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scene 11. You Don't Know What Love Is
イェリネク・ドヴールを取り囲む丘陵地はすっかり緑一色に染まっていた。風が春の匂いを運び、池の畔 には小さな花々がまるで紙吹雪のように色を散らしている。クロッカスの可憐な花も、以前ゾルトが云ったように、庭の其処彼処 でみつけることができた。
バンドの楽曲制作も、まだまだアレンジなど手を加える必要のあるものは多かったが、デモトラックはそこそこの数になっていた。全員が揃って演奏できなければ困るというようなこともなく、ゾルトはそのタイミングを見て、メンバーひとりずつの撮影を始めたいと申し出た。
いつものようにケーキと、ガーリック味とパプリカ味のポテトチップス――健康的な食生活をしているとジャンクなものが食べたくなるらしい――などの差し入れを積み、ロニーとマレクがやってきた。今回は荷物が少ないにも拘わらず、ふたりはそれぞれ自分の車を運転し、二台に分かれてやってきていた。後ほどドリューとジェシ、そしてゾルトを乗せ、ブルノへ撮影に向かうためである。
先日の事故のあと、時間が経ってから頸などに痛みがでるようなこともなかったと、ロニーはいつもどおり元気な姿を見せた。しかも、この日はとびきり上機嫌でもあった――乗ってきたのは、買ったばかりの新車だったのだ。
しかし。
「は?」
「え、なにこれ……」
「こうきたか。うん……ありえないな」
「……同じ車かよ……」
新車で来たと聞いて外へ出てきたルカたち一同は、本館の横手に駐められたその車を見た途端、揃ってつまらなそうな声をあげた。
「そう、フィアット500よ。やっぱり好きなのよねえ、まあ慣れたものがいちばんってこともあるし。間違いないと思って」
「他になにかなかったのかよ」
「せめてさあ、プジョーとか……」
「プジョーいいですよね! 207とか。あっ、シトロエンもいいかも」
「フィアット500が好きなのはわかったが、ならアバルトでもよかったんじゃねえのか」
「ああ、アバルトってあったな。フェラーリやマセラティとコラボしてるやつだろ」
「いや、そんな小洒落たの乗らなくていいから。また事故ったらまずいからさあ、コンパクトやめてもっとでかいの乗れって。せめてセダンとか」
「いいじゃない! もう買っちゃったんだし、今更云われても! それに同じじゃないわよ、色が違うでしょ」
まったく、男って車のことになると煩いんだから、とロニーは呟きながら真新しい愛車に向き、暖かな陽射しを照り返している真珠のような輝きに目を細めた。
「これ、アイスホワイトっていって特別仕様の色なの。よく見かけるフィアットの白と違って素敵でしょ?」
「メタリックなだけだろ」
フィアット500のよく見かける白、というのはボサノバホワイトのことだ。ボサノバホワイトがマットなオフホワイトであるのに対し、アイスホワイトは純白のパールペイントで、ルカのメタリックという指摘は微妙に外れている。
が、外れているどころではない、ろくでもないものの色を連想した者がふたりいた。
「アイスホワイト……メス 連想したの俺だけ?」
「俺も思った。まさに『アイス』だな。結晶の色だ」
「やっぱりユーリも思った? 冷たくて白いやつ、久々にキメたくなるね」
「テーーディーーイーー?」
両手を腰に当て、まったく、とロニーは呆れたようにテディとユーリを睨みつけた。
「あんたたち、プラハに戻っても悪い遊びはしないでよね! 自分の健康とバンドのことを考えて、また違法なものに手をださないように――」
「わかってるって。冗談だってば」
「了解、ボス 。きちんと法に従って、ウィード だけにしとく」
どこまで真剣なのか、テディとユーリがそんなふうに云って笑っていると。
「待たせたかな」
カメラバッグとバックパックを手に、ゾルトがやってきた。ほとんど手ぶらなドリューとジェシはマレクの車に、それを見てゾルトはロニーの車に乗りこもうとする。
そのとき、ユーリと肩を並べていたテディがゾルトに近づき、「ねえ」と声をかけた。
