかからず裏口に出ることができたのだった。およそ一年ぶりに浴びた太陽の光に、景清の瞼の裏が白くなる。裏口の中からは、かすかな熱気と何かが燃えるような匂いが漂い、囚人たちの叫び声が聞こえた。 「立ち止まらないで」 入江は黒い煙が立ち上がるのをぼうっと眺めて足を止めた景清の裾を掴む。彼はその裾を引っ張り、再び二人は並んで走り出した。 二人が一度も立ち止まらずに駆け抜けると、鉄道の通っている駅に辿り着いた。 「怪しまれ、たく、ありません。ここで、一度、休憩を……」 しばらく走り続け、息を切らした入江は外壁の陰にもたれかかる。一年間まともに動いていなかった景清などは崩れるようにしゃがみ込んでいて、返事をする余裕も無かった。 しばらくして息が整ってきた入江は、少し先の瓦礫の下から鞄を引っ張り出した。この計画のため、数刻前に隠しておいたものだった。鞄の中から帽子と外套を二つずつ取り出し、まだ綺麗な方を景清に渡した。買っておいた切符で鉄道車両に飛び乗ると、二人は大きく息をついた。近くに他の乗客は居なかったが、警戒して景清は小声で問いかけた。 「おまえ、一体どうやったんだ」 入江は裾で口を隠し、くすりと笑う。 「お分かりでしょう、看守を誘惑したのです。鍵を探すのに、だいぶ苦心しましたが…………ふふ、囚人たちをいたぶる彼も、他の職員も。みなこの私に、骨抜きになっていたのですよ」 看守と寝ていたのは予想がついていたが、どうやら入江が相手をしたのは、あの看守だけでは無かったらしい。よくもまぁ、自分の身体を使うことに躊躇いのないものだと思う。しかし、そうさせたのは屋敷にいた時代から好きに扱っていた自分なのかもしれない、と景清は思った。 「くそ、看守の野郎め」 ふとあの悍ましい注射を打ち込んできた看守の姿を思い出し、顔を歪める。 「あいつ、俺を薬漬けにした挙句、殴りやがった。いつか……殺してやる!」 「ええ、そうですね……いつか」 逃亡生活が待ち受けている中、そんな『いつか』が来ないことなど景清にも分かっていたが、体の奥底からは絶えず屈辱感が湧き上がってくる。言葉の割に冷淡な入江の声に苛立ち、今すぐ彼を殴ってやりたい気持ちになったが、何とかそれを堪えた。 一方で入江もまた気づいていた。看守が景清を長きに渡り殴っていたのは、入江が「彼に乱暴されていた」という誹りを吹き込んだからだろう。それは全くそのまま真実ではあったのだが、兎に角、入江はその推測については黙っていた。 鉄道や荷馬車を何度か乗り継いで逃げた先、その田舎の村の隅に、二人は小さな一軒家を借りた。自分たちのためだけに作物を育てるには十分な広さの畑もついていた。逃亡費用や当面の家賃は入江が新聞配達で働いていたときの収入と、看守やその他の男と唆したり、寝たりしたことで得たものから捻出されていたが、あまりもう余裕は残されていなかった。 藤堂景清は姓を伊東と、入江は潮田と名乗ることにした。それでも家の中で二人の時だけは、元の名で互いを呼んだ。 村人は思いの外新参者に親切で、世間話を持ちかけてくる人までいた。話好きの中年女性は早速と言わんばかりに二人に話しかけてきた。 「ねぇ、伊東さんに潮田さんだっけ。ここに来るまで何をしていらしたんだい?」 「……自分は料亭で」 「私は新聞配達員として、働いていました」 「あれまぁ、新聞ね。この村で新聞を取ってる奴は少ないけどね、うちは取ってるんだよ。ちょうど今持ってて、村の皆に見せてやりに行くところだったんだ。見るかい?」 需要の低いこの村に新聞配達員が来るのは週に一度だけで、一週間分の新聞をまとめて配達してくるのだという。彼女は手提げから新聞の束を取り出し、うち一つを無造作に放ってきた。 目をやったその新聞の一面には――数日前の懲役場の火事についてが書かれていた。ひやりとしたものが景清の背をなぞる。 「あぁ、その記事ね。何でも、そこの囚人と看守はみんな死んじまったんだって。