1 / 1
俺が童貞をきった日の話をしよう
やっちまった。
俺は思った。
右手の包丁が嫌な濡れ方をしている。肘を伝った赤いしずくを目で追うまでもなく、あおむけで倒れている野郎が目に入る。
野郎はピクリとも動かない。そいつの胸の傷からも赤い液体が広がり、掃除したばかりのフローリングを汚していく。
ジーザス、何が起こった。
俺が殺した。こいつを。
「クソ、冗談じゃねえ!!」
俺は空いてる方の手で頭を掻きむしった。衛生観念 なんてくそくらえだ。
5分前まで俺は上機嫌だった。
バーで知り合った子が家に来るんだ。
誤解してくれるなよ、メシ食うだけだ。健全なランチデートだ。
週末、俺は仕事帰りにふらっとバーに入った。
言っちゃ悪いがクソみたいな店だった。
ハンパに炭酸の抜けたジントニック、噛めば油の染み出すポテト、あとなんだ、どこをとってもそんな感じだ、覚える必要はない。
「これじゃ俺が作ったほうがマシだよ」
と思った。思ったし言った。
「作れるの?」
と彼が言った。名前はマシュー。天使みたいにかわいいブルネットだ。
天使は金髪? なるほどそういう意見もある。世界の見え方は人それぞれだ。
とにかくマシューは俺の隣に座っていた。
なんでそうなったかは覚えてない。気づいたらカウンターに並んで話をしてた。空から落ちてきたって言われても信じるね。
「料理は得意なんだ。食べに来るか?」
「うん!」
なんてやりとりがあったけど興味ないだろ。お前が知りたいのは、この死体はどこのどいつか、だ。
俺も知らない。
俺はキッチンで肉を切ってた。こいつが俺をヘッドロックして首を絞め上げた。
一人暮らしの自宅でそんな目にあってみろ、誰だってもがく。
パパやママに叱られたことはあるか? 『刃物を持っている人間に急に抱きつくな』って。
そう、今考えた通りのことが起こった。
ジーザス。ファック。
『♪~~~~~~』
ご陽気な音楽がキッチンに鳴リ響いた。
俺は飛び上がった。
スマホだ。
音を頼りに辺りを見回す。
スマホは調理台の端にあった。数年前の最新機種がバイブレーションに押されて流し台に落ちかける。
俺はあわててスマホを取った。光る画面を親指でタップしてしまった。
『こんにちは、ライアン』
若い男の声がした。バカ野郎、マシューだ。
「や、やぁ」
はて、俺は番号を教えたか?
『駅に着いたよ。ここからどうしたらいい?』
「……えっ?」
『家、ここから近いんだろう? もしかして迎えに来てくれてる?』
「あ、ああ――――いや、ごめん、まだ家だ」
駅で待ち合わせる約束だったか。
そりゃそうだ。酔ってよく覚えていないが、俺も初対面の相手に家を教えるほどバカじゃない。
『駅から見える緑 のアパートの2階であってる?』
バカか俺は。
「あ、ああ……」
『向かうよ。あとでね』
通話が切れた。
俺は呆然 と立ち尽くした。
なぜここにスマホがあるのかは思い出した。レシピ動画を見て、作業台の端に置いたんだ。
オニオンソースのリブステーキ。
あと10分足らずで彼が来る。
切りかけの肉からはドリップがにじみ出し、まな板の色を変えている。
早く包丁を洗って、肉をカットしないと――――違う! 死体!!
背筋 がドッと冷えた。急に手が震えてきた。
長年付き合った恋人なら、俺は彼に全てを話し、いさぎよく警察に行くなり、二人で逃避行 するなりできるだろう。
でもマシューとは出会ったばかりだ。
彼の身になってみろ。
バーで会った男の部屋に誘われた。行った。死体があった。
通報だ。
俺は良くて連続殺人未遂、悪ければ彼に人肉 を食わせようとしたイカレ野郎としてマスコミをにぎわせるだろう。
『♪~~~~~~』
握ったままのスマホが鳴った。イヤな汗が吹き出す。
発信元はマシューだ。
呼び出し音は鳴り続けているのに、指が震えて通話ボタンを押せない。
ああそうだ。バーで別れ際 にスマホを出したんだ。
「食べに来たくなったら連絡してくれ」って。
翌朝彼からのメッセージを見たときは、まさかこんな事になるなんて夢にも思っちゃいなかったのに。
呼び出し音は止まらない。
一緒にドクドク言ってるのは心臓か?
