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第3話 神官王と客人

 婚姻式を三日後に控えたこの日、神官王ユリティのもとを一人の客人が訪ねてきた。 (相手がただの貴族なら突っぱねたのだろうが……)  対応した神官たちにはそうすることができなかった。なぜならやって来たのが元神官長だったからだ。  通常、大神殿を訪れる神官長や貴族、王族は、まずは神官王であるユリティに挨拶をする。しかし婚姻式は神との契約式でもあるため外からの穢れを持ち込むことは許されない。そのため婚姻式に限っては終わるまで神官王に挨拶することができない決まりになっていた。  そんな潔斎中の神官王に面会を求めてきたのは先の神官王の甥であり、ユリティとともに神官王の候補者として名を挙げられていた男だった。現在は神官長を辞して貴族に戻り、先の神官王の領地で暮らしている。 (相手が誰であろうと拒否すればいいものを)  神官たちは先の神官王の身内ということで気を遣ったのだろう。しかも元神官王候補だ。いまはただの貴族だったとしても断りづらいのは理解できる。  大神殿を頂点にする神殿や神官は、本来家柄や階級とは無縁でなくてはならない。ところが実際は神殿内も貴族社会と変わらず、それ以上に階級に厳しい世界だった。そのことがユリティには滑稽でならなかった。神に仕えるべき者たちが自ら作り出した身分に縛られるなど、いったい誰に仕えているのやらと美しい口元に笑みが浮かぶ。 (あと三日ですべてが済むというのに煩わしい)  潔斎をしているはずのユリティだが、実際は神に祈るのではなく大神殿全体に結界を施す作業に追われていた。そこまで手をかけるのは御神託の花嫁が大神殿にいるからで、生半可な結界ではあの姫を閉じ込めておくことはできない。同時にリシアを狙う侵入者を選別し排除するための結界でもあった。  リシアを求めているのは人間だけではない。金竜が産み落とした血脈は人ならざるものにとっても手を伸ばしたくなる存在だ。それでも争いが起きないのは、かつてこの世界を自由にしていた古の神々が向こう側に住み処を変えたからで、彼らが再びこの世界に手を伸ばせばどうなるかわからない。そうなることをよしとしないのが現在(いま)の神だ。  リシアの母親を筆頭とする現在(いま)の神は、古の神々が再びこの世界に現れることを嫌がっている。なぜなら、現在(いま)の神は金竜の血脈であるのと同時に古の神々に捧げられるべき贄の血脈でもあるからだ。自分たちが古の神々に狙われる存在であることを現在(いま)の神はよく理解していた。だからこそ身を守る術を考えた。 (そこで目を付けたのがわたしというわけだ)  ユリティは肉体こそ人間だが、内側には古の神と呼ばれる魂が息づいている。その神は金竜をもっとも愛でていた神であり、金竜が産み落とした二人のうちの一人をずっと見守ってきた。神としての肉体を失いながら、その後も人の肉体を何度も得て見守り続けている。 (永らく見守ってきたが、ついに二つの血脈が交わった)  金竜の血脈が永いときを経て一つになった。その結晶であるリシアを手に入れられるなら、現在(いま)の神の願いを叶えることなど些細なことでしかない。笑みを浮かべるユリティの耳に遠慮がちに扉を叩く音が聞こえてきた。 「どうぞ」  入室の許可を出すと神官王付きの神官が「猊下(げいか)」とうやうやしく頭を下げながら入ってくる。 「カレンツ公を応接間にお通しいたしました」 「わかりました」 「……その、再度ご遠慮をと申し上げたのですが、どうしてもとおっしゃられまして」 「わかっています。あなた方はよくやってくれています」  そう労うと神官の顔に安堵の表情が浮かぶ。 (カレンツ公スフォルツ、か)  客人はユリティと同時期に神官となった男で、ユリティに遅れること一年後に神官長になった。元は大国シュレイザーラの貴族であり現国王の覚えも愛でたいと聞く。神官長でなくなったとしてもなに不自由なく第二の人生を謳歌できる男が、神官長を辞してニ年を経たいま、わざわざやって来た理由は……。 (最後までわたしの手を煩わせるとは……だが、それ相応の役目を担ってもらうにはちょうどいい) 「しばらく応接間に人を近づけないように」 「承知いたしました」  ユリティの脳裏に、焦げ茶の髪に深い緑色の目をしたスフォルツの顔が浮かんだ。最後に見たのはいつだったかと思い出しながら、潔斎するために用意された区画のもっとも端にある応接間へと向かう。  応接間の扉を叩くと「はい」という男の声がした。扉を開けたユリティの目に最初に映ったのは貴族然とした華やかな男の姿だった。顔の造作は変わらないものの、そこに神官長だった頃の面影は残っていない。 (人は簡単に変わるものだな)  ユリティの感想はそれだけで、ソファに座る男への興味も関心もなかった。 「お久しぶりです、カレンツ公」  ユリティの声に男の緑眼がパッと花開くように大きくなる。 「それで、どういった用件でしょうか」  男が口を開く前にそう問いかけた。一瞬喜びを顕わにしたカレンツ公スフォルツは、眉尻を下げながら「きみが」と言いかけ「あぁ、いや」と口を閉じる。 「さすがに以前のように“きみ”と呼ぶことはできないね」  媚びるような顔にユリティが静かな眼差しを向けた。それに眉尻を下げたスフォルツは、口を真一文字に結ぶと「慶事のお祝いをと思いまして」と口にする。 「猊下がめでたくも御神託の花嫁を迎えられると聞いては、居ても立ってもいられません。ぜひ直接お祝い申し上げたいと思い、こうしてはせ参じたわけです」 「それはありがとうございます。しかし、婚姻前のこの時期は潔斎と祈りに費やすことが神官王の務め。そのことは神官長であった公もご存知のはずですが?」 「もちろん知っていますとも。しかしこうして会ってくださった。……そうしてくださると思っていた」  緑眼がにこりと微笑む。その表情にユリティは「昔からこうだったな」と神官時代からの男の言動を思い返した。  スフォルツは一介の神官だった頃から自信に満ちあふれていた。当時すでに神官王だった叔父を後ろ盾に、神官長に出世するのもすぐだろうと噂されていた。そんなスフォルツはいつもユリティのそばにいた。スフォルツいわく「神のように美しいきみをいつでも見ていたんだ」とのことで、それを聞いたユリティは内心ため息をつくばかりだった。  神への祈りも座学の間もぴたりと寄り添い離れようとしないスフォルツに、周囲は二人は親しい友なのだろうと思うようになった。なかにはそれ以上の関係なのではと勘繰る者もいたが、ユリティのあまりにも清廉な様子に噂はすぐに消え去った。  それをよしとしなかったのはスフォルツだった。スフォルツは自らの容姿が優れていることを理解し、男も女も関係なく好意を抱かれると自負していた。ところがユリティにはまったく効果がない。それどころか興味すら持たれないことに愕然とした。 (だから神官団の一員にまでなったのだろうが……)  当時のことを思い出したユリティの眉が一瞬だけ険しくなる。若きウィンガラード王から「姫に神の祝福を与えてほしい」との使者が大神殿にやって来たのはリシアが八歳を迎える直前だった。リシアの存在をすでに知っていたユリティは、自らウィンガラードに派遣される神官団に入ることを望んだ。そんなユリティをスフォルツは追いかけた。  その後、二度目、三度目の訪問にもユリティは参加したが、同様にスフォルツも参加した。その間ユリティのそばを離れることはなく、ユリティの気を引こうと画策することもあった。四度目の訪問はユリティのほうから辞退した。スフォルツもユリティに倣い神官団には入らなかった。その後二人は神官長になり、さらに神官王候補となったユリティを再び追いかけたスフォルツだったが、候補者になってすぐ神官長を辞することになった。 (それがまたこうして目の前に現れるとは)  つくづく人の欲とは深く強い。ユリティの碧眼はただ静かに男を見ている。 「本来ならこうして会うことはできません。それを押して無理を強いたのは公では?」  穏やかながらきっぱりとそう告げるユリティにスフォルツが苦笑した。「きみは昔から冷たい男だったね」と、口調もすっかり昔に戻っている。 「いつも穏やかで美しく優しい笑顔を浮かべているのに、心はどこまでも遠く冷たい」  スフォルツの緑眼がうっとりしたものに変わった。 「いまも僕の言葉はきみの耳を通り過ぎるだけなのだろう。