2 / 10
一話※ ネオ南都
窓の木枠に手を突いて、澄んだ青空を見上げる。
安良池 街道に沿って立ち並び空を編む巨大な鉄塔と無数の電線の間隙を縫って、鳥達が空を飛んで行く。
幽閉生活を脱してから五年経ったが、鳥の死骸というものはついぞ見たことが無い。
奴らはナノマシンの壁に狙撃されぬのだろうか。
鳥が羨ましい訳ではない。
幾億にも分断された世界はそれぞれが完結した環境を持つ。
このネオ南都の地もその一つだ。
危険を冒してまでナノマシンの壁を排除したり、テレポート技術を奪ったりしてまで、ネオ南都の外に出て行く意味は無いのだ。
ぱら、と頁を繰る音が微かに耳に届く。
横目に盗み見れば、椅子に掛けた『彼』はほっそりした指で顔の前に本を支え、こちらのことなど忘れてしまったか端から見えていないような態度で読書に集中している。
今の自分はモノ以下だ――タンクトップの上に昭和丈の羽織、一〇センチ程の厚みがある本を挟んで立つ下肢は黒いレースの下着のみ。
窓の外に晒している上半身はまともな格好だが、壁の裏には打たれて赤く色付いた剥き出しの太腿が在る。
気を抜けば快楽で蕩けてしまいそうな目で往来を眺め、淫らな痕と痺れの残る下肢を春風に撫でられて昂るなど、理性ある生物のすることではない。
畜生にも劣る、自己を持つ権利さえ無いモノ。
無視してくれて良い。それがSubの悦びになる。
「由利兄ちゃん! 佐久良さん! こんにちは」
不意に声を掛けられ、道路を見下ろす。
町屋に挟まれた、桜の花弁が散るコンクリート道に少年が立ち、二人が居る二階を見上げている。
無邪気な笑みを向けてくる少年は、道場に剣術を習いに来ており、自分のことを兄のように慕ってくれているうちの一人だ。
羞恥、背徳に震え、窓枠をきつく掴んでやり過ごそうとする。
必死に平静を装って挨拶を返すが、少年に不思議そうな目を向けられた瞬間、法悦が身を貫いた。
顔は熱が集まるのを感じながらも表情一つ動かさなかったのに対し、ストッキングに包まれた脚はもじついて、膝の間に挟んでいた本が鈍い音を立てて畳に落下する。
まずい、と背が強張った。
少年が去って行くのを見届けていると、手首を掴まれ、引かれる。
「Kneel(跪け)」
薄く温度の感じられない唇がコマンドを呟く。
それに応えて畳にぺたりと座り込んだだけで、『新人類』の神経は、脳は、歓喜を叫ぶ。
ネオ南都では約五〇年前に初観測された、新人類。
支配欲を持つDomと、被支配欲を持つSub。
生物として持っている性欲に、支配と被支配という方向性が加わったような生態をしている。
新人類の多くはDomとSubの組み合わせで主従にも似た番を形成し、加虐と被虐、保護と被保護、君臨と献身といった行動で本能を満たし合い、絆を深める。
「たかだか一〇分のコーナータイムもまともに熟せへんのか?