なんてこった、気を抜いたら今にも胃袋ごと吐き戻しそうで――――そう、そうだ! 具合が悪くなったと言おう! マシューには悪いが今日は帰ってもらおう、あとのことはそれから考えればいい。
俺は通話ボタンを押した。
『ライアン?』
「すまないマシュー、実は――――――」
『大丈夫かい? その……何かトラブルがあったんじゃない?』
ゾッとした。冗談じゃなく、心臓をわしづかみにされたような心地がした。一気に口がカラカラになる。
だが舌は勝手に動く。
「いや、そんな、ハハ……なんでそんなことを?」
『…………』
沈黙。電話口の彼が小さくうめく。
『きみのことを家族に話したんだ』
「えっ?」
『ああ、偏見とかはないから安心して。ただ、その、バーで会ったばかりの人の家に行くのは、いろいろと危険じゃないかって――――』
まともに内容が入ってこない。
俺は彼に気づかれないように深呼吸した。
『特に兄さんが「どんな奴か確かめてやる」って聞かなくて。駅に着いたとたん、きみのアパートめがけて走って行っちゃったんだ』
迷惑かけてない?
最後の一言が遠くから聞こえた。
ゆっくりと力の抜けた膝 がフローリングに触れる。
俺は床に片手をついて身を乗り出し、死体の顔を見た。
死体は目出し帽をかぶっていた。
嫌悪感 をこらえてそれを引っこ抜く。
…………………わからん。
俺はマシューの兄さんを知らない。家族とはいえ、あの天使と同じ顔が二人いるとは思えない。
しいて言えばこいつもブルネットだが、いや、そう言われると鼻の形が似ているような?
『もしもしライアン? 聞こえる?』
マシューの声に焦りが混じる。
待て、そんなわけない。俺は襲われたから抵抗したんだ。背後から首を絞められたんだ。ラガーマン連中がやるような荒っぽいハグじゃなかった。
そう陪審員 の前で言い切れるか?
『ライアン? もしかして体調が悪いのかい?』
「……マシュー。聞いてくれ」
俺はフローリングにへたり込んだまま声を絞り出した。歯の根が合わない。
「きみの兄さんを殺してしまった、かも、しれない」
『えっ?』
「俺は、料理をしてて、包丁で、強盗だと思って」
『カ、カギは? カギはかけてなかったの?』
「わからない。田舎 ではかけてなくて、この辺じゃ危ないと分かってるけど、クセで、」
『ライアン!』
俺は彼の声で我に返った。
『落ち着いて。深呼吸しよう』
「だがマシュー、俺は……!」
『大丈夫だよ。すぐに行くから、誰も入れないで』
天使よ!
俺は彼にすべてをゆだねたかった。
だが共犯にする勇気はなかった。
「ッだめだ、警察を呼べ。俺がマジの殺人鬼だったらどうする。きみ、警戒心が足りないぜ」
『その話はバーで聞いたよ』
「……バーで?」
『覚えてない?』
そんなわけないさ。今まったく思い出せないってだけで。
『きみから話しかけてきたのに』
「あー……だろうな。かわいい子は放っておけない性分 なんだ」
『この前もそう言ってたよ』
「勘弁してくれ」
俺は片手で目元を覆った。
通話の向こうで苦笑する気配がする。
『バーで出会ったとき、きみは僕に―――――あれっ兄さん!?』
エッ兄さん!?
