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40. 急な帰宅

 フィルが見つからないようにと願いつつ、戻っていった通路の方へ意識を集中させ、声を潜めていると、かすかに人の話し声が聞こえてきた。ここからでは声のする場所は遠くて何を言っているのか内容まではわからないし、誰と誰が話しているのかもわからない。しかも、複数人の声が重なり合っているようにも聞こえる。  もしフィルが見つかってしまったら、もし相手がお父様だったら。……僕は最悪な事態まで想像してしまい、心臓がひゅっと縮み上がった。  何かあったかもしれないと思っても、ここから出るわけにはいかない。そんなことをすれば、さらに混乱を招くだろう。わずかに聞こえる話し声が安全な人のものでありますようにと祈りながら、僕はただその場にいることしかできなかった。  それからしばらく様子をうかがっていたけど、すぐに話し声は聞こえなくなり、あたりは静かになった。騒ぎになった様子もなく、大丈夫だったのだとほっと胸を撫でおろした。  けれど、お昼になっても使用人が離れを訪ねてくることはなかった。本当なら、朝のお皿の回収に来て、屋敷内の様子を教えてくれるはずだ。頻繁に出入りして怪しまれることがないように警戒しているのかもしれない。お昼になったらやってくるだろうと思い、もうしばらく待つことにした。  使用人がやっと来たのは、お昼の食事の時間をだいぶ過ぎた頃だった。 「すみません、遅くなってしまって……」  申し訳無さそうにやってきた使用人は、声を潜めることもなく普通に話しかけてきた。 「え? 大丈夫なんですか?」 「ええ。もうリヒター公爵家の皆様はお帰りになられましたよ」 「明日まで滞在の予定では……」  僕が驚いて尋ねると、使用人は首を横に振りながら答えた。 「あまりにも急だったので、私も驚いているんですけどね。なにやら、どうしても外せない用事が出来てしまったそうなんです。従者が伝えに来て、慌ててお帰りになられました」 「そう、なんだ……」  そう言って状況を説明してくれる使用人もわかっていない様子だから、僕が正確な状況を把握するのは到底無理な話なのだろう。  スッキリしないけど、次にお母様に会う時に尋ねてみようかなと、僕は思った。そして手を合わせ神に祈りを捧げると、使用人が持ってきてくれた食事に手を付けた。 「リヒター公爵家の皆さまはお帰りになられたのですが、忘れ物をされてしまったようで、旦那様が慌てて届けに行かれました。そのため、まだ何かと屋敷内が落ち着いておらず、私がこちらに来るのが遅れてしまいました」  お昼が遅かったから夜はいらないと伝えておいたけれど、思ったより遅い時間に空の食器を下げにやってきた。何かあったのかと心配になったけれど、使用人の言葉を聞き安堵の息をついた。  リヒター公爵家の面々が帰ったのなら、部屋から出てもいいかと思ったけど、予定では明日までの滞在だったということでおそらくお父様がまだ屋敷内にいるはずだ。僕は大人しくしているのが良いと思い、使用人の仕事は予定通り明日までお休みさせてもらうことにした。 「フィルは、どうしたの?」  そういえば……と、僕は昨日久しぶりに、ほんの少しだけ会うことができた弟の顔を思い出しながら尋ねた。  当初の予定では、三日目にリヒター公爵家の馬車で、学院の寮まで送って頂く予定だったと聞いていた。  馬車内でも話す機会を設けることで、二人の仲もより親密になるだろうという、両家の両親のはからいだそうだ。 「急すぎる帰宅となったため、フィラット様はご一緒されず、今もお屋敷にいらっしゃいますよ」  その言葉をまるで待っていたかのように、タイミング良く入口の扉がノックされた。

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