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第4章 左の真ん中

     1 「ねえ、ちーろ。どうしよう。好きな人ができた」  へえ。 「私の病院に入院してる人」  そーかい。 「おんなじ病気かなあ」  お前は病気じゃねえだろ。 「でも手も足も縛られてるよ」  逃がさないようにしてるんだ。  陣内千尋。  許さない。  えんでをあんな眼に遭わせやがって。  お前のせいでえんでが歪んだ。  俺を置いて逃げた。  噛み切った中指はどこに行ったかわからないのでひっつけられなかった。  たぶん、  えんでが喰ったんじゃねえかな。      2  このクソ暑い中、動物園に行った。  なんで行ったのかと言うと、鬼立が行きたいと言ったから。  デートか?  違うか。 「彼女が」  ん?  いまなんつった?? 「行きたいと言っていてな」 「下見ってことか」  どういうことだ。  9月中旬。  この半月の間に彼女作ったってことか。  手が早いというか。  やることやってるというか。  園内マップを見ながら歩く。 「ちなみに? 彼女どんなん?」 「どんなって」鬼立の顔が赤くなる。「いい人だよ」  うわ。  これはもう完全に参ってるな。  10時。  キリン舎の前に来た。 「好きな動物は?」 「知らないが、動物全般が好きらしい」鬼立が言う。  彼女について根掘り葉掘り聞きたいが、それどころじゃなさそうだった。  幸せボケで頭が溶けてる。 「デート初めてってことか」 「だから恥を忍んでお前に付き添ってもらってる」鬼立が言う。「だから悪い。頼む」 「デートはいつなんだ」 「来週の土曜」  1週間後か。 「まあ、協力してやらんでもないが、態度がまずよくないな。もうちょっとエスコートする感じで」 「お前もデートしたことないだろ」 「したことあると思うか?」  鬼立が言葉に詰まって眼を逸らす。  襲われたときのことを思い出していたら申し訳ないが。 「まず人選が間違ってんだよ。他に友だちとかいねえのかよ」 「いない」鬼立が即答する。 「あ、悪い」 「いい。気にしてくれる女性はいるんだが」 「お前それ、モテてる自慢にしか聞こえないが」  キリンがこちらを見ている。たぶん気のせいだが。 「まず彼女から告ったのかよ。お前から?」 「向こうからだな」鬼立が言う。 「気にしてくれる女性ってのとどう違ったんだ」 「好みだった」  ああ、そうかい。 「選んだわけな?」 「選んだっていいだろ」  暑い。  クソ暑い。  近くのキッチンカーでフロートとアイスコーヒーを買って日陰に移動した。同じことを考えているカップルや家族連れは多く、ちょうどいい日陰を探すまでにアイスがほぼ溶けてしまった。  塀にもたれかかる。 「彼女、熱中症ならないように冷たいもん買ったり持ち歩いたほうがいいな」 「わかった」鬼立が脳内メモにインプットしている。  何が悲しくて鬼立の恋路を応援しなければならないのか。  初デートの下見に付き合わないといけないのか。 「あのさ」 「なんだ」鬼立がコーヒーを飲む。 「俺とのことはどう思ってんの」 「気の迷いだろ」  なかったことにされてるな。 「付き合って何日目?」 「一週間」鬼立が答える。 「どこがよかったわけ?」 「顔が好みだった」 「写真ある?」  鬼立がケータイの画面をこちらに向ける。  彼女の自撮り。  部屋着で笑顔で映っている。  髪の長い。身長が小さくて。可愛らしい雰囲気の女。  俺と真逆だ。  イラついてきた。 「幸せそうでいいな」 「まだ付き合って間もない」鬼立が言う。 「どうやって出会ったわけ?」 「知り合いの紹介」 「なんで彼女作ったわけだよ」 「お前さっきから、文句言いたいのか応援してくれてるのかどっちだよ」  そんなの。  邪魔したいに決まっている。 「初恋はなかなか実らんぞ」 「そんなつまらない一般論が聞きたいんじゃない。少しでも彼女を喜ばせる方法をだな」 「やったの?」 