火の出処は看守室らしいよ。まぁでも、罪人が死ぬのはさ。因果応報ってやつじゃないかねぇ」 彼女は何気なくそう言った。何も言えないでいる景清の横で、入江は平然と頷いた。 「なるほど、その通りですねぇ」 景清は横の男の面の皮の厚さに驚愕した。彼が懲役場に火をつけ、二人が逃亡したのはほんの数日前の話であるが、今になってこの村でその話が持ち上がるだなんて、と景清は震える唇をなんとか引き結ぶ。どうやってその話が終わったか景清は覚えていなかったが、その後二人が借りた家に戻ると、景清はしゃがみ込んで震えた。入江はその背を摩る。 「なぁ、入江。追っ手など……来ないよな」 「新聞には全員死亡、と書いてありましたよ。ご安心ください、罪人が一人逃亡しただなんて、誰も気づいていないのでしょう」 二人が越してからしばらく、景清は追っ手の影に怯えていたが、拍子抜けするほどに何も起こらなかった。 何か職を探す中で、景清は村の小さな学校で教師として働くことになった。これでも華族として高等教育を受けていたのだ。同級生に比べるとかなり成績は劣っていたが、識字率の低い田舎で読み書きや算術などを教えるのには十分すぎるほどだった。 師範としての資格は無論有してはいなかったが、それについては田舎ではままあることだった。兎に角、ここでは同僚の誰よりも字が美しく、言葉に訛りが無く、計算も速いことから、すぐに景清は教師として受け入れられた。景清は今まで、学業において優秀だと褒められたことはほとんど無かった。しかしここでは違う。自分が最も優れた教養人として扱われるのは気持ちが良かった。 美しい男を伴って突如越してきた景清を見て、村人は何か訳ありなのだろうと察していた。良家の息子が恋人の男と駆け落ちでもしたのだろうというのが、もっぱら井戸端で囁かれる噂だったが、面と向かって二人を嘲るような村人はいなかった。良い気候に恵まれ、作物のよく育つ肥沃な土をもつ地形にあったために、皆の気性が穏やかだったのもまた幸いしたのだった。子どもや同僚の教師たちから「先生」と呼ばれ、尊敬のまなざしを受けることは、失っていた景清の誇りを回復させるものであった。 一方の入江は村の竹細工職人に弟子入りをし、その技術を学んだり、家の畑で野菜を育てたりして過ごした。老若男女に礼儀正しく、綺麗な顔を持つ入江の穏やかな態度は、二人への警戒を解かせるのにも役に立った。早くもいくつかの村の若い女は、熱を持った視線を入江に向けていた。また、景清の洗練された所作や、子どもの前でのみ緩む表情というものを好む女もいた。 若い男二人で家を借りて暮らすというのは無論、奇妙に映る。村人たちは初めのうち、その関係について度々尋ねたが、二人が単なる友人であるとひたすら言い張り続けていると次第に、その追求も収まっていった。 狭い家の中、二人は並んで畳に布団を敷いて寝ていた。移住してしばらくは慌ただしく、何もなく眠りについていた彼らだが、職を得て三ヶ月ほどが経てば生活にも慣れてくる。そうなれば、既に関係を持っている二人の間で色事が発生するのも自然なことであった。 看守が盛った薬の影響で、懲役場にいた間に景清の欲はほとんど消え失せていたものの、ここで安寧を得てからは、少しずつそれを戻り始めていた。その日、入江が寝巻をはだけさせて横たわっていると、何が景清を刺激したのか、彼は布団を捲りあげ、入江に口付け始める。身体を繋げたことはそれなりの回数あったが、唇を重ねることは二人の間では稀なことであった。いつだってその選択権は常に景清が握っていた。 その日もまた、二人は寝巻きを脱ぎ捨て、布団の中で抱き合った。興奮で息を荒げ、獣のような目をした景清のそこはしかし、項垂れたままだった。 「くそ、やはりあの薬のせいだ」 景清は苛立ちで頭を掻きむしった。ぴくりとも動かない景清のそれを、入江はじっと見つめる。それだけでは飽き足らずに、ふう、と冷たい息を吹きかけたり、細長い人差し指でつついたりした。 