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1)狛 犬 〈3〉
◇
保健室を出てそのまま購買に向かうと、昼食用のパンを代理で購入してくれていた小坂と合流できたので、その足で屋上へ向かう。
狛杜高校では校内であれば自由に昼食を取れるのだが、和都達の場合は購買でパンやおにぎりを購入し、屋上で食べていることがほとんどだった。
校舎の四階まで上がり、そこからさらに階段を上ると、背の高い金網のフェンスで囲まれた、コンクリート床の広々とした空間が広がる。ところどころに三〜四人掛けのベンチが配置されており、和都達はフェンス近くの空いていたベンチを一つ陣取って座った。
空も青く、天気の良いわりにまだ少し冷たい風が吹くためか、屋上に散らばる人影はそこまで多くない。新学期ゆえに教室で取る人間も多いのだろう。
「保健委員かぁ……」
金網の向こうに広がる街並み、そしてその後ろにある小高い山を眺めながら、和都がぼやく。
「帰宅部は優先して委員やらされるからなー」
「毎朝保健室まで行かなきゃなんでしょー? マジで面倒なんだけど」
保健委員が不人気である理由の一つに、朝のホームルーム時に担任が点呼と共に付ける『健康観察記録簿』を保健室まで毎日持っていく、というのがある。
ホームルーム後から一時間目が始まるまでの時間は教員が授業準備の時間を確保するため、保健委員が持っていくことになっているのだ。
「ちょうどいいじゃん。体調チェックしてもらえよ」
「ああ、もしかして後藤先生、それが狙いとか?」
「……まぁ、悪い先生じゃないから、まだいいけどね」
和都のなかで、仁科はまだまともな大人という印象の人物だった。
軽口も多く、物言いがどこか飄々としているのでたまに癪に障ることはあるが、行事の度に倒れて散々迷惑をかけていても、邪険にされた記憶が一度もない。
「あ、飯食ったら昇降口でビラ配り手伝えってキャプテン言ってたぞ」
「げぇ、マジで」
小坂と菅原がそんな話をしているのを聞きながら、和都は金網ごしに校舎の足元へ視線を向ける。昇降口付近では新しく入学してきた一年生達に三年生達が声を掛け、熱心な部活動勧誘が行われているようだった。
「あーあ、相模の身体がもうちょい丈夫で、もうちょい身長あったら、ぜひともバスケ部に勧誘するのになぁ」
早々に食べ終わったらしい小坂が、持ち込んでいたバスケットボールをつきながら言う。小坂と菅原はバスケ部に所属しているので、この後はバスケ部の勧誘手伝いへ行くのだろう。ちなみに、和都と春日はどこにも所属しておらず、いわゆる帰宅部だ。
和都は食後の運動に勤しむ小坂に、チラリと視線を向ける。
「……身長については小坂に言われたくなーい」
「うるせぇよ」
「どんぐり同士で何争ってんだか」
身長一五八センチの和都と一六二センチの小坂の言い合いを、一七五センチの春日が見下ろしながら呆れていた。
「まー相模が部活やるってなった場合、バスケ部より陸上部が黙ってないでしょ」
「去年の体育祭の後、勧誘すごかったもんなー」
「部活はやらないって散々断ったけど、まだたまーにくるんだよねぇ。学期変わる度に誘われてるし」
走るのが得意で運動もそこまで嫌いではなかったので、和都は中学の時に陸上部に入ろうとしたことがある。ただ色々あって結局仮入部の段階で辞めてしまい、それ以降は部活動や習い事の一切を両親に禁じられ、全て断るようにしていた。
「おーい、二年の相模いるー?」
東階段側の屋上扉が開いて、入ってきた生徒の呼びかけが耳に入る。
「いるよー」
和都は大声で応えて手を振った。
「あ、いたいた。陸上部の橋本先輩が呼んでるってー」
「わかったー、どこー?」
「保健室の裏! よろしく!」
「はーい」
こちらの返事を聞くや、彼は踵を返して屋上扉の向こう側に消えてしまう。
「おーおー、ウワサをすれば……」
「新学期だしなぁ」
有望な新入生は先輩たちから呼び出され、直々に部活動の勧誘を受けるというのは、狛杜高校ではよくある光景。呼び出してきた橋本先輩は、たしか部長か副部長だったはずなので、新学期にかこつけた、陸上部を代表しての入部のお誘いだろう。