「俺らはまだ? ひょっとして明日とか?」
なんだ、仕事の段取りについてテディが気にするなんてめずらしいな、とルカはユーリよりも後方からその様子を見ていたが。
「いや、まだ構想が浮かんでないんで……次に撮れそうなのはユーリかな。君らもなるべく早く撮れるように考えるよ」
「……今日、撮影って夜までかかる? ここへは今日中に戻ってくる?」
「さあ、どうかな。ドリューたちは帰れるようにするけど、俺は、アイデアが浮かべば準備にかかるのに、そのまま残るかも」
その返答を聞き、テディは暫し黙ってゾルトの顔を見つめたあと、なにも云わずにふいと別館のほうへ歩いていってしまった。どうやらテディが気にしたのは、予定についてではなかったらしい。
ゾルトが困ったような笑みを浮かべて車に乗りこむ。そうして二台の車はイェリネク・ドヴールを出ると、緑の絨毯に挟まれた道を北へ向かっていった。
ロニーたちを見送ったあと、三人は敷地内に戻った。
その場にいるのがエミル、ユーリと自分の三人のみになり、ルカは一気に人が減ったなと広い中庭を見まわした。テディはおそらく別館の部屋にいるだろうが、自分たちを除けば此処にいるのは本館の厨房か二階にいるであろうイェリネク夫妻だけだ。
「さて、どうしようか」
「もちろん、俺らでやれることだけやっちまおう」
ユーリがそう云いながら両腕をあげ、広背筋のストレッチをするように伸びをする。だがルカは、うーんと考えながら首を傾げた。
「……今日はもういいんじゃないか?」
おそらくユーリが首を縦に振ることはないだろうな、と思いながら云ってみた言葉だった。案の定、ユーリはとんでもない、といった表情で即答してきた。
「いや、とっとと終わらせて、早くここから引き揚げられるようにしたい。おい、テディを呼んできてくれ。たぶん部屋に戻ってるだろ」
エミルにそう云って、ユーリがすたすたとスタジオへ向かう。ルカはなんとなく一荒れきそうな厭な予感に唇を噛みながら、渋々そのあとについていった。
「――おいテディ、おまえいいかげんにしろよ。やる気がでねえって? 違ぇだろ、あいつがいねえと気が入 らねえんだろ? けどな、そんなことでいちいちさぼられちゃ困るんだよ」
「は? なんだよそれ、なんの話? いったい誰のこと云ってんの、俺はただ気が乗らないって云ってるだけじゃない」
「惚けんじゃねえ!」
「おい、ユーリ……やめろって」
厭な予感は見事に当たった。エミルが、やる気がでないってテディが出てきません、とひとりで戻ってくると、ユーリはすぐテディの部屋までやってきた。ルカも只事じゃ済まないとユーリを止めようと追ってきたが――
「おまえ、口ではそうやって素っ惚けるが、バレバレだ。ちゃんとわかってるんだ、あの野郎が来たときからな! ……初めはやたらと突っかかりやがって、いったいなにかと思ってたが――」
「ユーリ、そこまでだ。頼むからやめとけって――」
ルカは肩を掴んで止めたが、ユーリがそう簡単に引っこむはずもない。ルカはまったく、と困った顔でテディを見た。まるで動じない彼の態度がユーリをさらに煽っているのだ。
「なんなの、さっきから。わかってるとか惚けてるとか、いったいなに云ってんの? 別に俺はなんにも――」
「なにをわかってるのかって? あいつがおまえのなんなのかだ。ハンガリー人ってのを聞いたとき、すぐにピンときたさ。おまえの態度の意味がな」
「だからなに。もう、意味わかんない」
「意味がわからんのは俺のほうだ! 金と引き換えに寝た男がそんなに気になるのか!? よっぽど悦かったんだな!」
さすがにテディが顔色を変えた。ずばり云ってしまったかとルカが顔を顰めた瞬間、テディが批難するような目を向けてきた。自分が気づいていたことはテディも察していたが、まさかユーリに云うなんて、ということか。
テディはベッドから降りると、立ち塞がっていたユーリとドアのところにいたエミルを押し退け、部屋を飛びだしていってしまった。はあぁ、と大きく溜息をつき、ルカは首を振りつつ額に手を当てた。
「……やめとけって云ったのに。なんで堪らえられないんだよ……」
独り言のように呟くと、ユーリが信じられないという顔でルカを睨みつけてきた。