「景清さま、おいたわしや……」 その言葉を聞いて眉を吊り上げた景清は、声の主の頬を張った。布団の海に倒れ込んだ入江は、左頬を抑える。 「おまえ……! 俺を、馬鹿にしているのか!」 「いえ、そのようなことは……」 「主人を侮辱するなど! 随分偉くなったものだなぁ、入江」 「あ……」 右手の親指とその他の指たちで、入江の頬を鷲掴みにする。景清の大きな手によって、入江の端正な顔が歪む。 「はっ、不細工な面だ」 景清が強引に唇を奪うと、歯がかちりと当たる。彼はそんなことにも構わず、そのままぶ厚い舌を捩じ込んだ。 「はぁ、入江。おまえのそれは、俺のと違ってえらく、調子が良さそうだな?」 入江のそこは、興奮が形となって表れていた。景清がそれを左手で雑に押し揉み込むように動かすと、入江は呻き声をあげた。 「藤堂に居たときから、おまえ、これが好きだったろう?」 そう言って景清は再度、頬を張る。肌を叩く高い音が家の中に響いた。 「幸いにも明日は、俺たち二人とも休みだ」 頬の手形程度なら一日で引くだろうが、青痣はそうもいかない。景清は村人に怪しまれないよう、卑劣な計算を働かせていた。 「なぁ。あの看守の野郎は、おまえをこうやって叩いてくれたか?」 「あ……ああっ」 「女のように喘ぐ」 入江はかん高い悲鳴をあげると、景清は嘲るように鼻で笑った。 「女を抱いたことなど……ないくせに……」 「口の減らない、やつめ!」 その通り、景清は女を抱いたことが無かった。それは娼館での遊びを覚える前から、手近にいる入江に手を出していたからだった。 気に障ったとでも言うように珍しく入江が反抗すると、景清は入江のそれを容赦なく蹴り上げた。 「う……がっ、あ」 「お前こそ、男に抱かれたことしかないだろう! それともなんだ。女相手でもこうなるというのか?」 景清は裸足で、入江のそれをぐりぐりと踏む。それは蹴られても踏まれてもなお萎えることなく、いまだ硬度を保っていた。 「まぁどうせこの先、使うこともないんだ」 「そんなこと……分からないじゃ、ありませんか」 「分かるよ。おまえは俺に抱かれるのが、一番好きだろう」 否定をしない入江の両手を、景清は手拭いで縛りつける。本気で解こうと思えば解ける程度の結び方だったが、彼は抵抗をしなかった。先ほどの生意気な反抗すら、自分を虐めさせるためのものだったに違いない、と景清は確信した。 入江を放って起き上がった彼は戸棚から、薬箱を持ち出す。そして洗い場で水を汲んで粉薬を飲むと、布団のそばに戻った。先程飲んだ粉薬は、不能症状を一時的に改善させるためのものだった。行商人が村にやってきたときに、こそこそと買ったものである。その行商人はまたこれを売りにくると約束して、去っていった。 「さて。この薬が効くまでに、身の程をわきまえさせてやる」 その言葉を聞いた入江は唇を噛み、期待するように体を捩る。入江の白い肌に手や舌を這わせると、面白いくらいに彼は鳴いた。景清は耳元で囁く。 「村の隅にある家など不便だと思っていたが…………なるほど。おまえの情けない声を誰にも聞かれないのは、悪くない」 またある日、家事を担う入江は、夕餉となる鴨鍋をかき混ぜていた。出来具合を確認するために、湯気に顔を突っ込むようにして覗き込む。絹のような彼の髪がぱさりと顔の前に垂れた。邪魔にならないように、その辺りに落ちていた紐で簡単に髪を結う。その入江の両肘が、景清の視界に入った。 「ん? 入江おまえ、髪が伸びたな」 「あぁ、伸ばしているのです」 「何故だ?」 入江は珍しく口籠った。 「ええと……その」 「何だ? 隠すな、言え」 「……景清さま、昔仰っていましたよね。葉子さまの長い黒髪が、美しいと」 景清はその言葉を聞いた瞬間、これ以上ないほどに顔を顰め、怒号を上げた。 「あの屑女の名前を出すな! 二度と!」 しかしその夜、次に葉子の名前を出したのは入江ではなく、景清の方だった。