通話の向こうでゴトッと音がした。マシューがスマホを落としたらしい。
『なんでここに……! 先にライアンのアパートに行くって……!』
『勢いだよ。部屋番号も知らないのに行けるわけないだろう?』
マシューと知らない男の声がした。
通話口でスマホを拾う音がする。
『今兄さんと合流したよ。ええと……駅から行く途中にコーヒースタンドがあるだろう。そこでひと休みしてた』
「……そりゃよかった」
俺は心底ホッとした。少なくとも、彼から家族を奪ってはいなかった。
『二人で行くよ。部屋番号は?』
「いや……来ないでくれ」
『ライアン?』
俺はマシューの声に重ねるように言った。
「警察は俺が呼ぶ。今日、俺ときみは約束なんてしてなかった。いいな?」
『何を言うんだ!』
俺はかぶりを振った。
「きみの兄さんが無事で何よりだ。こいつが誰かは警察が調べるだろう。きみがこれ以上俺のトラブルに付き合う理由はない。そうだろ?」
バーでの出会いは一時のものだ。
楽しい時間を過ごしたら、遠からず別れの時間がやってくる。
それが一晩か、数年もつかは相手によるが、未練たらしくすがりつくのは大人のやることじゃない。
少なくとも俺はそう割り切ってきた。
「マシュー。きみと話せて楽しかったぜ。できればもっと深く知り合いたかったが、これが俺ときみの潮時 なんだろう」
俺は通話終了ボタンに指を近づけた。
「――――気を付けて帰れよ、エンジェル」
『それ、やめてくれって言ったよ』
しっかりとした芯のある声が聞こえた。
俺は思わずタップしようとした指を止めてしまった。
『きみは僕のことを何も覚えてないのに、勝手に終わりにするのかい?』
「そういうわけじゃ……!」
『僕は天使じゃないから、きみみたいなかっこいい人に声をかけられたら期待もする』
そりゃそうだ。いや、俺がいい男なのは今に始まったことじゃない、マシューも人間だって話だ。
彼は空から落ちてきたんじゃない。
俺は唐突にバーでの出来事を思い出した。
俺が店に入ったとき、マシューはいなかった。
カウンターに飲みかけのグラスがあって、俺は先客がいるのかと店を見渡した。
そしたら店の奥のドアが開いた。
『トイレから戻って残りを飲もうとしたら、きみが声をかけてきたんだよ』
―――――新しいのを頼んだほうがいいぜ。一杯おごるよ。
「あっ…………んなもん、ナンパの口実だろ……!」
言いながらどうしようもなく頬が熱くなった。音声通話でよかった。
「僕は嬉しかったよ。テレビでは物騒なニュースばかりだから、余計にね」
通話の向こうでマシューがくすくすと笑う。その声が内緒話をするように低くなる。
「本当は兄さんを連れてくるつもりじゃなかったんだ。……今日はもっと深くまできみを知れるかなって、そのつもりだった」
「オイオイ、昼間だぜ?」
俺は脱力したままの足腰を立て直すのに苦労した。
耳元での艶めいたテノールボイスに、不覚にもグッときちまったからだ。
マシューが切り替えるように声の調子を戻す。
『とにかく警察を呼ぼう。本当に強盗なら、きみは被害者なんだ。もしもの時は兄さんに弁護してもらおう』
「兄さんに?」
『弁護士なんだ』
「ワオ……」
インターホンが鳴った。
俺は流し台のフチにつかまって立ち上がった。倒れた死体を大回 りでよけて、短い廊下へ向かう。
ドアまでは数歩だ。それでもマシューの声を聞いていたくて、俺はスマホを耳に当てていた。
玄関のカギは……かけてある。
じゃああの死体、もとい強盗は別の場所から入ってきたのか? それともここから入ってカギをかけなおしたのか?
『ライアン、ついたよ』
俺はドアを開けた。
知らない作業服の男が立っていた。手にはスパナ、足元には工具箱。
俺が状況を理解する前に、そいつは持っていたスパナを振り上げた。
『――――って言うまではドアを開けないで。兄さんが言うには、外に見張りの仲間がいるかもしれないって』
通話の声がただの音の羅列 に聞こえた。
目の前に迫るスパナがスローモーションになり、ああ、死ぬな、と他人事のように感じる。
人は死の直前に走馬灯 を見ると聞いていたが、俺の動画は間に合わなかったらしい。
だから俺は、永遠にも思える数秒の中で思った。
包丁を持ってくればよかった。
思えばあいつは最初の強盗から俺を守ってくれたんだ。
なのに、いつ手放したのかさえ覚えてない。
血で汚れたから、なんだ。未練たらしく握っていたってよかったんだ。
次の人生があるなら、握ったものは絶対に離さないと誓おう。
スパナが届く寸前、俺はそう思った。
だから――――強盗野郎のスパナを、手に持ったままのスマホで受け止めた。
耳障 りな音を立ててスパナが液晶にめり込む。手のひらから指までがビリビリしびれた。
「…………ッ!」
