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8)段裏下の攻防 〈1〉

 六月某日、快晴。狛杜高等学校の体育祭当日。 〈次は、選抜選手による、綱引きです〉  アナウンスを聞きながら、選抜百メートル走の出番を終えた和都は、救護テントへ向かっていた。  狛杜高校の一番広いグラウンドの楕円形トラックを囲むように、校舎側には教職員たちのいる運営本部や救護テント、その反対に赤組と白組に分かれた生徒達の応援席のテントが並んでいる。競技終了後の退場ゲートから救護テントはそこまで離れていないのだが、テントのない場所は保護者の観覧エリアになっており、人をかきわけながら進むので時間がかかってしまう。  普段より人の多い状況に、これまでなら人酔いならぬ『お化け酔い』になっているはずだが、今の和都はそういった気配を全く感じなくなっていた。  もちろん悪意のある『人でないもの』はチラホラと視えているが、そこまで気持ち悪くはなっていない。 「二年相模、戻りましたー」  そう言いながら救護テントに入ると、パイプ椅子にのんびりと腰掛けていた仁科が気付いてこちらを見た。 「おー、お疲れさん。相変わらず速かったねぇ」  仁科が差し出した『救護班』と書かれた白地に赤文字の腕章を受け取り、和都は着ていたグレーのジャージの袖に通して付ける。  体育祭における保健委員の仕事は、救護テントでの養護教諭のサポートが主である。もちろん、生徒は競技に出場するので、出場種目に応じて当番制だ。 「へへー。陸上部抜いてやった!」 「……陸上部も可哀想に」  自慢げに話す和都に、帰宅部に負けたことを叱責されていないか、仁科は陸上部の心配をしてしまう。そんな話をしていると、当番でテントに入っていた赤紫のジャージを着た一年生達が駆け寄ってきた。 「相模先輩すごいですね!」 「めちゃくちゃ速かった!」  競技が始まるまで和都の足の速さを疑っていた後輩達は、尊敬の眼差しで「すごいすごい」と絶賛する。  そこへ同じ二年の岸田が、当番のために応援席からやってきた。 「お疲れ、相模。相変わらず速いなーくそー」 「あはは、まぁねー」  岸田は四組なので和都とは反対の赤組なのだが、悔しそうにしつつも笑う。 「相模はあと、何出るんだっけ?」 「えーっとね、午前はあと騎馬戦だけだけど、午後から学年のと障害物と、それから最後のリレーにも出るよ」 「やっぱり多いなー」  和都が指を折り数えながら言うと、岸田が呆れたような声を出す。 「集合のタイミング、気をつけろよー」 「わかってまーす」  パイプ椅子に座ったままグラウンドの方を眺めて言う仁科に、和都はしっかりと返事をした。  梅雨入りしたわりにしっかり晴れ、気温も清々しい体育祭日和。  ひとまずの出番を終えたので、のんびり競技を楽しもうと、和都は救護テントの空いているスペースに腰を下ろす。だが、その後すぐに始まった選抜綱引きで、接戦の末にかなりの人数が盛大に引きずられるアクシデントが発生し、救護テントは俄かに忙しくなった。  残っていた一年生達にも手伝ってもらい、和都たち救護班はあちこちに擦り傷を作った負傷者の手当てに奔走する。 「洗浄と消毒まだの人ー」  呼びかけながら、和都は手当ての遅れがないか救護テントの周りを見て回った。 「和都、こっち」  よく知った声に呼ばれて振り返ると、選抜綱引きに出ていた春日が、彼と同じくらい大柄の生徒に肩を貸しながら、ゆっくり近寄って来るところ。  春日に掴まりながら足を引き摺る、緑のジャージを着た三年生は、右側面を真っ黒に汚していた。 「うわっ、大丈夫ですか」 「後ろの方だったから結構酷くて」 「りょーかい」  救護テントの隅にその三年生を座らせ、上から下までがっつり汚れたジャージをめくり、岸田に手伝ってもらいながら擦り傷を水で洗う。 「ユースケは? ケガしてない?」 「あぁ、俺は大丈夫」  そう答える春日の顔を見上げると、頬の辺りに擦れたような痕が見えたので、持っていたタオルで拭くだけ拭いてやった。だが、傷のようなものは見えず、土がついているだけだったらしい。 「……ケガじゃなかったか」 「汚れただけだ」  何かしらの事故に巻き込まれても、春日は昔から一人だけケガをすることなく、無事であることが多かった。やたら悪運が強いのか、無駄に頑丈なのかどちらだろう、と和都は時々考える。 「じゃあおれ、暫くこっちいるから。騎馬戦の時にね」 「ああ」  春日が応援席のほうへ向かうのを見送って、和都はケガをした生徒の手当てに戻った。 〈これより、お昼休憩に入ります。