それも、子どもに見られて興奮するなんざ救いようあらへんな」
木造家屋の生み出す柔らかな陰翳の中、空気中に桜色の光が滲み、二人を包む。
Domである彼がグレアを発動したのだ。
Subを叱り付ける際にDomはこの電磁波を放出し、曝露したSubの不安を煽る。
「ごめん、佐久良……」
彼が離れていってしまう。
焦り、縺れる舌で哀願すると、よりグレアが強くなった。
電磁波特有のじりじりした刺激が肌の上で弾ける。
不安は更に強くなり、喉に物が詰まるような感覚に襲われ、吐息が荒くなる。
「Roll(転がれ)。Present(晒せ)」
グレアは止まず、淡々とコマンドが下される。
コマンドを実行するだけでもSubの神経は快楽を受け取れる。
自分が酷く情けない行為をしていることは理解出来ているのに、浅ましくも命令に従って仰向けに転がり、揃えていた脚を徐々にではあるが開いていく。
鞭の痕が微かに残っている太腿を、少し冷えた素足に踏み付けられた。
「どこがなっとらんかったか、分かるな」
椅子を離れて立ち上がった彼の顔は、逆光になってよく見えない。
怒っているのか、呆れているのか、興奮しているのか――。
ただ捨てられたくない一心で、プレイ中の約束を必死に思い出して、答えを導き出した。
「敬語……ちゃうかった……」
口に出してから、その答えも敬語ではなかったことに気付く。
彼は力の強いDomで、本気のグレアはこんな威力では済まない。
更なる不安に苛まれる前に、慌てて叫んだ。
「ごめんなさい、佐久良様っ」
するとグレアが止み、新たなコマンドと共に手招きされる。
「Come(来い)」
言われるがまま体を起こして、四つん這いで彼の足元に寄ると、彼は屈んで頭を撫でてくれた。
「気付けて偉いな。Good boy(良い子)」
激しい不安が反転したかのように、濃厚な多幸感が湧き上がる。
コマンドを一方的に聞き続けるだけでは、Subはドロップという抑鬱状態に陥る。
コマンドを送り続けた後には、アフターケアといってDomが無条件にSubを可愛がる時間を設けることで、ドロップを防げる。
「そろそろ休ましたろか。
でも俺の奴隷は、もう少し虐めてほしそうに見えるけど」
「はい……もっと、お願いします」
貪欲な答えを嘲ることなく、彼はそっと部屋の中央を示した。
畳に転がる鞭、縄、三尺帯に革のベルト、首輪――。
「這うて、使うてほしい物を咥えておいで。由利」
跋扈する脅威のせいで、人間に必要な睡眠時間は昔と比べると短くなったらしい。
質にも変化があり、深い眠りに沈む間隔が短くなって夢を見る頻度が増えたという。
布団の上で、率川 由利は浴衣の裾を捲って太腿を検める。
勿論、打たれた痕などある筈もない。
深い溜息と共に身体を起こし、畳を踏み締める。
細い骨の上に、必死で鍛えて付けたほんの少しの筋肉が乗った華奢な青年。
赤い髪の襟足を伸ばし、前髪は顔の右側に向かうに連れて肩に届く程長くなるラフなアシンメトリーに切られている。
そして髪で隠れない左側の額から頬にかけては、凛とした造りの顔に更なる貫禄を与えるかのように古傷が縦走っている。
今は使う者の居ない昇降機が設置された階段を下り、洗面を使ってから台所へ向かう。
タイルの上に設置さらた電磁調理器でフライパンを温め、黄身が固くなるようにじっくり時間を掛けて目玉焼きを作る。
ミントグリーンの冷蔵庫から昨日余った冷やご飯を出して来てレンジで加熱し、鮭のふりかけを取り出すと、
出来上がったものを盆に纏め、麦茶と共に居間へ運んで行く。
卓袱台に朝餉を広げて、若い鶯が響かせる春告げを聞きながら食事を摂る。
嫌な夢を見た日は、こうして殊更に味わって食べるに限る。
好物の味で、無意識が不本意に吐かせた卑しい痴話を呑み下してしまうのだ。
空になった食器を下げようと居間を出ると丁度、三善 が部屋から出て来るところであった。
ロココ調の内装をした部屋に寝起きする老女が、由利が居候させてもらっているこの家の主である田中三善だ。