和都は食べかけのパンを全て口に放り込むと、牛乳で流し込んで食べ終わり、立ち上がる。
「……和都、俺も行こうか」
「どうせ部活の勧誘でしょ。大丈夫だよ、先に教室戻ってて」
心配して声をかけた春日を制してそう言うと、和都は一人、東側の屋上扉から校内へ戻った。
◇
東階段をひたすら降りて一階に着くと、第二体育館へ繋がる渡り廊下の通用口から外に出ることができる。本校舎と校庭の間には桜の木が植えられていて、その校舎側はちょうど保健室の裏側だ。ただその位置の窓はベッドの並んでいる関係で常にブラインドが下がっており、室内からは見えにくいということで、定番の呼び出しスポットになっている。
──あぁ、失敗した。
白とピンクの花の間に緑の葉っぱがちらほら見える、満開を通り過ぎた桜の木を眺めながら、和都はその校舎側の壁に背中を預けた状態で、ただただ後悔していた。
「なぁ相模、頼むよ!」
「……すみません」
自分よりも背の高い男子生徒に肩を掴まれ、壁に押しつけられた状態。相手の学ランに付いたネームプレートは、三年生を意味する濃い緑色で、『橋本』と白文字で刻まれている。
この時期の呼び出しならば、部活動への勧誘だろうとタカを括ったのが失敗だった。部活の勧誘ならお断りします、と言って去るだけのつもりが、気付けば壁際に追いやられている。
──ユースケに来てもらうべきだった。
先輩の主張は、ただ「好きだから付き合って欲しい」の一点張り。
和都は昔からこんな風に、何故か異様なほど人間を惹き寄せた。昔から女性も顔負けの、人形のように美しい容姿だと言われてきたので、きっとそのせいだろう。
そうして好意を持って近づいてきた人の殆どが、何故か異様なまでに執着してきた。自分と少しでも関わりを持つと、だんだんとおかしくなるのだ。
やがて執着することに駆られた人間は、自分のことをどれだけ好きか、いつから好きでどこが好きかといった、独りよがりな言葉ばかりを並べて、ただただ一方的に押し付けてくる。
「……ごめんなさい」
繰り返される賛美と渇望の言葉に、和都はただ謝ることしかできない。
「なぁ、頼むよ。今年受験で……。支えてほしいんだ、だから」
「無理です」
きっぱり断っても聞き入れてもらえる雰囲気ではない。向こうは自分の要求を受け入れて貰えることしか考えていないようだ。
嫌な記憶が頭の片隅に浮かび始めて、身体が竦む。
なんとかこの場から離れようと試みてみたが、肩を掴まれた手の力が強くなるだけで逃げられなかった。
「……いった」
大きな手の指が肩に食い込んで痛い。
自分より背が高く体躯の立派な人間は、やがて過剰を通り越し、こちらを見下ろして激昂し始める。
「なんで……なんでだよ! オレはこんなにお前のことを!」
「いやだっ……!」
なんとか両手を突き出して、自分より大きな身体をちから一杯押し飛ばした。
すると、頭上の窓がガラガラッと勢いよく開く音がして、あっと気付いた時にはザバーッと冷たい水の塊が目の前に降ってくる。
「うっわ! つめたっ」
目の前の先輩は頭からまるっと濡れていた。和都自身にもそれなりに水がかかってしまい、頭と上半身が冷たい。
驚いて水の落ちてきた方を見上げると、空っぽのバケツを持った仁科が、窓から身を乗り出していた。
下から見ているせいなのか、普段の飄々とした雰囲気とは違う、今まで見たことがないような、嫌悪感に満ちた鋭い表情。
「保健室 の裏で盛ってんじゃねーよ。発情期の猫か」
「仁科、てめぇ!」
「先生をつけろよ、橋本」
普段通りの声でそう言いながら、仁科は橋本に向かってタオルを放り投げていた。
「お前は自分で拭いて教室戻って着替えろ。風邪引くぞー」
「……くっそ!」
新学期早々、頭から水を被った三年生は、悪態をつきながらタオルで頭を拭きつつ、逃げるように去っていく。
色々と思考が追いつかなくて、和都はただポカンと口を小さく開けてそれを見送るしかできない。
「相模」
ふと真上から降ってくる声にそちらを見ると、いつもの飄々とした顔の仁科がいる。