「止めるおまえのほうがおかしいんだ! だいたいおまえが甘いから、テディが一度寝ただけのあんな奴に感 けちまうんだろうが! 他の男に色目遣うんじゃねえって、びしっと云ってやれよ!」
「甘いってなんだよ、テディは俺の所有物じゃないぞ!」
この場に居づらくなったのか、エミルが「テディの様子を見てきます」と離れていった。ルカは再び息を吐いて落ち着こうとし、ベッド脇の椅子に腰掛ける。
長い髪を掻きあげるようにして両手で頭を抱え、ルカは噛みしめるように話し始めた。
「……初めてなんだよ、たぶん」
「なにがだ」
苛立ったようなユーリの声が降ってくる。ルカは続けた。
「たぶんあいつは、いま初めて恋をしてるんだ。ロンドンの学校で俺と出逢うまで、そんなことに現 を抜かしていられる環境じゃなかったから……」
テディは、母親とふたりで暮らしていた子供の頃、ある事情があり居を転々としていたそうだ。そして母親を喪う前、最後に過ごした地でテディは、一緒に暮らしていた母親の情人から性的虐待を受けていた。
それが十二歳にならないくらいの頃から二年も続いたと、以前聞いた。そのうえ、ルカと一緒だった寮制学校 にいた頃も、休暇中にホストファミリーの家で過ごすたび、一家の主に関係を強要されていたという。
「学生の頃、あいつが俺に抱いてた感情は恋とか愛じゃない。依存だった。でも音楽の趣味が合うのをきっかけに、あいつは少しずつ俺を心から慕ってくれるようになったんだ……。でも」
話しながら、ルカはあらためて実感した。テディと自分は少しずつ、本当に少しずつ信頼関係と愛情を育んできた。依存から始まったとしても、今ではテディが自分を愛してくれているとわかっている。そう確信できる。
だがそれは、自分の想いをテディが受け入れてくれた結果なのだ。テディ自身は、おそらく――
「……あいつはガキのときいろいろあった所為で、誰もが十代のときに経験するような恋をしてなかったんだと思う。自分で自分をコントロールできなくなるような思いなんか、してる余裕がなかったんだよ。胸がざわざわして、ちょっとしたことで眼の前が薔薇色になったりがっかりしたり、ひとりでいても誰かのことで頭がいっぱいで、もうどうしようもなくって真夜中に逢いに走っていきたいような……そういう思いを、テディはいま初めて経験してるんだ」
ルカが一息に云うと、ユーリはまさか、というように目を見開いた。が、否定するような言葉はでてこなかった。
「……だから、おまえもむかつくだろうけど、もう少し放っておいてやってくれ。あたりまえの思春期ってやつを過ごしてこなかったあいつが、十代でやり残してたことを今頃やってるってだけなんだよ」
「……おまえは……どうしてそんなふうに、冷静に見守っていられるんだ……」
ユーリの疑問はもっともだ。ルカはふっと笑みを溢し、その疑問に答えた。
「このあいだ、ゾルトにも似たようなことを訊かれたよ。そのときも云ったけど……俺は、なにがあったとしてもあいつとは絶対に離れないって、そう決めたんだ。もう十五年も前にさ。だから……」
テディがこの胸に帰ってきたときのために、自分は揺らいだり愛情を見失ったりせず、しっかりと立っていなければならないのだ。そう肚を決めたのだ。
もしもテディがゾルトの元へ行ってしまっても、なにかあったとき、彼が帰ってくるのは自分のところ以外にはない。ゾルトだけではない。仮にテディが他の誰かと愛しあうようになったとしても、悩みや困り事があるとき、いつでも頼ってこれる場所になってやらなければとルカは考えていた。だから、テディが傍にいようが遠くに離れていようが、自分は彼を見守りつつ、いつまでも変わらずに待っているつもりだ。
自分にはそれができるとルカには自信があった――テディへの、この揺るぎない想いがある限り。
「大丈夫だユーリ。ゾルトも有名人だし、テディ連れてどこかへ消えたりとか絶対ないから。テディもきっと、プラハに戻る頃には熱が冷めてけろっとしてるさ」
「……だといいが」
ユーリと頷きあい、ルカはテディの部屋を出た。
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