入江を布団に引き倒した彼の手つきは、いつもより優しかった。 「葉子……葉子」 入江をうつ伏せに敷いた景清は、結えられた紐を引き抜き、その髪を解かせた。艶のある黒髪を指で丁寧に梳く。 「葉子、おまえの髪は美しいな。……そうだ、おまえのために、簪でも仕立てようか」 彼は組み敷いた入江を葉子と呼んだ。そしてうわごとのように甘い言葉を紡ぐ。それはまるで自分がまだ藤堂家の息子で、装飾具を買う余裕があるかのようだった。 「白蝶貝の簪はどうだ? そのような装飾が流行しているらしい。おまえの黒い絹のような髪に、さぞ映えるだろうな」 入江の耳元を喰み、細い腰を掴んでは何度も打ちつけると、蜜のような声で囁く。 「教えてくれ。お前の旦那と俺、どちらのほうがおまえを、善くしてやっている?」 「あ……景清、さま」 「黙れ。喋るな」 景清は理不尽にぴしゃりと言い放ち、入江のうなじを手で押さつけると、彼の美しい顔を布団に押し付けた。喉を潰された入江は、くぐもった声をあげる。 「嗚呼、馬鹿な女。俺ではなく、あの太っていて、醜くて禿げで、小汚い男のもとにいくなど」 葉子の旦那はあの料亭で遠くから見ただけだったため、実際の景清はほとんどその容貌を見ていなかったが、そのようなことは問題ではなかった。その後も葉子やその旦那を罵りながら、腰を振る毎に入江の頭を掴んではその髪を引っ張る。 「葉子……愛してるよ、葉子。おまえとの結婚が、待ち遠しい」 「くっ…………」 入江は吐息すら押し殺して、ただ揺さぶられるだけの人形と化した。景清にこれほどまでに優しく抱かれたのは初めてのことだった。暴力による痛みを感じることもなく、ただ快楽のみを享受するだけ。それは彼にとって不思議な感覚だった。景清のために他の男と寝たことも多々あった。そのときは殴られることもなかったが、快楽など一欠片も存在しなかった。入江には今の自分の心情が分からなかった。優しく抱かれて嬉しいのか、悲しいのか、安堵しているのか、悔しいのか。 その日以来、たまに景清はまた、寝具の中で入江を葉子と呼んで抱くようになった。何度その時が訪れようと、入江はその最中の感情に、名前をつけられないでいた。 * 移住してきて二度目の冬に入ろうとするころ、教師の仕事から帰宅した景清はえらく上機嫌だった。 「なぁ入江、これ、何だと思う?」 景清は手に持った封筒をひらひらと揺らし、見せつけた。入江は首を傾げる。 「さぁ……」 「恋文だよ」 入江の目が見開かれる。そんな彼の様子にも気づかず、景清は得意げに恋文を懐に仕舞った。 「聡明で、品のある俺を好いているのだと。まぁ、こんな田舎に、俺以上の伊達男など、一人としていないからな」 入江は何も言わず、二人が食べ終えた鍋と皿を片付け始める。彼が皿を洗おうと水道の蛇口を捻ると、洗い場の台の縁を掴むようにして、景清がその身体に囲った。入江の背に、硬いものが当たる。そう、景清の男性機能は、薬に頼らずとも回復し始めていた。 「景清さま。今日はどうか、ご容赦ください……」 流しの水音にかき消されそうなか細い声で、入江が言った。景清は彼の頸に鼻を当てる。 「よく言う。望んでいたくせに」 「そんなことは……」 「なぁ入江。最近は鍋が多いな?」 景清は脳を貫くような低い声で尋ねた。実際、ここふた月ほどで鍋の回数は大幅に増えていた。鍋が出されるのはどんな日だったか、具材こそ毎回異なったが、景清はそこに法則を見出していた。数秒の沈黙ののち、入江は小さく答える。 「……冬、ですから」 景清は鼻筋で入江の髪をかき分け、首筋をひと舐めする。舐められた部分に冷たい空気が触れ、ひりひりとするのを感じた。 「今日の鍋の具は何だった? 牡蠣、鶏、生姜、棗。ああ、滋養のつくものばかりだ。大して金の余裕があるわけでもないのに、そんなに俺に――抱かれたかったのか?」 後頭部のそばで囁かれ、入江の身体は熱くなる。