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9)獅子身中の虫〈4〉

「どうして家の中にいないの!」  母親と共に自宅に戻り、玄関を閉めた途端、家中を震わせるような大声が響いた。  玄関を背にしたまま、視線は履いたままの靴を見つめながら、向かい合う母親の甲高い声で耳が痛い。 「帰ってきたらちゃんと家で大人しくしていなさいって、言ってるでしょう!!」 「委員の仕事で遅くなったの」  呟くように反論する。  今日はちゃんと、嘘ではない。  遅くなって、仲の良い友達と少し寄り道をした。  それだけだ。 「……またなの? もう委員の仕事なんて断りなさい」  呆れたように、母親が大袈裟なため息をつく。 「いや、それは無理だし」 「それなら、学校側に抗議します」  母親のこれは、脅しではない。  中学の時も似たようなことを何度もやられて、先生や生徒からは余計に白い目で見られた。 「恥ずかしいからやめてよ。……これからは、気を付けるから」  面倒なことになってしまう。  仁科にも余計な迷惑をかけてしまうだろう。それだけは、避けたい。 「……さっき一緒にいた、あの子たちは誰なの?」  もう一度大袈裟なため息をついた後、母親が腕を組んでそう聞いた。全く見向きもしていなかったが、ちゃんと気付いてはいたらしい。 「同じクラスで同じ班の子達。だから、大丈夫」 「そう簡単に判断しないで! 春日くん以外大丈夫だったことないじゃない」 「……そんなことないけど」  確かにこれまでも、春日以外の友人と思っていた相手に何かされそうになったことはある。でも、全員が全員そうではなかった。けれど、母親は大丈夫だった友人のことが、春日以外だと記憶にないらしい。 「お願いだから家で大人しくしててちょうだい。貴方が人と関わると不幸なことしか起きないって、分かってるでしょう!」  母親の言葉に、和都はぐっと唇を噛んで俯く。  正しい。  この人の言葉は、正しい。  事実だったから、正しい。 「……ごめんなさい」 「まったく……。卒業するまでに大きな問題起こさないでちょうだいよ」 「……はい」  理不尽な正しい言葉に謝罪して、受け入れて、ようやく解放される。  鞄を持って二階に上がろうとしたのを「ああ、ちょっと」と呼び止められた。 「夕飯は?」 「……もう食べたから、平気」  思い出したように、面倒くさそうに聞かれて、和都は嘘を当たり前に答える。買い食いして小腹を満たした程度だが、不機嫌な人と食事をとるより、空腹に耐えるほうがまだマシだ。 「そう。もうすぐお父さんも帰ってくるから、早く部屋に戻りなさい」 「わかった」  部屋に戻ると、和都は鞄をその辺りに放って、そのままベッドに倒れ込む。 「……失敗したなぁ」  もう少し帰ってくるのは遅いと思っていたのに、迂闊(うかつ)だった。  小坂と菅原には、嫌な思いをさせてしまったかもしれない。 〔大丈夫? カズト〕  空中に渦を巻いて現れたハクが、心配そうな顔で寄り添ってくれる。 「あぁ、ハク。……うん、いつものことだよ」  魂が繋がっているので、ハクには今の自分の複雑な感情が流れてしまっているのだろう。 〔ボクがそばにいるからね〕 「……ありがとう」  そう言って、和都はすり寄ってきたハクの鼻先を撫でた。触れられるようになってほんのり感じる暖かさに、少しだけ慰められた気がする。 「早く大人になりたいなぁ……」  ひとしきりハクを撫でたあと、和都はベッドに仰向けになって天井を見上げた。中学からずっと見続けた、変わりばえのしない、少し高いけれど狭い天井。飛び立つことのできない、小さな部屋。  中学の時はさっさと死んでしまえばいいと思っていたけれど、高校生という大人に近い年齢になって、大人になってしまえば自由になれるかもしれない、と淡い希望を持つようになった。 「……そしたら、この家から出て行ってあげられるのに」 〔大丈夫だよ、カズト〕  そう言ってハクが上から覗き込んでくる。 〔ボクが大丈夫にしてあげるから!〕  ハクはニコニコと笑い、尻尾でもあればブンブンと勢いよく振っていそうな顔だ。 「……ハクが守ってくれるの?」 〔うん! ずぅっと守ってあげるよ!〕  今日もハクは鏡から出てきたお化けを食べてくれた。  ハクならずっと一緒にいて、本当に守ってくれるような気がする。 