「マジかよ」って顔の強盗野郎と目が合った。
同感だ。防弾ガラスの液晶はこんな時のためにあるんだな。
それでも一撃で電源は飛んだし、手のひらに触れている部分がカッと熱くなる。バチバチ言っているのはスマホか、俺の脳みそか、そんなことはどうでもいい。
俺は強盗野郎のこめかみをスマホのカドで殴りつけた。一度目はミスって側面がヒットしちまったが、二発目はきっちりカドがめりこんだ。
強盗野郎は口汚くわめきながら俺の腕や頭を何度もスパナで殴りつけた。
が、俺はスマホを離さない。材木を運ぶ重機のアームみたいに、指がガッチリスマホに食い込んでいる。
すでにスマホの液晶には何も写っていないし、変なにおいの煙も出ている。いつか見た動画みたいに発火するかもしれない。
「テメエ、いい加減にしろよ!」
俺は半狂乱で強盗野郎を殴り続けた。強盗野郎も俺を殴り続けた。
アパートの外玄関はあっちこっち血まみれだ。クリーニング代は管理費で落ちないかもしれない。
「この……!」
思い切り殴りつけた拍子に、汗でぬめったスマホが手からすっぽ抜けた。
嘘だろ、ジーザス。
強盗野郎がニヤッと笑う。だけど俺は握ったものを離さないと決めたんだ。
俺は空いた手のひらを握り固め、強盗野郎の鼻づらに拳を叩き込んだ。
「ぶ………………ッ!!」
強盗野郎がふらついて二、三歩下がる。その目がチラッと下り階段のほうを見た。
頼む逃げてくれ。言いたかないが手も足も震えそうだ。アドレナリンの加護は長くもたない。
暴力は競技に昇華された時代だぞ、お前の心に世界平和の文字はねえのか。
俺はガクガクしかけている足を地面に擦って半歩踏み出した。
強盗野郎がビクッと反応して半歩下がる。
そうだバカ野郎、弱気になるな。スパナに頭をかち割られるぞ。
「――――ライアン!!」
表からマシューの声がした。
強盗野郎ははじかれたように階段の方へ駆け出した。
天使が来たんだ、悪魔は逃げ出す。
違う!! 階段は一つだ、野郎がマシューと鉢合わせする!
俺は強盗野郎を追って走り出した。石造りのはずの外廊下に足がぐにゃぐにゃ沈む。
言うな、おかしいのは俺の足だ。生まれたての小ジカでももうちょっとうまく走るだろうが、フォームはこの際問題じゃない。
手の届く距離に強盗野郎の背中が近づく。
俺は殺人犯になる覚悟を決めた。実際はすでに一人やっちまったんだ、刑務所に入ることになるだろう。
でも、だったら、だからこそ、天使と見まごうあの子に傷をつけさせてたまるか!
「逃げろマシュー!」
俺は強盗野郎の背中だけを見て叫んだ。
その背中を掴もうとしたとき、強盗野郎の姿が目の前から消えた。
「えっ?」
と思う間もなく、俺の足元の床も消える。
「うわっ、あぁぁぁあああ!!」
強盗野郎が悲鳴とともに階段を転げ落ちた。
俺は両腕で手すりを抱きこんでどうにか踏みとどまった。
「ライアン!」
マシューが階段をかけ上がってくる。
瞬間、俺はどうして世のステンドグラスや天井画が明るい場所にあるのかを理解した。
太陽の下で見る彼は、バーの薄明かりで見るよりも数段愛らしく輝いて見えた。
マシューはズタボロの俺を見て息をのんだ。
仕立てのいいパステルのジャケットがふわりと俺の肩にかけられる。
「もう大丈夫だよ! 救急車と警察を呼んだから!」
「そうか、いいジャケットだな」
できるなら彼に任せて、体の力を抜いてしまいたかった。が、強盗野郎を探さないわけにはいかない。
幸い時間はかからなかった。
強盗野郎は階段の下で、手足がおかしな方向に曲がって倒れていた。
体格のいいスーツの男がその背にまたがるようにして、ねじれた両腕ごと野郎を押さえこんでいる。
俺は急に怖くなった。
「し、死んでるのか……?」
「気絶してるだけだよ」
マシューは俺の背を包むように撫でた。逆の手で俺の手を取り、手のひらに食い込むほど握りしめた指を一本ずつほどいていく。
俺はこわばった指先でマシューの手を握った。
彼はほほえんだ。
道の向こうからサイレンの音が聞こえる。
「すまない。きみに料理をふるまうのは、……だいぶ先になりそうだ」
マシューが首を横に振る。
俺は深く息を吐いた。
彼と俺に真の潮時があるなら、多分ここだ。この週末出会ったばかりの俺に彼の今後を縛る権利はない。
だが俺はさっき天啓 を得たんだ。
手にしたものを簡単に離すのは、とても愚 かで身勝手なことだって。
「……待っててくれるか?」
「楽しみにしてる」
マシューが俺の手を握り返した。
けたたましいサイレンとともに、アパートの前にパトカーがつめかける。どやどやと警官たちが下りてくる。
その後ろに救急車が停まった。救命士たちが階段を上がってきて、俺の肩に毛布をかぶせた。
俺は病院に搬送 された。
さて、そろそろYouTubeでも見たくなってきたか?
