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第一章 巡り逢い④
日がな一日何もせず寝て過ごしたいと思っても、仕事を休むわけにはいかない。会いたくない人がいたとしても、そんな理由で仕事を断るわけにはいかない。
「お兄さん、この前あれと喧嘩したでしょ」
例えば、歩と一緒に住んでいるこの男とか。いくら会いたくないと思ったって、届ける荷物があれば顔を合わせる羽目になる。
「喧嘩っていうか、何ていうか……俺が一方的に怒らせちゃっただけというか……」
「あいつも結構参ってるみたいだったからさ。あんまり泣かせないであげてよ」
「いや、もう会うつもりはないんで。そこんとこは安心してください。ってあいつにも言っといてもらえます?」
「……お兄さんさぁ、」
男は内緒話をするように声を低くし、品定めをするような目で俺を見た。
「本当にただの幼馴染?」
「……はい?」
「ただの幼馴染にしては、雰囲気がやたらと湿っぽいなと思ってさ。少年時代を共に過ごした仲なわけでしょ? それにしては、何とも言えない距離感じゃない? 本当はもっと深い仲だったことがあったりして」
「は、ははは、やだなぁ。んなわけ……」
一刻も早くこの場を立ち去りたいのに、男が荷物を受け取ってくれないものだから帰れない。愛想笑いで誤魔化そうとするが、どうにも笑顔が引き攣ってしまう。
「ふーん。やっぱりね」
「や、ホント、違うんで。マジで。あいつとどうこうなったことはないし、どうこうなるつもりもないんで……」
「でもさぁ、」
男は一段と声を潜め、俺にだけ聞こえるように囁いた。
「抱きたいでしょ」
「はっ……!?」
思わず声が裏返った。男は新しい玩具を見つけた子供のように笑った。例えば、捕まえたトンボの翅を一枚ずつ毟って遊ぶ少年のような、残酷で無邪気な笑顔だった。
「ああ、いいね、君。おもしろいよ」
「は、はぁ?」
「君がしたいって言うならさ、貸してあげてもいいよ」
「は? え……?」
「一晩一万。もっと出してくれる人もいるけどね。その辺はお気持ちってことで」
「なっ……えっ……?」
「君が来てくれたら、あれも悦ぶと思うなぁ」
男は恐ろしく穏やかな笑みを張り付けていた。
俺は男の言葉を理解することができなかった。持っていた荷物を無理矢理押し付けて、脱兎のごとく逃げ去った。
「気が向いたらおいでよ」
男の声が追いかけてくるのを、俺は必死に振り払った。
あの男、人畜無害な面をしているくせに、とんでもないド外道だ。しかし、だからといって俺に口を挟む権利があるだろうか。俺がそうであるように、歩だってもういい大人だ。自分のことは自分で解決するだろう。恋人同士のことは、当人達に任せておけばいい。
そもそも、歩が望んで特殊なプレイに興じている可能性もある。だとすれば、俺のするべきことなんて何一つない。全てを忘れて、明日を生きていくだけだ。
歩には二度と会わない。そう決意した矢先。
「……なんでこんなところにいるんだよ」
会ってしまった。配達先のアパートで。歩の住む家からは反対方向のはずなのに、まさかこんな事態は想定していなかった。
歩は目の端で俺を捉えた。しかし何も言わず通り過ぎようとする。俺は思わずその腕を掴んでいた。
「こんなとこで何してんだよ」
「……てめェにゃ関係ねぇことだ」
「んな言い方しなくたって……」
歩の声は酷く嗄れていた。歩はふと思い出したように喉を押さえると、シャツの襟元を掻き合わせた。
「……どうした?」
「……何でもねぇって言ってんだろ」
「ちょっと見せてみろ」
おかしいと思ったのだ。この陽気に長袖のシャツを着込んでいるなんて。強引に服を捲り上げて露わになった歩の体には、赤黒い痣が浮かんでいた。
「っ、おい――」
咎める歩の声を無視し、俺は歩の顎を掴んで上を向かせた。白い首を一周する赤い痕が目に入る。絞められたような指の痕が残っている。
こいつの腕は、こんなにも細かったろうか。こんなにも脆く、儚かったろうか。乱暴に扱えば壊れてしまいそうだった。袖口から覗く手首にも、縛られたような痕が残っていた。
「困るなぁ。勝手なことされちゃあ」
歩の背後から男の声がした。いつ見ても変わらない、形ばかり愛想の良い笑顔を張り付けていた。
「……てめぇ、こいつに何をした」
自分でもぎょっとするような声が出た。歩は少し怯えて身を竦める。
「妙な言いがかりはやめてほしいな。僕は何もしていないよ」
「こいつに何をさせてんだって聞いてんだよ」
「お兄さんさぁ、何か勘違いしているんじゃない?」
男は歩を強く抱き寄せた。
「これは僕のものなんだから。どうしようが僕の勝手だろう?」
「そいつはものじゃねぇ」
「それにね、これはこいつの望みでもあるんだ。僕が無理矢理させてるわけじゃないんだよ。三方良しってね。よく言うだろう」
「……全然よくねぇだろ。仮にも、」
「だからこそだよ。僕らは楽しんでいるだけなんだ。だからね、ほら……分かるだろう?」
男は、言葉の続きを促すように歩の肩を叩く。歩は伏せていた瞳を上げて俺を見た。
「……二度と、くだらねぇ口を叩くなよ」
氷の矢が胸に突き刺さるようだった。俺は何も言えなかった。待たせていたタクシーに乗り込む二人の後ろ姿を、俺は呆然と見送った。
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