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壱斗の理由

「おりべ……いちと?」  ラケットケースに書いてある名前。  それを見て暁義は初めて壱斗の名前を知った。 「……何?」 「あ、ごめん。読み方合ってる?」 「うん」  同じクラスに、同じ部活。高校に入ってからそれなりに同じ空間で同じ時間を過ごしてきた。  だが高一の夏、二人で練習をするようになって漸く名前も知らないことに気づいた。 「カッコイイ名前だな」 「そう? 俺、嫌いだけど」 「カッコイイって! 俺なんて暁義だからなんかじいさんみたいで。字も堅苦しいし」 「あー、難しい字だよね」  互いに知らないことばかりで、唯一分かっているのはテニスが好きだと言うことだけ。それが二人の唯一の共通点だった。 「字画多すぎ……だから織部みたいなカッコイイ名前って羨ましいと思うよ。なんか今時って感じ」 「でもitとか一斗缶とか、からかわれるから大嫌い」 「そっか……俺は好きだな」 「あっそ……まぁ…嘉瀬だったら、名前、呼んでもいいよ」 「マジ? じゃ、壱斗も名前で呼んでよ」 「じいさんっぽくて嫌なんじゃないの?」 「そうなんだけどさ……今更変えられないし」 「…じゃあ、アキってどう? じいさんっぽくないじゃん」 「アキ……なんかイイな」 「だろ? もし俺らがダブルス組んだときも、その方が呼びやすいし」 「そうだな…いつか、一緒にダブルス組もうな!」  この日だった。この日、二人の共通点が二つに増えた。共通点が増えたことで壱斗との距離が縮まり、二人だけの練習が特別なことに思え、自分に向けられる笑顔に心臓が高鳴った。  この日、初めて暁義は壱斗に対して特別な何かを感じたように思う。  それからいろんな発見がある度に自然と距離が近づき、暁義は壱斗を好きになった。  隣にいるだけでドキドキとした高鳴りを覚えたり、少し触れただけの手を熱く感じたり。  初めて恋をしたような錯覚を覚えるほど、壱斗に対する感情は新鮮で特別なものだった。  ◇ ◇ ◇ 「久志、壱斗が名前のこと言われるの嫌いだって知ってるだろ」 「…っ」  暁義の言葉に宮丸は何も返せず、気まずそうに視線を泳がせる。 「アキ…」 「壱斗も。喧嘩するなら外でやれよ…俺達を巻き込むな」 「……ごめん」  素直に謝る壱斗に一瞬だけ視線を向けると、暁義は荷物を手にし、図書室を後にした。  とてもじゃないが、勉強する雰囲気も、気分も削がれてしまった。  もう終わった関係なのに、あんなに激怒することなんてないだろう。それなのにどうして壱斗があんなに怒ったのか。  軽く頭を振り、暁義はそれ以上深く考えるのをやめた。どうせお気に入りのモノを取られそうになって惜しくなったんだろう。  暁義はもう壱斗の言葉を信じないと決めたのだ。  もう、信じたくない。 「アキっ」  廊下の角を曲がったところで、後ろから名前を呼ばれる。  壱斗が息を上げながら駆けてきた。 「アキ……さっきは、その…ありがとう」  暁義が足を止め向き合うと、壱斗は数回深呼吸して息を整えている。 「別に……周りの迷惑になっていたから。それに……」  そこまで言葉を吐いて、暁義はハッとした。何を言おうとしていたのか。 「それに?」  言葉の続きに仄かに期待を滲ませたような壱斗の顔。  その気もないのに変な期待を持たせるような言動をするわけにはいかない。 「あ、れは…煽った久志が悪かった。ただ、それだけだ」  暁義は誤魔化すように言葉を捲し立て、早く話を終わらせようとする。 「…そっか……何か、巻き込んで、ごめん」  一瞬沈んだ表情を見せ、そうだよね…と壱斗が呟いた。 「……お前、好きな人の為にこの大学選んだって…」  壱斗の沈んだ表情に何かを思ったわけじゃなかったが、先刻図書室内で聞いた話と自分の記憶が矛盾していてすっきりとしない。  もう関係ないのだから気にしなければいい話だが、暁義はどうしても聞いてみたかった。 「え、あ…うん……アキも知ってると思うけど…俺、もう現役でテニスするのって難しいじゃん? 正直、テニスなんかやんなきゃ良かったって、思ったこともあった…けどやっぱ俺、テニスが好きで…諦められなくってさ」  照れくさそうに、そしてどこか言い難そうに壱斗が話し始める。  