生徒及び保護者の皆様は、所定の休憩エリアをご利用ください〉  体育祭のお昼休憩では、本校舎内の教室と屋上が解放される関係で、養護教諭は保健室でお昼をとることになっている。  本校舎周辺や校舎内の上の階は、生徒や保護者で騒がしいのだが、休憩エリアではない一階にある保健室は随分静かだ。  支給されたお弁当を食べ終えて、仁科が一人のんびりと食後のコーヒーを飲んでいると、コンコン、と扉をノックする音。 「どうぞー」 「失礼しまーす」  ガラガラと引き戸を開けて入ってきたのは、和都だった。 「よかった、先生いたぁ」 「あれ、相模。どうした?」 「……ごめん、休憩させて」  和都はそう言うと、ふらふらとよく使っている一番端のベッドに近づき、ジャージ姿のまま寝転ぶ。 「なんだ、お疲れか?」 「んー、それもあるけど」  仁科がとりあえずベッドカーテンを半分だけ閉め、ベッドの脇に椅子を置いて座った。和都が顔をこちらに向けたので、額に手のひらを当ててみるが、特に発熱している様子はない。 「人、多すぎて」 「あー、人酔いでもしたか?」 「……そんな感じ、かも」  普段から引きこもっているうえ、これまでは人の集まる場所にいると『いやなもの』が寄ってくるため、なるべくすぐにその場を去るようにしていた。そのため気付いていなかったのだが、どうやら自分は人が多い場所は基本的に合わないらしい。 「具合悪いなら、親御さんにも言っといたほうがいいんだけど」 「来るわけないでしょ」 「そうよねぇ」  高校にもなると、体育祭を見にこない保護者も多くいる。いても三年生の保護者であることが殆どだ。普段から和都を放ったらかしにし、土日も仕事だと言って家を空けているような両親が来るはずがない。 「……お前んち、しかるべきとこに相談した方がいいやつ?」  ここ二ヶ月ほどよく一緒にいたからか、仁科も流石に気になってきたのだろう。平日も休日も、特別な理由なく高校生とはいえ未成年が、一軒家にほぼ一人きりというのは、(はた)から見てもとても良い環境には見えないはず。 「あー。……そういうんじゃないから」 「本当に?」  仁科のいつもと違って真面目な表情に、和都は何を考えているのかが分かってしまった。所謂、ネグレクトや虐待などを受けているのでは、と疑っているのだろう。  でも、この状況にはちゃんと理由がある。 「……おれんち、父さんが亡くなってて、再婚なんだよね。小学校までは『神谷』って苗字だった。そんで中学あがる時に『相模』になって、今の家に越してきたんだ」 「あれ、そうだったの?」 「うん。中学の一年の時とかは、二人とも行事とかわりとちゃんと来てくれてたんだよ。でも、おれとずっと一緒にいると、みんなオカシクなっていっちゃうから……」  仁科に向けていた視線を、見慣れた天井に変える。 「ほら『狛犬の目』の話、したでしょ。あれのせいらしいんだけど、おれと一緒にいると、執着の仕方が酷くなっちゃうの」 「……惹き寄せるだけじゃなくて?」 「なんかそうみたい。まぁそのせいで、問題ばっか起きてて。母さんも、今の父さんも、怖がるようになっちゃってさ」 「怖がる? 何に」 「おれ自身に。あと、自分たちもそうなるかもって。だから、仕事だって言って、なるべく家に居ないようにしてくれてるんだよ」  和都はゆっくり目を閉じた。  それは、二人なりに考えてくれた、おかしくなりそうな自分たちから子どもを守るための回避方法。誰も悪くはない。悪いのは自分だけで。 「二人が悪いわけじゃ、ないから」 「……そうか」  仁科は少し考えた顔をしながら、ベッドに横になったままの和都の頭に手を伸ばし、ゆっくり撫でた。 「その『狛犬の目』のチカラってさ」 「ん?」 「波長が合う人間には、効かないんだよな? 親でも合わない場合があるのか?」 「うん、そうみたい。母さんと今の父さんはダメっぽいね。本当の父さんは先生とかユースケみたいに、大丈夫だったけど」 「なるほど……」  波長が合う人間なら、一緒にいてもおかしくなることはない。  仁科は波長が合ううえに、強い霊力を持っているので、自分にチカラを分けることが出来る。  だから仁科に『狛犬の目』は効いていないはずだ。  それなのに、仁科の自分への接し方がエスカレートしていないか、ということを聞くのは、少しだけ迷う。 「なに?」  気付いたら、ジッと見つめてしまっていて、仁科が首を傾げながら、頭を撫でていた手を離す。 「……なんでもない」  聞いていいことなのか、まだ分からなくて、和都は仁科に背を向けて、目を閉じた。

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