「この家を出られたら、あっちこっちに行ってみたいんだぁ」 〔あー、いいねぇ!〕  誰にも邪魔されず、自由に、見たことのない世界を見たい。  本の中でしか知らない場所に行ってみたい。  ささやかな夢。  だんだん、瞼が重くなる。  視界が徐々に暗くなって、ゆっくり眠りに落ちていく。 〔ボクがちゃあんと、自由にしてあげるからね、カズト〕  不意に開いた和都の瞳は、金色に光っていた。 「──もう少し、だな」 〔うん、もう少しだね〕 「……ああ」 ◯  月もなく、星明かりだけの夜。  雑木林に囲まれた闇に沈む空き地の一角に、二人の男が立っていた。 「全くもって困ったものだ」  青いネクタイを締めた男は、黒く焦げた倒木を見つめながら、やれやれと深いため息をつく。 「アレのチカラの増え方が思ったより早いようです。『協力者』がいるのではありませんか?」  男は隣に佇む小豆色のジャージを着た男に問うた。 「そのようだ。しかし、アレがいるせいで、チカラを持っている人間の嗅ぎ分けが出来ないので難しいな」 「あの教師だけでも厄介だというのに、最近は常に人間がそばにいる。……忌々しい」  ギリギリと歯軋りをしながら、ネクタイの男は口惜しそうに言う。  目の前に常にチラつくご馳走を、ただただ指を咥えて見ているだけの日々が続いているのだから、悔しさばかりが募る。 「君のその器は、あの教師と旧知でしょう? 引き剥がすのにちょうどいい記憶か何かないんですか?」  問われたジャージの男は、人差し指をずぶりと自分の頭に突き刺し、グリグリと頭の中をかき混ぜるが、あまりいい顔はしない。 「色々と記憶を探ってみたが、あの教師、実家は会社を経営しているような裕福な家庭らしいということしか分からないな」 「ほう、確かにいい車に乗っていましたねぇ」  ネクタイの男は、先日この神社跡地で偶然出会(でくわ)した時のことを思い出す。  人間は裕福であればあるほど、持っているものの質が違う。それくらいは彼らも知っていた。 「器の主とは同じ大学、同じサークルで、学校外でも会う程度に親しくしていたことまでは分かるが、奴とは同じ年に卒業していないので、交流はそこで一度途絶えているようだな」 「おや、留年というヤツですか? あの教師のほうが?」 「留年ではなく、休学らしい。一年ほど休学していて、器の主が卒業するまでは交流があったようだ。どうやらこの学校での再会も随分と久しぶりらしいし、使えそうな情報は特にないな」  ジャージの男は自分の頭から指を抜き取ると、深い息をついて首を左右に曲げる。ゴキゴキと小さく関節が鳴った。 「学校内ではやはり難しいかもしれませんね」 「アレの家は学校から近いと聞く。しかし、家という存在もまた厄介だな」 「我々は家の中の人間に招かれなければ、入れませんからね」  家とはそこに住む人間を守る社だ。強大なチカラを持っていればまるごと破壊してしまえるが、人間の身体を間借りしている以上、そこまで大きなチカラを使うことは出来ない。  人間に憑き、人間の社会に紛れながら、神に近しいチカラをもつアレを食らうことさえ出来れば、封印される以前のようにまた『鬼』として、人間の脅威となれる。 「人を喰らって、多少でもチカラを増やせればいいんですがね」 「人間の姿で人を喰らうのはリスクが高すぎるからな」  鬼がチカラを得る方法は、人の命や魂を取り入れること。それらを失った身体は、現代社会において放置するとすぐ事件だなんだと騒がれてしまうので、難しい問題だ。 「分かっていますよ。ひとまずは、アレが学校や家の外で一人きりになる機会を窺うしかありませんね」 「俺のほうは身体を動かす授業だからな。ケガの一つでもさせれば、一人の時間を作れるはずだ」  座学と違い、体育の授業はいくらでもその機会に恵まれる。  アレに常に付き添っている数名の生徒たちが邪魔ではあるが、教師という立場を使えばなんとか出来ないこともないだろう。 「羨ましい話です。ああ、アレの顔は綺麗で気に入っているので、ケガをさせるなら顔以外にしてくださいね」 「お前のリクエストなど知らん」 「美意識のない方ですねぇ」 「どうとでも言え。食えればいいんだよ」  ジャージの男の目が、暗闇の中でただ赤々と、小さな鬼火のように光っていた。

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