「まだに決まってるだろ」 「やりてえの?」 「あのな」鬼立が飲み終わったコーヒーの容器を地面に置いて俺を見る。「そういうのだけが恋人じゃないだろ」  清々しいほどの初々しい主張だが。 「いまからマンネリしねえようにいろいろ考えとけよ」 「だから」  ここから少し離れているが、ペンギンを見に行くことにした。  動物園にペンギンているんだな。水族館だけかと思ったが。  水辺だけでなく、そのペンギンが住んでいる生態系を再現している。緑に覆われた丘なんかもある。 「ペンギンが好きなのか」 「ペンギンが嫌いな女性はいないだろ」鬼立が真顔で言う。  暴論だ。 「なあ」 「なんだ」鬼立が答える。 「デートうまく行くといいな」 「ありがとう」  よくもまあ心にもないことを。  その女にあることないこと吹き込んで初デート前に鬼立をフラせたい。  1週間後の土曜日。  9時。  鬼立のデートを追跡することにした。鬼立にバレないように。  このでかすぎる身長のせいで変装が意味ないので充分に距離を取ることにした。  動物園の入口で鬼立が待っている。  何時に集合かわからないが、まだ動物園が開園していない。  9時半。  動物園の開園時間。  開園を待っていた家族連れやカップルが続々と入って行く。  10時。  小柄な女が鬼立に近づく。  こいつか。  ん?  いや。  人違いだろう。  写真だって。  いや、  違う。  俺が見間違えるわけがない。  この女は、  俺の姉だ。      3  姉には俺の尾行が気づかれていた。  反して鬼立はまったく気づいておらず、終始女に夢中。  12時。  鬼立と姉は園内で昼食を採った。  鬼立がデレデレしているのが耐えられなくて一旦距離を取った。  何か殴れるものがあれば殴っていた。  何か壊せるものがあれば壊していた。  なんで、  よりにもよって。  姉が健在なのは喜ばしいことなのだが。  なんで。  俺への嫌がらせ以外に説明が付かない。  電話が鳴った。  非通知。 「なんだ」 「奪うつもりはないけど、ちょっとごっこ遊びを楽しませてよ」  姉からだった。  ケータイを持っていない手を強く握りしめる。 「鬼立は」 「いまトイレ。傍にはいないよ」姉が言う。 「いますぐ別れろ」 「傷つけないように?」 「お前のもんじゃない」 「俺が先に唾付けたのに?」  知られている。  俺の行動はすべて姉に筒抜けだ。 「返してくれ」 「まだちーろのものじゃない」 「頼む」  久しぶりに会えたのに。  なんだこの仕打ちは。 「俺を苦しめたいなら鬼立以外でやってくれ」 「鬼立を使うのが一番ちーろを苦しめられそうなのに?」 「頼む。それ以外なら何でもする」  鬼立の声がする。 「これ終わったら鬼立の家に行くから」電話が切れた。  非通知だからかけ直せない。  鬼立にかけるか?  なんて?  そいつは俺の姉貴だからやめとけって?  正常な思考じゃない。  やめてくれ。  身体がバラバラに引き裂かれそうだ。  14時。  鬼立と姉が動物園から出る。  二人で仲睦まじそうに話をしているのが見える。  ああ、  マジで。  今すぐ世界滅びねえかな。  電話がかかってきた。  非通知。 「なんだ」  雑音。 「いや、さすがにいきなりは」鬼立の声がする。  姉が電話を掛けたままバッグの中かどこかにケータイを隠している。 「お家どんな感じか見たくて」姉が言う。 「いや、でも散らかってますし」 「片付けてあげる」 「いや、そんな手を煩わせるわけに」  断れ。  来るなと言え。 「夕飯作ってあげるよ」 「え、さすがに」  なんでそんな声が嬉しそうなんだよ。  電話を切りたい。  聞きたくない。  姉がこれを聞かせている意味。 「料理得意なの。なんでも作ってあげる」 「え、あの、じゃあ」  じゃあ、じゃねえよ。  飯に釣られてんじゃねえよ。  鬼立の車が発進した。  電話も切れた。  ああ、俺。  あいつの家知らねえな。 