結論だけ言うと俺は殺人犯にならずに済んだ。
過剰防衛 には問われかけたが、マシューの兄さんがそりゃもう頑張ってくれて、どうにか正当防衛 に収まった。
最初の強盗のポケットから俺の時計やカードが出てきたのも大きかったな。
身の安全のためにあのアパートからは引っ越して、今はカウンセリングの回数も少しずつ減っている。
「しかしきみの兄さん怖いな。あの一瞬で強盗を病院送りにするなんて」
俺は洗いカゴからグラスを取った。もう片方の手で調理台の上のピンチョスにピックを刺していく。
「兄さんは取り押さえただけだよ」
マシューが端の一つをつまんだ。
俺はチラッと彼を見たが、開けたばかりのワインを差し出されたので、ワイロに応じることにした。
二人してキッチンドリンカーの仲間入りだ。
「彼は僕らの目の前で階段を踏み外したんだ。警察によると、その前に受けた傷のほうが多かったらしい。ずいぶんあわててたんだろうね」
「ああ、俺も落ちるところだった。急なんだあそこは」
マシューがいたずらっぽく俺を見上げた。薄く色づいた目元がほほ笑む。
「ボロボロの強盗が逃げてきて、それを追ってきたきみが僕の名前を呼んだから――――兄さんも『骨のあるヤツだな』くらいには思ったんじゃない?」
「はは、だとありがたいな」
裁判が終わり、俺は正式にマシューに交際を申し込んだ。マシューはOKしてくれた。
だがマシューの兄さんとはまだ事件の話しかしていない。
面会室のガラス越しに話した彼はとても紳士的で、なるほど兄弟だなと思う程度にはマシューに似ていた。
似ていたが、体格はそこらのラガーマンどころじゃないマッスルガイで、まあ、うん、この話はやめよう。彼は恩人だ。
兄さんへの礼と事件の後始末がひと段落ついたお祝いを兼ねて、今日は三人で食事をすることになっている。
この家も、マシューとマシューの兄さんが知人伝いに紹介してくれたものだ。
「できたぜ。運んでくれ」
俺はグラスをすすいで拭きなおした。
てっきりマシューの兄さんは過保護なタイプかと思っていたが、特に関係に口を出されたことはない。
それがマシューの言う理由でなら嬉しいが、あの筋肉の塊 に見守られていると思うとなかなか圧 を感じるもんだ。
言っとくがマッチョは良いぜ、健康的だ。ことの良し悪しと個人的な好みはイコールじゃない。
俺は顔を上げた。
皿を持ったままのマシューがまだそこにいた。
思わず跳ねた背中を彼の手が撫でる。その指先が俺の頬 に触れた。
俺はマシューに口づけた。ほのかなワインの味がした。
尖 らせた唇を数度押し当てて離し、彼が至近距離でアンバーの瞳を細めた。
俺は笑い返した。
「ワインとグラスは持っていく」
「うん、あとでね」
マシューが皿を持ってキッチンを出ていく。
俺はその背中を見送って、戸棚の奥に手を突っ込んだ。手のひらに収まるほどの小箱が指に触れる。
早いかな。いや、むしろ遅いか?
年月を数えて箱を薄く開く。細身のシルバーリングが台座の上で光った。
あの日のスマホと包丁は証拠品として押収され、俺のもとには帰ってこなかった。手を離さないと決めていても、別れは突然来るもんだ。
ひとこと礼を言いたかったな。
ありがとうとか愛してるとか、そういうことは言えるうちに伝えたほうがいい。
リビングからマシューの声がする。
「ライアン、早く」
「今行くよ」
俺は指輪をポケットにしまってキッチンを出た。
End.
ともだちにシェアしよう!