背中の半ばまで伸ばした白髪と薄桃色のネグリジェを揺らし、まだ覚醒しきっていない様子で立っている。
「おばあ、おはよう」
「おはよー……」
「朝飯作ったるで。何が良え?」
そう問うと、三善はやや眠気から浮上したらしく、ぱっと微笑む。
年相応の皴が刻まれた顔は、意志が強そうかつ悪戯っぽく、実際に性格もその通りだ。
「ほな、ホットケーキが良えな」
「はいよ、トッピングはマシュマロとホイップクリームと、ちょっぴりシナモンやな」
「うん、よろしく~」
聞いているだけで胃凭れしそうなリクエストを受けて、由利は再び台所に立つ。
由利は美味しい食事は好きだが、料理は好きでも得意でもない。
しかし三善はロココ調の私室やお気に入りのドレスを綺麗に保つ以外の家政に無頓着で、
放っておけば一〇〇グラムにも満たない食事で半日以上活動しようとするので放っておけず、自然の流れで由利が料理を担っている。
居間で待っていた三善に完成したホットケーキを運ぶと、由利もその向かいに座り、お茶菓子を摘まむ。
「やっぱ里村ラボの培養した卵が一番好みやわ。
昨日販売車に会うたから、買うといて良かった」
「ああ」
「まあ、美味しい一番の理由は、由利の調理が上手いからやけど!」
「褒めんでもおかわりくらいいくらでも作ったる」
卓袱台を挟んで軽口を叩き合う。
「由利、今日は出ずっぱりか?」
「ああ。昼間は道場、夜は狩り。
夕飯は予定通り昨晩までの残りもんやから、俺が遅うなっても待たんと、温めて食べるんやで」
「分かっとるって。
道場が休みなんは明後日やな」
「せや。狩りだけ」
「気い付けや」
「おう。おばあ、ちゃんと鉄砲持っとくんやで。煙幕も」
「当たり前や」
三善はあっという間にホットケーキを平らげ、由利も菓子の残りを片付ける。
洗いものは三善に任せ、由利は私室へ戻った。
ベランダに出ると、はたきを持って、吊り下げた提灯とその中のライトを掃除する。
ライトが汚れて灯りが暗くなることは命に関わる。
複数設置している照明が揃って切れてしまうことも危険だ。
なので消耗しきるタイミングがずれるように予備のものと入れ替えて調節し、三日に一回は埃取りをしなくてはならない。
最も大事な日課を終え、その場で一息吐く。
息が白くなる季節は過ぎたが、流れてくる肌寒さの残滓に我が身を掻き抱いた。
西方を見れば、瓦屋根と鉄塔、電線が織り成す町並みの向こう、大きな通りを五、六本渡った先に、今日も青白い鋼の高い壁は聳えている。
壁の上辺は地表を覆って、『ロトス』本体へ通路を伸ばす。
幅一二キロメートル四方、高さ二〇メートルの、四角い構造物。
今から約一五〇年前に建てられた、由利が生を受けた頃には当然のように鎮座していたもの。
ネオ南都の地は一五〇〇年前、一世紀にも満たない短期間ではあるが、当時のメトロポリスがあった歴史ある盆地だ。
左京以西は白いアスファルトで均されてロトスの下敷きとなり、
ロトスの外に取り残された人々の居住地は、外京に毛が生えたような狭さだ。
ナノマシンの壁の向こう、ネオ南都とは異なる地にもロトスは存在する。
かつて『日本』と呼ばれていた地域だけでも六〇〇〇もの区域に分割され、それと同じ数のロトスが建設されたらしい。
西にロトス、東に深い鎮守の森、そして南北にはナノマシンの壁。
ロトスに住まう者達は、彼らから見た外界――由利が住まうこの世界を『さすらいの地』と呼んだという。
小さな盆地の、さすらいの地。
それでも由利にとっては広大な自由を象徴している、父からもぎ取った最大の戦利品。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本番は遅いですが甘めのSM盛り沢山のハピエンですので、好きな章だけでも是非読んでくださると嬉しいです!
推しキャラ書くだけでも良いので、感想もらえると喜びます!
元々webに載せる予定で書いていなかったので区切りが少し変なところがありますが、極力分かりやすいようにしていきますのでご了承ください。
あと文字化けがあれば教えてください……。
ともだちにシェアしよう!