「かわいそうに」  うるさい。 「勝てないよ」  うるさい。 「女相手じゃ」  うるさいうるさいうるさい。 「別れてもらうように言ってあげようか?」  無駄だよ。  鬼立があんだけ参ってれば。  俺の出番はない。  帰ろう。  不貞寝するしかない。      4  いいことを思いついた。 「いまいいか」 「大丈夫じゃなかったらどうするんだ」  燕薊幽に連絡した。連絡先はこないだの事件のときに聞いていた。 「こないだの貸し、ぜんぶ返しってことでいいから協力してほしいことがある」  計画をすべて話した。 「生きてたのか」主語は姉。  燕薊幽の娘。  燕薊幽にはあまり似ていない。  陣内千尋が言うには、父親のほうによく似ているとのことだが。  父親の顔を知らないのでどうでもいい。 「できるか」 「可能か不可能かなら可能だが、輸送方法が」 「バラバラにして宅配便使えばいい」 「組み立て方はわかるか?」 「わかるようにしてくれりゃあいい」 「1ヶ月かかる」 「もっと早くならねえか。何でもする。マジで頼む。早ければ早いほうがいい」 「童貞を奪われる前に、か。切実だな」 「頼むよ」 「最優先でやってみる」 「助かる」  あとは届くのを待つだけ。  1週間後。  大きな段ボールが届いた。  中身はなかなか生々しかった。 「嫌われるよ」  あいつと付き合ってるのを見るよりずっといい。 「二度と会えなくなるかもよ」  そうはならないようにしたいが。  鬼立を動物園に呼び出した。 「なんだ」 「なんだじゃない。俺が出掛けるところに監視で付いてくるんだろ?」  鬼立は機嫌が悪そうだった。 「どうした? フラれたか」 「うるさい」 「マジでフラれた?」 「違う。お前に言っても解決しない」  彼女がらみのことなのは違いなさそうだが。 「やらせてもらえねえとか」  鬼立が怨めしそうに俺を見た。  ビンゴか。  それはそうだろう。  姉にはそうできない事情がある。 「んなことでむしゃくしゃすんなって」 「そうじゃない」鬼立が苦虫を噛みつぶすような顔で言う。「昨日から連絡が取れない」 「無視されてるってことか」 「家にも行ってみたが、帰った形跡がない」 「それは警察に行ったほうがいいな」 「一日いなかったくらいじゃどうにもできないだろ。誰かの家に泊まってるだけかもしれない」 「なるほど。ご愁傷さま」  鬼立が今までに見たこともないような憎しみの顔で俺を睨んだ。  ちょっとぞくりと寒気が走った。  一番入り口から遠い場所。  シカとかカモシカがいる丘陵地。  そこに、  置いた。  最初に気づいたのは鬼立だった。  気づくように仕向けた。  柵があって手は届かない。  木々の間にそれは倒れている。  鬼立の彼女――姉そっくりの人形。  全裸で傷だらけ。  鬼立が柵を乗り越えようとしたので止めた。  救急車を呼ぶように言った。  俺は警察を呼ぶから。  居ても立っても居られない鬼立が救急車を誘導しに行った隙に。  人形を回収する。  そこにはもともと何もいなかったように。  鬼立が鬼気迫る表情で救急隊員を案内する。  いない。  おかしい。  だってさっきまで。  警察も到着し大捜索会となったが見つからない。  見つかるわけがない。  だって人形なんだから。  俺が回収したんだから。  見間違えと言うことになって救急隊も警察も引き上げたが。  不満で仕方がない鬼立は、ひとりでも捜そうとする。 「もう諦めろ」  16時。  閉園まで1時間。 「じゃあなんで連絡が付かないんだ」鬼立が珍しく大声を上げる。 「もう一度家に行ってみたらどうだ」 「いなかったらどうする」 「今度こそ捜索願じゃねえの?」  姉の家はもぬけの殻。合い鍵は預かっていないが、警察手帳を印籠に大家に開けてもらった。  鬼立は捜索願を出しに行った。警察でもう一度さっきの状況を説明するらしい。  無駄なことを。  俺は駐車場で待っていた。  電話が来た。 「これでいいの?」姉からだった。 