もう彼は、景清の言葉に反論することはできない。 「おまえ、可愛いな」 愛でるように、景清は目の前の頭を撫でた。珍しいその行動に、入江は目を瞬かせる。 「俺を逃すために看守に媚を売って抱かれ、懲役場に放火し、あの醜男ごと全てを丸焦げにしやがった。おまえは一体、あの日何人を殺したんだろうな。そして今はまた、同じ家で俺の飯を作っている」 景清は入江の犯した罪を言葉にして並べる。けれど入江は、それらの不法行為について「あなたのためにやったのだ」だなんて、責任の所在を求めることは無かった。 「可愛いやつ」 「――もし、もしも」 再度彼が頭を撫でると、入江はぽつりと溢し、続けた。 「私を可愛いと……本当にそう思うのならば。どうか、この村の女と番わないでください」 「はぁ? 何を。そんなの、俺の勝手だろう」 入江は洗い物の手を完全に止めると、後ろを振り返る。彼は震えながら、それでも意を決したように、至近距離で眉をひそめる景清を見つめた。 「私は、景清さまと二人で暮らしてゆきたいのです」 「……何を誤解している? おまえは俺の所有物だが、俺がおまえに縛られる筋合いはない」 彼はその場で入江の着物を脱がせ、肌をなぞり上げる。背中には小さなひきつりがいくつもあった。刻み煙草によってつけられた火傷の跡であった。熱された煙管の雁首を押しつけられた入江が、くぐもった呻き声をあげるのが、景清は好きだった。「高級品だ、おまえも味わうか?」と紙巻煙草を押し付けたときの小さな跡もあった。 普段の褥の中では後ろから彼を好きにしようと、このように跡がはっきりと見えることはない。しかし行灯の置かれた室内で、入江の白い肌の上のそれは痛々しいほどに映った。投獄されてから吸う機会はなくなったものの、その嗜好品が恋しくなる。もっとも、好んでいたのはその味というより、痛みに耐える入江の声だったが。 「だけど、この家は私の名前で借りています。私が鍵を取り上げてしまえば、景清さまの住むところはございませんよ」 「適当に女の家に転がりこめば良いだけだろう。いつか俺が、おまえにしたように」 下手な脅しを飄々と躱した景清は、土木の男たちの逆恨みから逃げて入江の家に押しかけた時のことを思い返す。あの時も今のように、家事は全て入江が行なっていた。 「仮にも村の教師がそんな……外聞が悪うございます。信頼に響きましょう」 「そうなったらまぁ、その女と籍でも入れてやるかもしれないな」 景清は別に、特定の女と一緒になろうと考えていたわけでもなかった。このように捻くれた言い方をしたのは、珍しく食い下がる入江を生意気だと感じたためだった。そもそも景清は、村の女のことを野暮ったくて田舎くさい、文字も読めないような女どもだと内心見下していた。 「もしも。もしも本当に、景清さまが私を捨てることがあれば――」 「なんだ、俺を殺すか? あの牢獄の中の奴らと同じように」 「いいえ。相手の女は殺すかもしれませんが……私に景清さまは殺せません。ですから、この村の人々全てを打ち明けて、一人で死にます」 「おまえが死ぬのか」 景清は笑った。 「ええ。だって景清さま、炊事も洗濯も出来ませんもの。村から追放されて、どう生きていくというのでしょうか」 入江は縋り付くように、景清に手を回す。その懐から先程仕舞った恋文を引き抜いて半分に裂くと、その辺りに放り捨てた。そして、媚びるように胸板に頬擦りをする。 「ねぇ、景清さま。貴方はね、私がいないと、だめなのですよ」 自分が思うよりずっと、目の前の入江が思い詰めていることに気づく。その瞳からは今にも雫がこぼれ落ちそうだった。 景清にはまだ女、いや、女体への未練があった。戯れに入江を葉子に見立てることはあったが、もう彼女のことを愛しているはずもなく、ただ美化された想い出に浸って遊んでいただけだった。全く好みの女がいないとはいえ、何度かは村の女の相手をしてやってもいいくらいに思っていたが、しかしどうだ。