「お前にはタオルと着替えをくれてやるから、保健室 においで」
「……はい」
髪の先からするりと落ちた小さな雫が、青い空を写してぽたりと光った。
言われるままに通用口から校舎に戻り、保健室に入ると「とりあえず拭きなさい」とタオルを渡された。和都はぐっしょり濡れた頭を拭きながら、数十分前まで横になっていたベッドに腰を下ろす。
仁科は備品のストック用の棚を開けて着替えになるTシャツを探しているようだった。
「……あっれ、Sサイズないなぁ。げ、Mサイズもないじゃん。こないだ見直ししたはずなのになぁ」
学ランのボタンを外すと、隙間から入り込んだのか、中のシャツも随分と濡れていて、和都は息をついてひたすら拭く。
ぶつぶつ言いながら替えのシャツを探していた仁科がようやくこちらにTシャツを差し出した。
「Lサイズしかなかったわ。これでいい?」
「……あ、はい」
Tシャツを受け取ると少し考え、ベッド用のカーテンを閉める。
「すみません……」
「気にしなくていいよ。で、今日は? いつもの護衛の春日クンはどうしたの?」
「いつもの護衛って。……毎回見てたんですか?」
学ランを脱ぎ、中に来ていたシャツも脱いで、内側に入り込んだ水を拭いた。
「好きで見てるわけじゃないよ。下からは見えないから呼び出しの定番になってんだろうけど、何気に上からは丸見えなんだよねぇ」
「そーですか」
この件について聞かれるのは、正直不愉快でしかない。
普段なら大人の前で見せないようにしている、ぶっきらぼうな声がつい出てしまう。
「いつもは、春日クンが一緒だから放置してたんだけど、今日はいないみたいだったからね」
仁科の言う通り、普段の呼び出しでは必ず春日と一緒に話を聞くようにしていた。春日が近くにいるだけで、今回のような腕力で捻じ伏せようとする輩への牽制になり、何かあった時には助けてもらえるからだ。
しかし今回ばかりは、見誤ってしまった。
「新学期だし、部活の勧誘だと思って、大丈夫って一人で来たから。……違いましたけど」
「そりゃ残念。一年の時からよく呼び出されてたよね。……お前、よく男子校なんかきたな」
仁科のどこか揶揄 するような言葉に、少しだけ答える声が迷う。
「……女の人、怖いから」
苦手なヒトの顔が、頭の隅に一瞬だけ燻って、消えた。
「あら、そうだったの」
カーテンの向こう側にいる大人の声が、普段とさして変わらなくて、ちょっとだけホッとする。
「中学の時は、女子から言われるほうが多くって。男子校なら大丈夫かなって、思ったんですけどね」
いつも通りの雰囲気を装って話しながら、大きなTシャツを頭から被った。腕を通した半袖は、肘まで隠れてしまう。
「ふーん。アテが外れたわけか。残念だったね」
「今後は気をつけます。すみませんでした」
普段と変わらない声色で、和都はそう言いながらカーテンを開けて出た。
謝ってしまえば、自分が悪者になれば、このくだらない雑談はお仕舞い。そう思っていた。
「お前さぁ」
向こうの声が、少しだけ低い。
「はい?」
「なんでお前が悪いわけじゃないのに、そんなに謝るの?」
仁科の、眼鏡の奥の目がスゥッと細められていて、なんとなく怒っているような気配がする。
「……だって、迷惑かけたし」
思っていた展開と違って、戸惑った。そんな顔もする人なのか。
「お前は橋本に、迷惑かけられた側でしょうが」
「でも、」
和都は視線を、仁科から逃げるように床に向けた。
「……おれが一人で来なかったら、先生には迷惑かかってない」
「助けてもらったら、『ありがとう』でいいんだよ」
右手に掴んでいた、まだ濡れている学ランとシャツをギュッと握り込んで、視線は床を見つめたまま。
「……ありがとうございました」
「よろしい」
不貞腐れた声で言うと、仁科が呆れたように笑う。
「ほれ、午後の授業始まるし、もう行きなさい」
「……失礼します」
見透かされたような気がして、悔しくて、腹立たしくて、呟くようにそう言ってから、口を真横に引き結んで保健室を出た。
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