「なんで気が変わったんだ」  当初は俺への嫌がらせをする気満々だったのに。 「なんだかかわいそうになってきて」 「今更かよ」  そんなんだったら最初からやめてくれ。 「先生が」  姉の意中の男だ。 「先生が冷たいから八つ当たりしたかったのかもしれない」 「最悪だよ。俺にやれって」 「だからちーろにやったんだよ」  納得はしないが理屈はわかった。 「もう二度とするなよ」 「来るなとは言わないんだね」 「困ったら助けてやるから」 「ありがと。ちーろはいつも優しいね」  電話が切れた。  鬼立が戻ってきた。 「ちょっと話がある」  鬼立がどうしても俺の家で話したいと言うので移動した。別に車の中でだっていいのに。  18時。  居間。 「署で話して冷静になった」鬼立が斜め向かいに座った。「お前だろ」 「順序立てて説明してみろ」  そもそも動物園に行くと言ったのは俺で。  カモシカの谷を見に行くと言ったのも俺で。 「俺が救急隊を呼びに行っている間に何かしたんじゃないか」  ちゃんと頭を使えるじゃないか。  誰かそばに他人がいると反動で頭が悪くなる仕様らしい。 「どうなんだ」 「殺してない」 「だろうな」 「捜索願出しても無駄だぞ」 「どうして」 「自主的にいなくなったから」  鬼立がやっぱりといった表情で頭を抱える。「お前の知り合いだったなら先に言え」 「姉貴だよ」 「あれが?」 「似てないだろ。遺伝子が違うんじゃないかと思ってる」  時計の秒針がコチコチ鳴る。  鬼立が深く息を吐いた。「悪かった。気づかなくて」 「なんでお前が謝るんだよ」 「捜してたんだろ。どこかに行ってしまったから」 「また捜せばいい。生きてるのはわかったし」 「じゃああのご遺体は?」 「燕薊幽に頼んで作らせた」  人形。 「そこまでするか」 「そこまでしないと別れないだろ」  鬼立が唸りながら再び頭を抱える。  冷蔵庫も唸っている。 「別れてほしかったのか」鬼立が頭を抱えたまま言う。 「あんま言わせるな」 「正直に言え」鬼立が顔を上げた。 「言ったところでな」  鬼立が膝立ちになって俺の顔を正面から捉える。「言ってくれ。そうじゃないとわからない」  なんで。  そういうところだけ真正面から来るかな。 「探偵」鬼立が言う。 「探偵じゃない」 「陣内」 「名字は気に入ってない」 「名前何だったか」 「憶えとけよ」なんかどっと疲れた。  やりすぎたとは思ってない。  このくらいやらないと伝わらないと思ったから。  伝わらない?  伝える気がそもそもあるのか。  伝えたところでどうにもならない。 「どうなんだ」鬼立の短気が発動する。苛々しているのがわかる。 「どうもない」  言わないほうがいい。  知らないほうがいい。 「俺のことどう思ってるんだ」鬼立が真面目な顔で言う。 「知ってんだろ」 「はっきり言え」 「降参。気があるよ」 「気ってなんだ」 「好きってことだよ」 「好意があるんだな?」  あんまり明確に言葉にさせるな。  さすがに恥ずかしい。 「はっきり聞きたい」 「あー、わかった。わかったから一回で聞け。お前のことが好きだし、気になってる」  鬼立が真っ直ぐ俺を見ている。 「お前は忘れてると思うが、大学入ったばっかのときにお前に会いに行ってる。警察になるって言ったら一緒にがんばろうって言われたよ」 「警察に入る気だったのか」 「話を合わせただけだ。ああ、もういいだろ。どうせお前は女が好きなんだから」  俺の想いは実らない。  わかってる。 「彼女と付き合ったのは、俺が女を愛せるのかどうか確かめるためだった」鬼立が淡々と言う。「最低なことを言うが、女なら誰でもよかった」 「最低だな」 「誰か都合のいい相手がいないかと思ってたら、ちょうど知り合いが紹介してくれたんだ」 「その知り合いに謝っとけよ」  鬼立が距離を詰めてくるので後ずさった。 「なんで避ける」 「いや、避けるだろ」 「確かめたいことがある」鬼立が俺を見たまま言う。「もう一度やってくれないか」 「は?」 