こんなに想い続けているというのに、きみには僕の気持ちの一片たりとも届いていないなんてね」  酔いしれるようなスフォルツの眼差しにもユリティは表情を変えない。 (相変わらずの自信家だな。そして時と場所どころか立場さえわきまえない)  神官時代のスフォルツの行動は目に余るものだった。神官や神官長の婚姻は認められているものの性への戒めは厳しい。とくに淫行に耽ることは固く禁じられているが、スフォルツは男女問わず部屋に招き入れていた。  そうした行いが神官王の耳に入らないはずがない。だからこそ神官王候補にまで挙がったスフォルツを先の神官王は道連れにするように領地へ連れ帰った。 (スフォルツのわたしへの執着にも気づいていたのだろう)  次期神官王のそばにスフォルツのような者がいては具合が悪い。先の神官王はそう考えた。  先の神官王は半年ほど前から病に伏している。そこに今回の婚姻式となれば、スフォルツが先の神官王の名代だと手を上げることはユリティも予想していた。予想と違ったのは婚姻式の前に面会を求めてきたことだ。 (さて、どう使ったものか)  役に立たせる方法はいくつかある。それらを頭の中で並べたユリティは、神官王が考えることからもっとも遠い選択肢を選ぶことにした。 (花嫁が花開くためのきっかけとしては悪くない)  リシアは、ユリティが求める花嫁としてはまだ目覚めきっていない。大きく膨らんだ蕾を開かせるきっかけに目の前の男を使うことにしよう。ユリティの顔に美しい笑みが広がる。 「あなたの眼差しには気づいていましたよ」  声色を変えたユリティにスフォルツがやや訝しむような顔をした。 「ユリティ?」 「出会った頃からあなたの瞳は情熱的でした」 「……やっぱり気づいてたんだね」 「このわたしが気づかないとでも?」 「そうだね、きみはとても聡い。気づいていても無視しているのだと思っていたよ」 「以前はそうでした。わたしは神官長であることに必死でしたし、その後は神官王になるべく精進の道を選びましたからね。正直、あなたの眼差しに応えるつもりはありませんでした」  ユリティの顔に(つや)やかな笑みが広がる。 「応えるつもりはなかった……と、いうのは……?」  スフォルツの声が期待に震えている。深い緑色の瞳に歓喜の色が見え隠れする。 「いまは大事な潔斎のとき、それに神への祈りを蔑ろにすることは許されません。ですが、少々の時間であれば見咎められることはないでしょう」 「それは……」 「今夜から毎晩、日付が変わる前にこの部屋に来てください。大神殿をよく知るあなたなら、誰にも見咎められることなく来ることができるでしょう?」 「ユリティ……!」 「声を上げないで。誰にも悟られないように気をつけて。ただし、ほんの少しの時間であることは承知してください」 「あぁ、もちろんだとも! きみに会えるのなら、たとえどんなに短い時間でもかまわない。もちろん決して誰にも見つからずに来るよ。きみのために、絶対に……!」  喜びに打ち震えるスフォルツにユリティがゆっくりと近づく。そうして左手を取り、手のひらに触れるだけの口づけを落とした。 「ユリティ……!」  ソファに座ったままスフォルツがブルッと体を震わせた。そうしてモジモジと膝を擦り合わせ始める。その様子と気配にユリティは冷たい目をスフォルツに向けた。当の本人は歓喜と羞恥で我を失っているからかユリティの表情に気づいていない。 (たったこれだけで逐情とは)  醜悪な欲の匂いにユリティが眉をひそめた。しかし今夜からはそれに耐えなくてはならない。そして婚姻式の夜、リシアが花開くためのきっかけになってもらう。スフォルツの手を離したユリティがにこりと微笑んだ。 「では、今宵またお会いしましょう」  歓喜に震えるスフォルツから視線を外したユリティが背中を向ける。扉へと向かう美しい神官王の顔には何の表情も浮かんでいなかった。そのまま足早に潔斎の部屋に戻り、男が放った精臭を跡形もなく消し去る。 「さて、花嫁のご機嫌伺いに行くとしますか」  そう口にしたユリティの顔には誰もが見惚れる美しい笑みが広がっていた。

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