入江がこの調子では、適当に女と遊ぼうものなら、人死にが起こりかねない。それに、別に男相手だろうと、することは出来るのだ。身の回りの世話をして尽くしてくれるこの男を、わざわざ捨てる理由も必要もなかった。 「おまえ、俺のことが好きなのか。身体だって手だって、汚せるほどに」 「……はい。お慕いしております」 景清は入江を抱えて歩き、敷きっぱなしだった布団に放り投げた。景清は特段力があるわけではなかったが、華奢な入江を多少運ぶ程度は造作もなかった。覆い被さった景清は、自らの顔を隠すように置かれた彼の手を傍に避け、目を合わせる。 「いつからだ?」 「……景清さまが私を、拾ってくださった時から。路地裏で盗みを働き、残飯を漁りながら生きていた汚い私を……気まぐれに掬い上げてくださった時から」 入江は告白した。彼は自らの薄汚い幼少期を思い出していた。景清に拾われてからは、屋根のある家で器に盛られた飯を食べられるようになったのだ。主人の気性がどれほど荒かろうと、入江にとっては問題ではなかった。決して許されない、分不相応な想いすら抱くようになってからは辛かったが、今自分は、彼の胸の中にある。これが主人の不幸の上に成り立った、束の間の幸せであることはわかっていた。しかし、主人を痛ましいと思う内心で、醜く自身勝手な喜びにもまた打ち震えているのであった。 一方で景清は、指を頭に当てていた。正直言って、どのような流れで彼を手元に置くようになったのか全く覚えていなかった。きっと憐れみからの行為ですらなく、新しい玩具が欲しかっただとか、そんなところだったのだろう。景清は自分が幼少期の頃から慈悲深い性などではなかったことくらい自覚していた。 「ふふふ、きっと覚えていないのでしょうけどね。構いません、私が覚えておりますから」 まるで全て理解しているというように、入江は眉を下げて微笑んだ。それを見て景清の胸の奥は、今までに感じたことのない痛みで締め付けられた。景清は入江の耳の曲線に優しく口付け、身体を開かせた。されるがままの入江は、甘えるように擦り寄る。景清の着物がしっとりと、彼の涙で濡れた。 「ねぇ、景清さま……名前を、呼んでください」 「……あー、おまえの下の名前は、何だったか」 珍しく目を泳がせる景清に入江はむくれる。入江のことはずっと入江と呼んでいたのだ。長い付き合いとはいえ、下の名前など覚えていなかった。景清は、蛸みたいに膨らむその頬をつついてやりたい衝動に駆られた。 「悪いって、入江。教えてくれよ」 機嫌を取るように、入江のこめかみに何度も口付けた。湿度の高い溜息が、景清の顔に吹きかかる。 「――
入江音七
(
いりえ おとしち
)
、にございます」 「思い出したさ、なぁ。おまえは可愛いよ、音七」 名を呼ばれた入江はくすぐったそうに笑う。 「ふふふ、何だか……変な感覚です。やはり無理せずとも、入江、で構いません」 「なんだよ、人が折角……まぁいい、俺の好きに好きに呼ぶさ」 景清が顔を近づけると、入江はぎゅう、と目を瞑る。素直で従順な反応が可愛らしく、啄むように口付けた。 「なぁ入江。おまえは俺より先に死ぬんじゃあないぞ。どうやら俺は、一人で生活できないみたいだから」 慰めるような声色に、入江の目からは涙が溢れ、頬を伝った。彼の首にまで流れる雫を啜りながら、景清は考える。自分はいつかこの健気な男に、心からの愛をくれてやる日は来るのだろうか。 もしもそのような日が来るならば、閨の中では「音七」と呼ぶのだろう。案外それも悪くない。そのような結論に至り、再び入江に優しく口付けた。入江は自らの涙で滲む視界の中で、幸せだ、と思った。
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北月ゆり
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