「彼女とは何もしてない。手もつないでないし、その先も何もなかった。だから確かめてないが、お前のほうをもう一度確かめておきたい。嫌じゃないかどうか、やってみてほしい」 「莫迦だろ。んなこと」 「やってくれていい。俺が許す」  頭がおかしくなっている。  誰かこの馬鹿を止めろ。 「ほら、早く」  迫って来るな。  俺の後ろは押し入れの襖《ふすま》なんだ。  つまり退路がない。 「いいから」鬼立の両手が俺の肩を掴む。 「よくない。俺のことそう思ってくれてるならしてもいいが、別に何とも思ってないんだろ?」 「何とも思ってないわけじゃない」 「じゃあどう思ってるんだよ」 「わからない」鬼立が首を振る。 「なんだよそれ」 「わからないから確かめろと言ってる。もしこれで嫌だったらそれきりだし、嫌じゃなければその先があるかもしれない」  嫌ならそれきりというのが本当に嫌なんだが。 「なんではっきりさせようとするんだ。俺は別に無理に応じてくれなくたって」 「中途半端にしておくのが俺は一番嫌なんだ。だからはっきりさせたい。お前との関係をどうするのか」  鬼立が俺の肩を掴んだ手を離してくれない。  顔もどんどん近付いてくる。  睫毛の本数が数えられそうなくらい至近距離。 「ほら」 鬼立の生ぬるい呼気がかかる。 顔面がさわさわくすぐったい。 「ちーろ」  急に名前を呼ばれてビックリしてその勢いで眼の前の唇を吸っていた。  違う。  名前を憶えてくれていて嬉しくてテンションが上がったその勢いだ。  その場の勢いに任せなければそんなことできない。  前回と違って、たどたどしくも舌で応じてくれてる。  眼鏡が邪魔なので外してちゃぶ台に置いた。  やばい。  足りない。  酸素じゃない。  鬼立を畳の上に押し倒す。  唇を離した。  糸が伸びる。 「どうだ?」  俺はだいぶ限界だが。 「キスもお前が初めてだった」鬼立が言う。裸眼の素顔で。 「も?」 「告白されたのも、だ。お前は俺の初めてばかり奪う」 「言い方よ」思わず項垂れる。  なんでそんなこっ恥ずかしいことを真顔で。  しかも、押し倒されてる男に向かって言えるんだ。  莫迦か。  馬鹿なんだろう。 「で、どうだったわけ?」鬼立の髪を撫でながら聞いた。  俺のと違ってふわふわの猫っ毛だった。 「嫌だったか」 「嫌ではなさそうだった」鬼立が口を開く。今度は唇の湿り気を拭っていない。  口の周りが唾液でてらてらしている。 「なんだその感想」 「だからもう少し考えてみようと思う」 「なんでそこで要検討とか言い出すんだよ。はっきりさせるとか言ってなかったか」 「思いのほか、気持ちの整理が難しいな。想ってくれてるのはわかった。ありがとう」  だ  か  ら 「なんで押し倒されてる男に向かって礼とか言ってるんだよお前は」 「気持ちを伝えてくれただろ。それは勇気が要ることだから」 「お前の気持ちはまだよくわからんてことか」 「そうゆう気持ちを向けられたことがない。いや、向けられていたのかもしれないがそれどころじゃなかった。俺はどうしても警察官になりたかったし、そのためにがむしゃらに生きてた。ようやく理想の職業に就けたところで心の余裕ができたのかもしれない」  分析が冷静すぎて口を挟めない。  こいつは一歩引いたところから冷静になれば的確に頭を使えるんだろう。 「だからもう少し待ってくれ。俺なりにお前の気持ちを考えてみるよ」 「そーかい。気長に待ってるわ。でも比較対象に女と付き合ってみるのはもうやめろよ。女側の気持ち考えたらマジで最低だからな」 「わかってる。もうしない。お前の姉にも悪いことをした」  姉は俺への嫌がらせでしなかったので、それは黙っていた。 「いつまでこの体勢でいるんだ?」鬼立が聞く。 「ああ、悪い」床ドンしていた手を離す。「またしたくなったら言えよ? て、冗談だが」  色の白い鬼立の耳が赤くなっていたのが横目で見えた。  一応意識はしてくれているらしい。  それとも初めてなことが多すぎて動揺しているだけか。  