時折恥ずかしそうに頬を掻いたり、昔を思い出しているのか、懐かしそうに遠くを見つめたり……そんな仕草の一つ一つが、暁義の良く知る壱斗の癖ばかりで、そう昔のことではないのに懐かしさを感じた。 「夏、引退するってなったときにさ…」  刹那、壱斗の表情が曇りを見せる。  あの日のことは、暁義もはっきりと覚えている。  無言で涙を流す壱斗の背中。いつもは大きく、自信に溢れていたソレが自分だけに見せてくれた本音。  それが嬉しくて、でもそれ以上に、痛いほど伝わってくる壱斗の悔しさが暁義の中に強く残っていた。  涙を流す壱斗に何の言葉もかけることが出来ない自分の不甲斐なさ。  あの日のことは今でも忘れない。 「やっぱりテニスと離れたくないって思ったんだよね。だから、今の学部入って指導者の資格取ろうって。指導だったら、俺でも関われるかなって」  まぁ、指導者に向いてるかどうかは分かんないけどな、と壱斗が笑顔を見せる。今選んだ道に何の迷いもないと言うように。  陽に照らされた笑みは、まるでテニスに励んでいたあの頃を思わせるほどキラキラと輝いて見えて、思わず胸が高鳴る。 「…好きな人ってのは…?」  自分の感情を誤魔化すように、暁義は質問の答えを促した。  壱斗が今の学部を選択した理由はわかったが、肝心の、好きな人の為に…という話が全く出ていない。  いくら思い返しても、学生時代壱斗に進路先を聞かれた記憶はないし、高校のときの壱斗と言えば、交流試合は女の子と知り合うチャンスと言うくらい女の子大好きで、思わせぶりな様子はなかったように思う。  告白の返事さえ「付き合ってもいい」だったのだ。告白する前から自分を好きだったとはどうしても思えない。 「アキがこの大学受けるって知って…大学でも、俺が努力してる姿をやっぱりアキに見てて欲しかった。だから、本当はアキの為って言うより、俺の為なんだけどね」  壱斗が鼻の頭を恥ずかしそうに掻きながら話す。  暁義がこの大学を受けるから自分も受けた。確かに壱斗はそう言った。  今までの会話の流れからすると、壱斗は暁義が告白する前から好きだったということになる。 「壱斗の好きな人って…?」  思わず暁義は先刻と同じ言葉を口にした。  まさか、そんなことがあるはずないと、聞き間違いであることを確認するように。 「また同じ質問?」  しかし壱斗は困ったように眉根を寄せながらクスッと笑い、小さな声で「アキだよ」と答えた。 「だって…お前…」  混乱した頭で何か言わなければと必死に考えるが、思考は追いつかず、出ない言葉にただ口だけが音を発さずに動く。  暁義が困惑していると、壱斗の視線が床へと落ちる。 「今更、こんなこと言ってごめん…ずっと好きだった…なのに、ごめん…」  それだけ呟くと、壱斗は静かに踵を返した。  来た廊下を戻っていく壱斗の背中は寂しげで、何か言葉をかけるべきだったんじゃないかと後悔が襲う。  ――何を? どんな言葉を?  その背中が角を曲がり視界から消える。  追いかけたかった。追いかけて、寂しげなその背中を抱き締めたかった。しかし、これ以上振り回されたくないと突き放したのは自分だ。  今この中途半端な関係でそんなことをしたら、また以前をと変わらないような気がして、やっぱり一歩を踏み出すことは出来なかった。  思いだけじゃ、どうしてどうにもならないのだろう…。  壱斗を見送ったまま、暁義はその場に立ち尽くしていた。  今まで壱斗と話していた言葉の数々が頭に浮かんでは消える。  同時に浮かぶ壱斗の表情。  悲しげな表情ばかりの中、一度だけ仄かに期待を滲ませた表情を見せた。  あれは、一瞬言葉に詰まったときだ。  ありがとうと言う壱斗に思わず口が滑りそうになって…改めてあの時何を口走ろうとしていたか思い返す。 『それに……壱斗に怪我させたくなかった』  一瞬、確かにそう思った。  喧嘩で怪我することくらい、男ならあってもおかしくないことなのに、心のどこかで守りたいなんて今でも思っている自分がいるのだろうか、と暁義は愕然とした。  断ち切ったはずなのに。 「未練タラタラじゃねぇかよ…」  暁義は一人、自嘲的に笑いその場を後にした。

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