どっちでもいいか。  ま、  どっちでもいいわな。  俺が探偵である限り、鬼立の監視は続くわけだし。  焦らなくていい。  ゆっくり。  こっちに引きずり込めれば。  て、  俺と一緒にいると危険が及ぶかもしれないのも確かで。  隙を見てフェイドアウトするのも手か。  いや、鬼立を手放すほうが苦痛だ。  姉のことは言えない。  燕薊幽のことも言えない。  同じ血だ。  この独占欲の強さ。  一度決めたら絶対に放したくない。  相手が望まなくても一緒に地獄に引きずり落としたい。  ただの病気だ。  治らない。  その日俺が出掛けないことを確認すると、鬼立はあっけなく帰って行った。  10月になったら。  行かなければいけないところがある。  鬼立には内緒で。  言わなかったら。  追いかけてきてくれるだろうか。  捜しに来てほしい。  俺がどこにいても。  俺がいないことを不満に思って会いに来てほしい。  なんて、  強欲な俺だ。 見る座る観るブラン湖 登場人物一覧 ・陣内 千色(じんない ちーろ)(29)伝説の名探偵(通称) ・鬼立 木彦(きりゅう もくひこ)(28)警察庁キャリア 警部 ・燕 薊幽(えん けいゆう)(?)人形アーティスト ・那賀川 静海(なかがわ せかい)(35)K美術館学芸員 ・ベイ=ジン(?)燕薊幽の別の名 国際指名手配 ・陣内 千尋(じんない ちひろ)(50代)ベイ=ジンを捕まえる部署の最高責任者 ちーろの育ての親 ・永片 縁伝(えいへん えんで)(30)ちーろの姉      5 「ベイ=ジンに会ったのか」低い声が言う。  背中の後ろから這いずり回る。  蛇のように絡みつく十本の指。  クーラーが壊れているので室内は蒸し暑い。  汗がだらだら流れてくる上に、喉がひたすら渇く。  すぐそばのちゃぶ台の上に氷を入れた麦茶があったはず。  届かない。  この角度では。 「なぜ報告しなかった」低い声が言う。  顔面が畳に押さえつけられる。  腰のあたりに密着する重量感。 「私がどこの部署を統括しているのか知らないわけでもあるまいに」 「捕まえる気なんかないだろ?」  更に強く後頭部を押さえつけられる。  背中と腰の重量感が増す。  奥の奥を穿ってくる。 「捕まえるかどうかは私が決める。お前が口を出すことじゃない」  重量が叩きつけられる。  ぱん。  ぱん。  肉がぶつかる音がする。  汗と粘液が交ざり合う。  気が済むまでやらせるしかない。  どうでもいい。  いつものことだ。  姉が、殉職した部下に似てると言うただそれだけの理由で暴行しようとしたのでそれを庇ったときから。  この行為は続いている。  この男に性欲なんて人間の欲求はない。  あるのは支配欲と嗜虐趣味だけだ。  どうでもいいので別のことを考えていたら、前髪を引っ張られた。  痛がると図に乗るので我慢する。  痛いというよりは熱かったし暑かった。  溜まりに溜まった濃い物を奥の奥で吐き出して、男が息を吐く。 「次に遭遇したらすぐに連絡するように。何のためにこれを渡しているんだ」  仕事用のケータイ。  この男の連絡先だけが登録されている。  己の昂りを掃除させて満足が行ったのか、俺の口座にいつもより多めに入金していった。  だるい。  起きれない。  暑い。  全身を洗い流したい。  気力が回復するまで畳の上で仰向けになって転がる。  庭に通じるガラス戸を網戸にして部屋を換気する。  氷をしこたま入れた麦茶を一気飲みする。  さっき舐めさせられたもののせいで食欲が失せた。  ピンポーン。  14時。  訪ねてくる人間が思い当たらなかった。  あまりにピンポンピンポンうるさいので対応したら。  いま、  一番会いたくない人間だった。  鬼立木彦。 「探偵か」奴が言う。  だから、俺は。  探偵を名乗った覚えはないんだって。

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